この橋梁跡であるが、見れば見るほど不思議である。まず、橋梁跡が川や水路を跨いでいないばかりか、周りの地形もわざわざ橋梁を架けなければならないような形状をしていない。仮に、廃線跡の西側にある吉野川浄化センターが以前の地形をリセットするようにできたためにそう見えないと考えるとしても、反対の東側に広がっている田畑が、以前と劇的に地形が変わるほど変化したようには思えない。実際様々な旧版地形図を見ても、私の見た限りでは周辺は普通の田畑が広がるだけであり、ここに橋梁を架ける理由が見あたらない。
また、構造的にも少し変である。橋台は煉瓦積みの年代物であるが、2本ある橋脚は味気ないコンクリート製、しかもその間隔は不揃いときている。そして、煉瓦積みの橋台には、コンクリートで少しかさ上げされた跡がある。
これは橋台の間を一気に跨いでいた長い橋桁が、何らかの理由でいったん撤去され、その後寄せ集めされた様々な長さの短い橋桁でかけ直されたときに、その径間にあわせてコンクリート製の橋脚がたてられ、その橋桁の高さの不足分だけ橋台のかさ上げがなされた、と考えると説明はつく。ただ、これはあくまでも私の勝手な憶測であり、調べた限りでは戦時中にも川端貨物線が撤去された形跡はないようだ。どういう経緯でこうなったのか、ご存じの方はご教授いただければ幸いである。
この橋梁の南側に残る築堤は、上によじ登ってみるとなんと線路をそのまま載せているという、廃線後15年を経て貴重な痕跡である。ただ、左カーブを終えるD地点あたりからは、先ほど右にそれてくれた並行道路に再び吸収されて、工業団地や土砂採取場が広がる一帯となり、もはや痕跡もここまでかと思わせるが、どっこいその先に川端駅の跡がかなり残っているのである。
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川端駅跡の木材積込線跡。左にカーブしていた名残が 右のホーム跡の上屋のカーブでも伺えると思うが、実 は雑草の中にはレールまでもが埋まったまま(E地点) |
駅の西端こそ空き地になっているが、その東側をよく見ると、駅にあった日通の事務所が、かなり荒れ果てながらもしっかりと残っているのが目につく(E地点)。この建物の東側に木材積込線が延びていたのだが、今でも両脇の建物に挟まれた雰囲気で、なんとなく左にカーブしていた線路が敷かれていた雰囲気が判る。それどころか、右側の建物の鞍部をよく見るとこれはカーブしたプラットホームそのものである。それならと期待して、雑草を踏み分けて線路があったと推測されるあたりに入っていくと、なんとレールまでもがそのまま残されていた。
雑草の繁茂が激しくなる一方になり、冬季でさえ先へ歩を進めるのは事実上不可能になるが、実は木材積込線に関しては、この先もレールが完全に残されている。左にカーブした先の、木材の積み込みに使用していた2面2線の相対式のプラットホーム跡は、二見温泉の西側に現存していて、ここにはいったん引き返して道を時計回りに迂回することで容易に行くことが可能である(F地点)。
この木材積込線のホームのうち、西側のものには木材積込に使っていたと思われるクレーンの跡らしきものがある。この西隣にある貯木場を見ると、ここにも同様の構造をした対があるので、この貯木場から木材が吊り上げられて貨車に積み込まれていたであろうことが想像できる。さらにこの積込線のメインは木材であったはずだが、コンベアらしき痕跡や、トラックの荷台から直接無蓋貨車に積み込むことができる施設の跡も見受けられ、様々な物資が発送されていたようである。
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木材積込線末端のホーム跡(F地点)。コンベ ヤ跡の他、ホームの下にはレールも残されている |
貨物駅の構内西端から斜め方向に延びる木材積込線のほかにも、比較的規模の大きい分岐線があった。それは鉱石積込線であり、南方の野迫川村の立里鉱山から索道によって運ばれてきた銅鉱石を積み込むことを主目的とするものであった。この木材積込線と鉱石積込線は、日通の事務所の南で互いに45度のクロスをするという大変珍しい構内構造をしていた。
このクロスが残っているのか、雑草の種子を体じゅうにつけながらも一生懸命探したのだが、残念ながら見あたらなかった。鉱石積込線の線路があったはずのところにもレールは見あたらず、その先も木材会社の敷地のために確認はできなかったのである。ただ詳細な住宅地図を見る限り、鉱石積込線の敷地の形は完全に残っており、実際怪しい角度で曲がっているフェンスがあって、これが鉱石積込線跡のラインに沿っているものと思われる。
駅中心部から分岐していた木材・鉱石積込線の記述が先になってしまったが、駅中心部の側線が並んでいたあたりも、これまた雑草の中にレールが残されているのを見ることができる。ただ、ここはその隣にあった砂利積込線跡を含めて民間会社や五条市の輪郭団体の敷地となっていて、立入禁止の表示もあるので、お宝を目の前にしながらも勇気ある撤退をせざるをえなかった。おそらく、という頭書きをつけなければならないが、砂利積込線は撤去されていても、そのほかの側線はかなりオリジナルの形を残したまま、雑草や土砂の中に今なお埋もれているような雰囲気であった。
つづき
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