■ガイド 吹田〜上淀川橋梁間

 すでに沿革でふれたように、この区間の東海道線跡は、阪急千里線吹田駅の南から淡路を経由して、阪急京都線の崇禅寺駅の南までの区間そのものである。

 阪急淡路駅で京都方を見たとき、本線の京都線が右方へ比較的急なカーブを描いているのに対して、支線である千里線の方がまっすぐな方向へ出ているのは、東海道線の廃線跡利用をした千里線が、京都線よりも先につくられた経緯があるからである。

 この、阪急の線路敷にとって代わった区間を北から辿ってみる。まず阪急吹田駅付近の、阪急千里線と東海道本線が立体交差しているあたりから、南西方向に両者をなめらかにつなぐようなカーブを描く細い道路がある。これが、東海道線の開通当初に敷かれていた線路のルート跡である。

 もっとも、現地に立っても、あたりは家屋が密集して道路の幅が相当狭くなっていることもあって、どこにでもあるような、ただの市街地の中のカーブした道にしか見えない。一部の敷地の形を残して、名残はほとんど感じられないし、このカーブについては、いろんな文献で取りあげられ尽くしているので、ここではもう一つ興味深い事実をご紹介しよう。

 それは、北大阪電気鉄道開通直後である大正12年の旧版地形図を見ると、北大阪電気鉄道が東海道線と交差するすぐ南の東吹田駅(M地点・のちに廃止、現在は公園化)のあった場所から、このカーブへと延びる引込線状の線路の記載が見られることである(=地図に黄色で表示しているルート)。

 北大阪電気鉄道は、払い下げを受けながら、わずかに余ってしまった土地の有効利用を図るためにも、ここに車庫か留置線でも設けていたのであろうと想像される。

煉瓦積みアーチ
途中の小川を渡る、煉瓦積  
みの小さなアーチ(N地点) 

 さて、この廃線跡の道路のカーブを辿ると、阪急千里線の線路敷にぶちあたるが、ここには東海道線時代の残香が意外なほど漂っている。

 千里線が東海道線の廃線敷を利用し始めたあたりでは、私鉄にしては珍しく線路脇の敷地が広いのに加え、途中の小川を渡る小さなアーチが煉瓦積みで、明らかに東海道線時代に築かれたものである(N地点)。

 また、その先にある新神崎川橋梁(O地点)も、いかにも古い設計の橋脚がスパンも短く連続しているが、これは旧東海道線の上神崎川橋梁そのものなのである。もっとも橋桁は東海道線時代からは換えられているし、橋脚の痛んだ部位も改修を受けているものの、淡路方の橋台や、橋脚の一部がいまだに煉瓦積みや石積みのままである。このような明治期につくられたレトロな構造物が、大手私鉄の所有になった現在でも大切に使われ続けているというのは、注目に値する。

 さらにはその南、下新庄駅の北側の道路をまたぐガードである井戸口橋梁(P地点)も、橋台が煉瓦積みであるうえに、その片方には欠円アーチも見られ、いかにも明治期の設計らしい、重厚なつくりである。

阪急新神崎川橋梁
阪急千里線新神崎川橋梁は、もとは東海道線上神崎川橋  
梁だったために円筒型の煉瓦積み橋脚など、いかにも明治  
期の設計・施工を感じさせる部位が多く見られる(O地点)  
井戸口橋梁
下新庄駅北側にある阪急千里線の井戸  
口橋梁(P地点)。煉瓦積みの橋台の下  
部には欠円アーチが見られる(赤矢印) 

 ただ、途中の構造物にこのような東海道線時代の遺物が残っているのは千里線部分だけで、淡路から先の京都線部分に跡はないようである。それでも、私が阪急関係者に直接聞いた話では、以前淡路駅で工事のため路盤を掘り返したところ、東海道線の遺物が出てきて、皆驚いたことがあったという。

 さて、最後に、阪急京都線崇禅寺駅の南方で現在線の東海道本線に合流する区間についてである。細かい話になることを許してもらうと、ここの線路跡には大きく分けて、2つのルートが存在する。

 明治10年の東海道鉄道開通当初は、現在の崇禅寺駅の場所からほぼまっすぐに南下して、ゆるやかなカーブによって、現存の橋梁とは少し違うところに架かっていた旧上淀川橋梁に達していた。ところが明治34年、新淀川の掘削により上淀川橋梁が旧橋梁より西側に架け替えられた関係で、現在の崇禅寺駅の場所から逆S字カーブを描いて新しい上淀川橋梁に行く、少し遠まわりのルートをとるようになった。

路盤跡
阪急千里線(手前)と東海道本線の現在線(奥の電車  
が通過している線路)をなめらかに結ぶ路盤跡(Q地点) 

 開通当初の廃線跡については、柴島浄水場の施設に呑み込まれて認めることはできないが、明治34年から大正元年頃まで使用された線路跡は、阪急千里線の線路敷から東海道本線へとなめらかにつながる空き地として、今なおはっきりと認められる(Q地点)。

 さらに細かな話になるが、東海道線の廃線敷を譲り受けた北大阪電鉄は当初、逆S字カーブ状になった東海道線の廃線敷をそっくりそのまま利用したため、この付近で十三方から半径160m、300m、300mと半径の小さな急カーブが3つ連続する結果となった。そのため、阪急の時代になっても、ここでは時速35kmの速度制限を受けて、古くは国鉄特急と速度を争ったほどの高速運転をする京都線の中で、「ガン」といわれた。

 これを、昭和30年末に半径600mのカーブ2つに緩和して、現在の形となったのである。



■東海道線旧線あとがき

 この廃線跡の面白いところは、昔の東海道線自体、あるいはその関連で捨て去られたルートを、それぞれ事情は異なるものの、3区間も関西の大手私鉄が再利用しているということであろう。大津(現浜大津)〜馬場(現膳所)間の現在京阪石山坂本線になっている区間はいわば「禅譲」のような形であったが、他の2区間は、国鉄→JR対私鉄というライバルとして、長年の間しのぎを削ってきた。

 特に国鉄奈良線対近鉄京都線は、奈良線が長い間非電化単線のままであったこともあって、ずっと近鉄の圧倒的優位のままであった。ようやく最近になって電化、そしてJRになってから部分的ながら複線化へと、奈良線の方も盛り返しつつあるが、まだまだ近鉄優位は変わらないようである。

 一方、もうひとつの大阪〜吹田間の東海道本線対阪急京都〜千里線は、この区間に限ると国鉄時代から両者互角の戦いをしていたが、いずれにしても自ら廃棄したルートと戦うというのは、成長した弟子が師匠を追い抜かそうとしているようであり面白い。

 また、「大津駅」の変遷も興味深い。連絡船との乗換駅でもあった初代の大津駅は現在の浜大津の位置にあったが、大正2年に大津〜馬場間の旅客営業を大津電車軌道に譲ったことにより、院線の旅客駅から「大津駅」の名が消えたため、それまでの馬場を大津に、そして大津は浜大津に改称した。さらに、大正10年の路線変更時に、新線上で最も市街に近いところに現大津駅を設けたので、「大津駅」はつごう2度も移転したということになる。

 大津の街に決定的な核がないことや、現在の大津駅前が県庁所在地の割に地味であったりするのは、この大津駅の移転の経緯とも無縁ではあるまい。もちろん、東海道線大津〜京都間の劇的な路線改良によって、両都市がほぼ最短距離で結ばれ、現在ではわずか10分しかかからないために、京都の影響力に支配されてしまったということもある。

 このことに江若鉄道の項で述べた湖西線の京都直結が相まって、大津の市街形成や経済発展などのあらゆる面に、良くも悪しくも、鉄道が多大な影響を及ぼしたような気がしてならないのである。

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