■ガイド 薩摩大口〜栗野間

 薩摩大口駅の栗野方では、2キロ近くにわたって宮之城線と線路を並べていたが、その跡は2車線道路と化している。L地点で、雑草が生い茂る宮之城線跡を右方へ見送った後も、山野線跡は引き続き道路となって伸びており、私が探訪した平成14年の春には、市山川橋梁があった場所を除いて完成、一般供用されていた。山野線廃線後の早い時期から道路化されていた西菱刈付近と、早晩つながるようであった。

西菱刈駅跡付近
西菱刈駅跡付近に残る「ハエタタキ」 

 西菱刈の駅は、道路に沿ったホーム一本のみの駅であったが、その道路が線路跡を活用して拡幅されたため、プラットホーム等の遺物はない。ただ、駅跡の水俣方に、通票閉塞用の信号線を束ねた電柱(その形から俗にハエタタキと呼ばれる)が、道路わきに1本だけ残されているのが目に付く。

 国道268号線のバイパス的役割を担い始めている廃線跡の道路は、さらに菱刈駅跡の先まで続く。伊佐郡唯一の町、菱刈町の玄関口であった菱刈駅跡は、ほかの駅跡と同じような遺物が並んでいる。旅客車両に比べてコンパクトであるわりには形に個性があるからか、ここで鎮座している車両も、貨物列車の最後尾に付いていた車掌車である。駅跡の栗野方には、ハエタタキ型の電柱と農業倉庫が残っていて、物資の集散地であったであろう昔を彷彿とさせる。

 ただ、菱刈と聞いて思い浮かぶ、日本一の埋蔵量を誇る菱刈金山は、鉄道駅としてはここが最寄りであるものの、本格的に開山したのが昭和60年ということもあって、当初から鉱石は加治木港までトラック輸送されたのち、四国へ航送されている。つまり、この間に鉄道が入る余地はないわけで、布計金山に関連した輸送では多大な貢献をした山野線も、ここ菱刈の金山ではまったく蚊帳の外であった。

 廃線跡の道路は、国道と交差するM地点の先で、少しの間、通学専用道路となった後、再び新しい道路となっている。菱刈中学への通学用途しか考えられない場所にあった前目駅の名残はすでにないが、この道路が突然終わるところでは、少しの間ではあるが、築堤が残されている(N地点)。

湯之尾駅跡
ホームの残る公園となった湯之尾駅跡 

 やがて、線路跡は線路があった当時の幅のままの、いわゆる昔の雰囲気を残した道路となるが、山野線はすぐ近くの湯之尾温泉街には向かわずに、これをしばらくやり過ごしたところに湯之尾駅を設けていた。ここにはプラットホームと線路が残っているのが特筆されるが、駅跡自体は道の駅として綺麗に整備されており、線路も敷き直したように見えないでもない。

 境川にかかっていた橋梁がそのまま残されている(O地点)のを過ぎて、1キロほど先に進むと、三たび「ハエタタキ」が、それも2本残っているところにさしかかる(P地点)。そして、ここから川内川を渡る手前までの廃線跡は、地元の栗野町により、サイクリングロードとして整備されている。

 昭和34年に増設されたホーム1本の無人駅・稲葉崎の駅や、山野線で最長を誇った川内川橋梁は跡を残していない。しかし、サイクリングロードの途切れた川内川の栗野方には、廃線後そのまま放置されている築堤が残っている。よく見ると、その北側にはさらに低い土盛りが並行している。これは、川内川の改修に伴う川内川橋梁の架け替えにより、昭和27年に放棄された開通当初の築堤跡なのである。

 ここから栗野方へと辿っていくと、大きいほうの築堤に、農道を越えていた小さな橋梁が、簡素なガーダーの上に枕木を載せたまま残っている一方で、旧線の低い築堤の方にも、かなり低いところに橋台が残され、今なお面白い対比を見せている(Q地点)。

新旧橋梁跡
川内川東方で新旧並んでいる橋梁跡(Q地点)。
手前の低い橋台(赤矢印)が開通当初のもの 
栗野駅南方
肥薩線との合流点付近の廃線敷にある、
古レールを利用した造形物(R地点) 

 この先で国道と立体交差していたところでは、山野線の線路の上を越していた国道が、すでに地平を走るように改修されている。そして、線路跡はぐんぐんと左へ曲がって肥薩線に擦りよっていくが、肥薩線用のものと仲良く並んでいた場内信号機は撤去されているものの、そのすぐそばには古レールを利用して「山野線跡地」という字を描いたオブジェ(?)がある(R地点)。そして、肥薩線と並んで生活道路を越えていたところでは、肥薩線と共用していた石積みの橋台はそのままながら、山野線用のガーダーのみ撤去されている。

 栗野駅では、山野線の列車は主に駅舎側の1番線から発着していた。逆の言い方をすると、1番線は山野線専用であり、肥薩線の列車は直接1番線には入線できない線路の配線をしていた。山野線亡き現在、旧1番線には金網が張られており、乗客は肥薩線の列車に乗るために、必ず跨線橋を昇り降りしなければならない不便を強いられている。もっともその乗客も近年めっきり少なくなって、駅業務も委託されているうえに、ここに着いた時にはすでに夜間態勢に入っていたため、駅はすっかり無人で、非常に寂しい思いをした。腹が減ったなあと思って、駅前で飯でもを食おうと思ったが、これも何もなかった。



■国鉄山野線あとがき

 山野線跡探訪のハイライトは、間違いなく大川ループ付近であると断言できる。このループ線跡や、その周りを歩き回っていると、この大川という集落が、水俣川水系のほぼどん詰まりの集落であるにもかかわらず、廃屋や荒れた田畑を目にしないのに驚かされる。そのたたずまいの美しさは、日本の原風景のようであるといっても過言ではない。

大川集落
日本の原風景のような大川集落。
奥に見えるのが大川ループの築堤 

 この美しい景色に包まれながら、せっかく残った線路敷の草刈りや手入れをして、北海道の美幸線跡のように、軌道自転車に乗れたりなんかしたら楽しいだろうになあと夢見てしまう。もっとも、レールが残っている区間は1000分の33の急勾配の中途であり、安全上の問題からも実現不可能なことは百も承知であるのだが・・・。

 ところで、山野線は廃止されたけれど、鹿児島県内のJRローカル線は、肥薩線や吉都線、日南線、指宿枕崎線が今でも活躍中である。ただ、指宿枕崎線の鹿児島口を除けば、いずれも厳しいものがあるなあという印象を持たざるをえない。

 SL時代には、機関区をはじめとする鉄道の諸施設が置かれ、一大ジャンクションとなっていた肥薩線の吉松も、短い編成のディーゼルカーが留まっているだけで、昔日の面影はない。同じく機関区が置かれていた志布志も、乗り入れ路線のうち2つが廃止されたこともあって、実際はホーム一本だけの無人駅と、目を覆うばかりの衰退ぶりである。以前は博多直通を含めた特急や急行も走っていた吉都線も、すっかりローカル線となって、国道を中心とする町並みの隅に駅がある印象、つまり地域社会からは断絶しているとまでは言わないでも、鉄道はもはや必要とされていないように見えた。

 これらの線区を運営しているJR九州の悩みがわかるような気がするが、かく言う私もいったん鉄道から意識が離れてしまった人々に対して、どのような利用促進の方策があるのか妙案はない。指宿枕崎線の末端部などでは、実際に廃止論議も起きているほどで、国鉄再建法から逃れることのできた各線区も、これから先も安泰とは限らないような、悪い予感を持った。

Last visited:May-2002 / Copyright 1996-2003 by Studio Class-C. All rights reserved.