水俣を出て最初のトンネルである第一大川トンネルは、全長482メートルの、大川ループの下段を構成するトンネルである。ただ、入り口はシイタケ栽培の残骸がそのままであるうえに雑草が生い茂り、見るも無残に荒れ果てている。トンネル口も蓋がなされ、通り抜けはできない。そのため、トンネル脇の道を上にあがって、そこからループの上段の方によじ登るとするが、改めて見上げると、このような小さい半径で1周するだけでもこれほど高度が上がるのかと驚くほど、高い築堤が築かれている。重機のない時代に、人力や馬力でこれほど大きな築堤を築くのは、相当な大工事であったろうと思う。
 |
大川ループ上段にて(F地点)。左に降りていく 線路はループを描いて右奥の谷へと下っていた |
この築堤をよじ登ったF地点にもレールが載ったままで、ここから見下ろせば、先ほどの菜ノ木橋梁あたりの廃線敷が遠くに見える。そして、ここから栗野方に歩くと、すぐにこれまた入口が閉鎖された全長180メートルの第二大川トンネルに突き当たる。
逆に、水俣方に下っていこうとすると、こちらはかなり草木が生い茂っており、第一大川トンネルの栗野口に行き着くのは難渋する。ただ、シイタケ栽培をしていたおかげで、脱線時の転落防止のためと思われる補助レールを一部に従えた線路は最後まで残ったままで、小さな距離標なども散見される。
さて、ループを終えた、第二大川トンネルの先の廃線跡は、並行道路である県道15号線から見上げると、少しだけ雰囲気を感じることができるし、ダート道を這いあがれば廃線敷に出ることもできるものの、どこに取り入っても閉鎖されているトンネルに行く末を阻まれる。そして、廃線敷が最後の久木野トンネルに入ってしまうと、私たちは県道でかなり遠回りな峠越えをせざるを得なくなる。
この熊本県道15号線と、この道に接続する鹿児島県道421号線は、道幅がかなり狭く、こんなところに代替バスが走れるのかなあと思ってしまう。事実、バスはこの鉄道跡と並行するルートを通らずに、山越え区間は深渡瀬から西山野に抜ける国道を経由しているのだという。そのため、この国道ルートから取り残される格好となった久木野や薩摩布計へは、それぞれ国道ルートから分岐する区間運転で補っているようである。それでもさして問題ないほど、久木野〜布計間のローカル輸送需要はなかったということであろうが、実際この道を通ってもクルマにすれ違うことはほどんどない。
全長1236メートルの久木野トンネルを抜けると、すぐに峠の薩摩布計駅であった。標高は439.5メートルもあり、久木野からひと駅で300メートルも上ったことになる。この布計は、明治24年に鉱脈が発見され、35年から採掘が開始された金鉱山のあったところで、山野線は金鉱石輸送や従業員輸送でも活躍したという。
 |
薩摩布計駅跡。ホームの一部が残っている。 廃線敷の先には久木野トンネル跡がある |
そのゴールドラッシュも今は昔、ひっそりと静まり返る山里の廃駅の近くには小学校もあったが、これも廃校になって久しいようである。その小学校の校門前にその名もズバリの「布計小学校跡」バス停がある(G地点)が、大口からの山野線の代替バスはここまでやってきていた。と、文章が過去形になったのは、実は利用者が少なくて、代替バスが平成8年に廃止されたのである。
山野線の鉄道代替バスは、全国的にみても近隣の宮之城線代替バスに次いで成績が悪かったそうで、鉄道代替バスが廃止になったのは全国初のケースと思われる。もっとも、それではいくら少ないとはいえ、地元のお年寄りが病院に通う足がなくなるということで、大口市が毎週水曜日に1往復だけ、バスを走らせている。つまり、現在、薩摩布計への代替バスは、わずか週1便しかないのである。
山野線の旅客列車は開通以来、SL牽引の客車列車が担ってきたが、昭和37年2月に、1両にエンジン2基を積んだ勾配線区用のディーゼルカーが導入された。この効果は絶大で、久木野から薩摩布計まで27分ほどかかっていた所要時間が、10分も短縮された。
SLの時代に坂道にあえいだ列車が一息入れていた薩摩布計の駅も、重要度が低くなったこともあってか、昭和40年に無人化された。現在は、プラットホームの一部のほか記念碑、駅名標、車軸、踏切警報機が残されている。
 |
| 県道脇に顔を出す堂原トンネル跡(H地点) |
薩摩布計を出た線路は、1000分の33の急勾配を、約7キロにもわたって、ひたすら今度は下りつづけていた。すでに廃線後十余年の年月が経ち、線路を剥がしたまま放置されている廃線跡の上を歩くのはさすがに困難になっているが、ルート自体は並行県道から時折目にすることができる。
特に県道脇のH地点に、突然全長142メートルの堂原トンネル跡が、その口を塞がれながらも顔を出しているのには驚かされる。ここはトンネルの水俣方の廃線敷が県道の拡幅に利用されたために、唐突にトンネル口が県道に顔を出しているように見えているのだが、このような道路の拡幅に利用されている以外の区間に関しては、廃線跡はいまだ利用の方途もなく、手付かずのままである。
延々と下り坂を進むと、ようやくあたりが開けるようになり、廃線跡はその山裾を進むようになる。さすがに人家のそばになってくると、丁寧に草刈りがなされている箇所も見受けられる。そして、鉄道電話らしき遺物の残る(J地点)左カーブを曲がりきると、右側にひっそりとプラットホームが見えてくる。なぜか一本だけ車軸も放置されているが、ここが西山野の駅跡である。
もっともこの駅は、太平洋戦争の終戦間際に、乗降客の少ない駅に列車を停車させるのは無駄であるということで、いったん営業が休止された経緯がある。その約2年後に復活したのだが、その直後の昭和24年資料修正の5万分の一地形図を見ると、この駅の場所が別場所(I地点)になっている。しかも、昭和27年資料修正版には、駅の記載自体がない。私の持っている古い時刻表を見る限りでは、キロ程の変化はないし、所要時間の差から判断しようとしても、各列車で余りにもまちまちなので、この時期の西山野駅が本当にI地点にあったのか、よく分からない。この経緯をご存じの方はご教示いただけると幸いである。
西山野の駅跡のすぐ東側は、老人ホームへの道路で廃線跡は削られているが、それからは情緒豊かな築堤などを見せながら(K地点)、東へ進んでいく。
L地点からの廃線跡は2車線道路となる。以前はこのあたりで、山野駅から十曽川沿いに熊本県境付近にまで遡っていた林用馬車軌道と立体交差をしていたが、道路となった廃線敷に跡はない。そして、廃線跡の道路は左へカーブするようになるが、やがて前方に道幅の狭い橋梁が見えてくる。
|