■ガイド 久木野〜薩摩布計間

 久木野を出てからの廃線跡は、相変わらず真新しい道路に変貌しているが、この道路が終わった先も、引き続いて工事が行われており、このような人口の希薄な、現在の狭い道路でも交通量がほとんどないような状況で、新しい道路が本当に必要なのか、はなはだ疑問である。ただ、まだ工事が始まっていないところは、久木野から薩摩布計までの8キロ余りの間、休みなく続いていた1000分の30前後の上り勾配をもった線路敷が、趣豊かに残っている。

 そして、前方にこんもりとした山が見えると、その山にひれ伏すかのように、線路は半径が160メートルと200メートルという、かなり急な複合カーブで構成された右回りのループを描いていた。これが、全国的に見ても、肥薩線の大畑ループに次いで建設された歴史を持つ、通称大川ループと呼ばれたループ線である。

 線路跡は、橋桁の上に枕木を載せたままの菜ノ木橋梁の先で並行県道と交差すると、いよいよループ線にかかる。そして、廃線敷の道が右カーブを描き始めたあたりで、突然前方に白っぽい建物が前方を遮るように建っているのが見えてくる(E地点)。これは、山野線廃線後、この先の第一・第二大川トンネルを、シイタケ栽培に活用していた関連施設の跡らしい。さらに、この建物の脇からは、こことトンネルの間で物資のトロッコ輸送をするために撤去されなかったと思われるレールが、そのままに残されている。もっとも、シイタケ栽培に関しては、採算が取れずに開始後数年で取りやめられたという。

築堤
大川ループ手前の築堤と菜ノ木橋梁跡。
この先からいよいよループ線にかかる 
小屋
シイタケ栽培に使われていたという小屋の 
脇からレールが残っている(E地点) 

 水俣を出て最初のトンネルである第一大川トンネルは、全長482メートルの、大川ループの下段を構成するトンネルである。ただ、入り口はシイタケ栽培の残骸がそのままであるうえに雑草が生い茂り、見るも無残に荒れ果てている。トンネル口も蓋がなされ、通り抜けはできない。そのため、トンネル脇の道を上にあがって、そこからループの上段の方によじ登るとするが、改めて見上げると、このような小さい半径で1周するだけでもこれほど高度が上がるのかと驚くほど、高い築堤が築かれている。重機のない時代に、人力や馬力でこれほど大きな築堤を築くのは、相当な大工事であったろうと思う。

大川ループ2
大川ループ上段にて(F地点)。左に降りていく 
線路はループを描いて右奥の谷へと下っていた 

 この築堤をよじ登ったF地点にもレールが載ったままで、ここから見下ろせば、先ほどの菜ノ木橋梁あたりの廃線敷が遠くに見える。そして、ここから栗野方に歩くと、すぐにこれまた入口が閉鎖された全長180メートルの第二大川トンネルに突き当たる。

 逆に、水俣方に下っていこうとすると、こちらはかなり草木が生い茂っており、第一大川トンネルの栗野口に行き着くのは難渋する。ただ、シイタケ栽培をしていたおかげで、脱線時の転落防止のためと思われる補助レールを一部に従えた線路は最後まで残ったままで、小さな距離標なども散見される。

 さて、ループを終えた、第二大川トンネルの先の廃線跡は、並行道路である県道15号線から見上げると、少しだけ雰囲気を感じることができるし、ダート道を這いあがれば廃線敷に出ることもできるものの、どこに取り入っても閉鎖されているトンネルに行く末を阻まれる。そして、廃線敷が最後の久木野トンネルに入ってしまうと、私たちは県道でかなり遠回りな峠越えをせざるを得なくなる。

 この熊本県道15号線と、この道に接続する鹿児島県道421号線は、道幅がかなり狭く、こんなところに代替バスが走れるのかなあと思ってしまう。事実、バスはこの鉄道跡と並行するルートを通らずに、山越え区間は深渡瀬から西山野に抜ける国道を経由しているのだという。そのため、この国道ルートから取り残される格好となった久木野や薩摩布計へは、それぞれ国道ルートから分岐する区間運転で補っているようである。それでもさして問題ないほど、久木野〜布計間のローカル輸送需要はなかったということであろうが、実際この道を通ってもクルマにすれ違うことはほどんどない。

 全長1236メートルの久木野トンネルを抜けると、すぐに峠の薩摩布計駅であった。標高は439.5メートルもあり、久木野からひと駅で300メートルも上ったことになる。この布計は、明治24年に鉱脈が発見され、35年から採掘が開始された金鉱山のあったところで、山野線は金鉱石輸送や従業員輸送でも活躍したという。

薩摩布計駅跡
薩摩布計駅跡。ホームの一部が残っている。
廃線敷の先には久木野トンネル跡がある 

 そのゴールドラッシュも今は昔、ひっそりと静まり返る山里の廃駅の近くには小学校もあったが、これも廃校になって久しいようである。その小学校の校門前にその名もズバリの「布計小学校跡」バス停がある(G地点)が、大口からの山野線の代替バスはここまでやってきていた。と、文章が過去形になったのは、実は利用者が少なくて、代替バスが平成8年に廃止されたのである。

 山野線の鉄道代替バスは、全国的にみても近隣の宮之城線代替バスに次いで成績が悪かったそうで、鉄道代替バスが廃止になったのは全国初のケースと思われる。もっとも、それではいくら少ないとはいえ、地元のお年寄りが病院に通う足がなくなるということで、大口市が毎週水曜日に1往復だけ、バスを走らせている。つまり、現在、薩摩布計への代替バスは、わずか週1便しかないのである。

 山野線の旅客列車は開通以来、SL牽引の客車列車が担ってきたが、昭和37年2月に、1両にエンジン2基を積んだ勾配線区用のディーゼルカーが導入された。この効果は絶大で、久木野から薩摩布計まで27分ほどかかっていた所要時間が、10分も短縮された。

 SLの時代に坂道にあえいだ列車が一息入れていた薩摩布計の駅も、重要度が低くなったこともあってか、昭和40年に無人化された。現在は、プラットホームの一部のほか記念碑、駅名標、車軸、踏切警報機が残されている。



■ガイド 薩摩布計〜薩摩大口間

堂原トンネル跡
県道脇に顔を出す堂原トンネル跡(H地点) 

 薩摩布計を出た線路は、1000分の33の急勾配を、約7キロにもわたって、ひたすら今度は下りつづけていた。すでに廃線後十余年の年月が経ち、線路を剥がしたまま放置されている廃線跡の上を歩くのはさすがに困難になっているが、ルート自体は並行県道から時折目にすることができる。

 特に県道脇のH地点に、突然全長142メートルの堂原トンネル跡が、その口を塞がれながらも顔を出しているのには驚かされる。ここはトンネルの水俣方の廃線敷が県道の拡幅に利用されたために、唐突にトンネル口が県道に顔を出しているように見えているのだが、このような道路の拡幅に利用されている以外の区間に関しては、廃線跡はいまだ利用の方途もなく、手付かずのままである。

 延々と下り坂を進むと、ようやくあたりが開けるようになり、廃線跡はその山裾を進むようになる。さすがに人家のそばになってくると、丁寧に草刈りがなされている箇所も見受けられる。そして、鉄道電話らしき遺物の残る(J地点)左カーブを曲がりきると、右側にひっそりとプラットホームが見えてくる。なぜか一本だけ車軸も放置されているが、ここが西山野の駅跡である。

 もっともこの駅は、太平洋戦争の終戦間際に、乗降客の少ない駅に列車を停車させるのは無駄であるということで、いったん営業が休止された経緯がある。その約2年後に復活したのだが、その直後の昭和24年資料修正の5万分の一地形図を見ると、この駅の場所が別場所(I地点)になっている。しかも、昭和27年資料修正版には、駅の記載自体がない。私の持っている古い時刻表を見る限りでは、キロ程の変化はないし、所要時間の差から判断しようとしても、各列車で余りにもまちまちなので、この時期の西山野駅が本当にI地点にあったのか、よく分からない。この経緯をご存じの方はご教示いただけると幸いである。

 西山野の駅跡のすぐ東側は、老人ホームへの道路で廃線跡は削られているが、それからは情緒豊かな築堤などを見せながら(K地点)、東へ進んでいく。

 L地点からの廃線跡は2車線道路となる。以前はこのあたりで、山野駅から十曽川沿いに熊本県境付近にまで遡っていた林用馬車軌道と立体交差をしていたが、道路となった廃線敷に跡はない。そして、廃線跡の道路は左へカーブするようになるが、やがて前方に道幅の狭い橋梁が見えてくる。

西山野〜山野間築堤
西山野〜山野間に残っている趣深い築 
堤(K地点)。道路を通す穴も美しい 
  
旧牛ノ河川橋梁
旧牛ノ河川橋梁はそのまま道路になっ 
ている(M地点)。橋梁のほぼ中央には 
32キロの距離標が見える(左上に拡大) 

 これは、山野線の牛ノ河川橋梁をそのまま転用したもので、昭和53年の水害時に架け替えられたばかりであったためか、道幅がここだけ狭くなる不便を乗り越えて、今もなお生き残っている(M地点)。単線鉄道用の幅の狭いガーダーの真ん中付近に、へこみながらも32キロの距離標まで残っているのも面白いが、歩行者は、踏板が金網状になっている、保線員用だった通路を通なければならないのも珍しい。金網は新しいものに替えられてはいるが、相変わらず下はスケスケに見えているから、高さはそれほどではないが、高所恐怖症の人には渡りづらいかもしれない。

 この橋梁を過ぎると、山野駅跡は間もなくである。駅跡は公園になっていて、薩摩布計駅跡と同様の遺物がある。この先の鹿児島県内の駅跡は、宮之城線のものも含めて、このような形になっていることが多い。

 しかし、旧駅前通りがあまりにも寂しいのには驚かされる。実は、山野駅も、先ほどの西山野駅も、いずれも町のはずれにあり、どちらかというと両駅の中間点が町の中心に近い。どうも、新潟県にあった越後交通長岡線の与板と上与板の関係(昨年探訪したのに未だホームページに掲載していませんが・・)のように、肝心なところに駅がない印象である。しかも、山野と西山野に関しては、両駅の間の線路ルート自体も町の中心を避けているように見える。

薩摩大口駅跡
薩摩大口駅跡の栗野方の片隅に、車掌車や 
腕木信号機などがひっそりと置かれている。
信号柱に付いた表示が駅の規模を物語る 

 山野の町自体がそれほど大きくないということもあるが、町はずれにあったこの山野駅の利用客は、やはり多くなかったようである。隣の西山野より乗降客が少なかった時期もあったほどで、昭和46年に早くも無人化され、晩年はプレハブの簡素な駅舎となっていた。

 これほどのちっぽけなところの名前を、この線の名として冠したのは、開通当初こそ終点であったから理解できるにしても、その後も変えられなかったのは不思議である。

 山野駅跡の先も、廃線跡は道路となっている。牛尾川にかかっている橋の欄干が、機関車の形を象ったデザインになっているのを除くと、歩道部分の舗装の色が塗り分けられているこの道路に廃線跡の匂いはなく、郡山八幡の駅の跡も残っていないようだ。

 そして、機関支区も置かれていたこの路線の中心駅、薩摩大口の駅跡地には、「ふれあいセンター」と称する、大口市の公民館や図書館の入った巨大な建物が建っている。ここに鉄道が通じていたことを示すのは、このふれあいセンターの中にある記念館の展示と、駅跡の敷地の栗野方の端に、車掌車と腕木信号機などの遺物がひっそりと残されていることぐらいである。

  つづき

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