さらにその延長線上、京大の地震研究所の建物の脇には、我が国最初の山岳トンネルであり、かつ日本人技術者により設計施工されたとして鉄道記念物になっている、旧逢坂山トンネル東口が残されている(H地点)。延長664.8mのこのトンネルの掘削には、兵庫県の生野銀山の労働者を招致して工事にあたらせたが、彼らはせっかくイギリスから購入した削岩機を使用せず、ノミやツルハシによる慣れた手堀りの方法を主として、この長大トンネルを掘り抜いたという。
この逢坂山トンネルの完成は、それまで阪神間の天井川の下をくぐるトンネルしか施工経験の無かった技術陣に大きな自信と希望を与えただけでなく、費用も2割節減できたため、その後柳ヶ瀬トンネルをはじめとする、数多くの山岳トンネルが各地に建設される礎となった。
この、日本鉄道史において、記念碑的でかつ重要な意味合いを持つトンネルは、残念ながら入口からほんの10メートルほどで塞がれているものの、明治31年の複線化の際に掘られたトンネルと口を並べて、今もひっそりと佇んでいる。
ただ、トンネルの西口に関しては、昭和39年に開通した名神高速道路の蝉丸トンネル西口付近にとって替わっており、跡は微塵もない。ただ、日本道路公団もさすがに歴史あるトンネルを破壊したことに気がひけたのか、蝉丸トンネル上り線の上部の道路脇に、「旧東海道線逢坂山トンネルの西口は名神高速道路の建設に当りこの地下十八米の位置に埋没した」と記した石碑を建てている。
大谷駅は、逢坂山トンネルを出てすぐのところにあったが、この駅跡を含め、ここからの廃線跡は戦後しばらくまで荒れ地のまま放置されていたことが災いして、名神高速に利用されて埋没している。というより、将来の高速道路建設のために、わざと鉄道跡地が再利用されなかったというのが本当のところかもしれないが・・。
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名神高速道路の京都東インターチェンジ 北方に残るカーブした切通し跡(I地点) |
それはともかくとして、比較的曲がりくねっていた旧線跡は、泳いでいる人が息つぎをするように、所々名神高速の脇から顔を覗かせているのが面白い。
そのひとつは京都東インターチェンジの北方であり、ここでは緩やかなカーブを描く切通し跡が見受けられる(I地点)。これは、高速道路が鉄道に比べて曲線半径を緩和したために、廃線敷が残ったケースである。またインタの南方では、廃線跡は名神高速の西側に、一般道として顔を見せるようになる。沿道に遺物はなく、歩いても実感には乏しいものの、道路のルートはぐねぐねと忠実に線路跡を辿っている。
この道路が新幹線と交差するあたりのJ地点に、大塚信号所があった。ただ、奇妙なのは、この信号所が開設されたのは大正2年だったことである。当時、すでにこのあたりの東海道線は複線化されていたうえに、この地点は25/1000の急勾配の中途であるため、通常このような条件下では信号所は置かれない。
大正2年は東海道線の全線複線化が完成した年でもあるし、もしかしたら輸送能力を増すために、信号の閉塞区間を短くする目的でもあったのであろうか、私にはよくわからない。
旧線時代の山科駅は、駅の両方を1000分の25という急勾配に挟まれた、谷底のようなところにあった。現在の地勢でいうと、再び廃線跡が名神高速と合流して1kmほどの、名神高速の東京起点481.5km付近、ちょうど高速道路上にアーチが架かっているあたりになる。つまり、現在の山科駅にほど近い旧東海道沿いの本来の山科集落からは南へ、近年開通した京都地下鉄東西線で数えると、2駅半ほども離れていた。
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奈良線との合流地点にて(単線時代)。 黄色の柱の奥の家屋が旧線路敷上に建っている |
このあたりの東海道線旧線は、現在の名神高速と同様、大築堤を築いていた。そして、駅跡の先の上り勾配を登りきったあたりから、今度は高速道路の南側に廃線跡の道路が顔を出している(K地点)。
この道路はいかにも鉄道跡らしいカーブを描きながら、再び名神高速にぶちあたるが、その延長線上をたどる形で高速道路の北側に行くと、そこはもうJR奈良線の線路である。奈良線との合流地点はほとんど面影はないものの、民家の並びが明らかに周囲と違って、線路跡の方向に影響されているのが面白い。
ここからは、JR奈良線が東海道線跡そのものである。そのため、この区間の奈良線には、複線化の前から複線分の用地があったし、所々に古い施設が散見される。先述した稲荷駅のランプ小屋の他にも、東福寺〜京都間の鴨川橋梁の南側には、旧賀茂川橋梁(これも日本人が設計・施工した最初の橋梁という称号が与えられている)の石積みの橋脚が、橋梁下を走る道路の高さ制限表示の土台代わりに2脚(L地点)、またそのすぐ稲荷方には、疎水を越えていた煉瓦積みの橋脚も残存していた。
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