■沿革

 北海道拓殖鉄道(拓鉄)は、鉄道開通によって沿線の入植者が増加すると見込んだ新得の某を中心に、道内の有力商工業者たちが資本を出しあってつくった鉄道である。

 大正14年に、新得方から工事が始まったが、多くのタコ部屋労働者が酷使された構図は、道内の他の鉄道や道路建設と同じであった。全線中唯一の熊牛トンネルにも3人は塗り込められているという話である。金融恐慌の影響などで、資金を集めるのに苦労したが、北海道拓殖銀行の融資などにより、昭和3年に新得〜鹿追間が開通、翌年には中音更まで、さらに6年には上士幌まで延長され、旅客や農産品・原木の輸送を行うようになった。

 ただ、不況や農村部の凶作などが重なったこともあって、入植者の増加はそれほどでもなく、鉄道の影響成績は芳しくなかった。当初は上士幌からさらに足寄まで路線を延ばす予定で、現に測量や用地買収は完了していたが、資金難と国鉄網走線(のちの池北線、現北海道ちほく高原鉄道)が足寄に達したことにより、計画は取りやめになった。

 戦時中、士幌線の十勝三股から産出される軍需材の輸送が、士幌線だけでは賄いきれないほど増加したため、拓鉄経由でも輸送するよう軍令が下った。

 この森林史上最悪ともいわれる乱伐によって切り出された木材の輸送により、拓鉄も一時は賑わいを見せたものの、特に東瓜幕以東は戦前の1日3往復あったものが、戦後は1往復しか列車の運行がなくなるほど輸送需要に乏しくなっていた。

 そのため、昭和24年に東瓜幕〜上士幌間を廃止したが、たまたまこの時期が翌年勃発した朝鮮戦争特需が起こりだしたときで、撤去したレールが驚くほどの高値で売れた。そのため、会社創立以来の拓銀に対する債務を清算できたのは嬉しい誤算であった。

 昭和26年、森林鉄道との原木積み換えを至便にするために、屈足に貯木場専用枝線を敷設した。このことによる木材輸送の取り扱い増加に加えて、然別水系電源開発工事の資材運搬も重なったことにより、創立以来初めて黒字を計上した。このころが拓鉄の最盛期であり、昭和31・32年に相次いで中古ディーゼルカーを導入し、客貨混合列車の解消を図った。

 だが、この鉄道の衰退期が訪れるまでに、それほど時間を必要とはしなかった。昭和37年、台風9号によって各所に橋梁や築堤の流失被害が出て、その補修のために莫大な資金を必要とした。翌年には乗客減を引き止めるために中古品を再利用した新製ディーゼル機関車を導入するなど手は打ったが、結局昭和40年に、旅客3往復・貨物1往復の運行で、1日わずか100人程度の乗客しかなかった瓜幕〜東瓜幕間を休止するに至った。新得営林署の森林鉄道も同年3月末にすでに全廃→トラック移行となって、旅客ばかりか貨物の輸送量も激減しており、拓鉄の終章が近づいていく。

 昭和41年に行われた札幌陸運局の保安監査で、老巧鉄道施設の改善要求が出るに至った。当局からこんな命令が出ること自体が大変異例のことであるが、逆にいえば当局から指摘されるまで放置せざるを得ないほど、施設の維持・改修にかけられる資金がなかったのである。十勝川橋梁や然別川橋梁、熊牛トンネルの亀裂・変状がひどく、特に熊牛トンネルは使用が危険とされ、拓鉄にとって残された道は施設を使わないこと、つまり当該区間の休止しかなかった。

 そのため、昭和43年2月10日から熊牛トンネルをはさむ屈足〜瓜幕間を休止、学生輸送のために新得〜屈足間にわずか1往復の列車が運行されるだけにまで縮小された。しかしそれもつかの間で、学校の1学期が終わるのに合わせるようにして、7月初旬にその1往復の運行も停止された。同月末にはさよなら列車が新得〜鹿追間に運行され、40年にわたってこの地の開拓に多大な貢献をした鉄道に幕引きがなされたのである。

 なお後年、白糠線(白糠〜北進〜足寄)と一体化して、十勝平野北部の開発と根室本線のバイパス線の役割を果たす北十勝線が、新得〜士幌〜上士幌〜足寄間に計画された(士幌〜上士幌間は士幌線)。だがこれも、昭和47年にほんの一部で建設に着手されただけで、幻に終わった。因みに新得〜士幌間で、拓鉄の路盤跡の一部を使うことになっていた。



■ガイド 新得〜屈足間

 新得から南新得までは、わずか1.4キロしかなかったが、これは拓鉄の本拠が南新得にあったためで、機関庫のある南新得から、新得までの短い区間列車が走ることも多かった。この区間は根室線と並行していたが、よく見られる完全並行の複線状ではなく、わずかながら根室線と離れていく形状をしていたことが、A地点のペンケオタソイ川の両岸に残る橋台でも明らかである。

 南新得は、今はトラック運送会社となった北海道拓殖鉄道(株)の本社があるだけでなく、一帯が車庫や社員住宅などが立ち並ぶ「拓鉄村」のあった名残で、拓鉄はまだ多くの用地を抱えている。その一部がこのほど新得町に寄付されて、ちょうど駅跡の北のあたりが、「拓鉄公園」という自然公園に生まれ変わった。

 駅があった中心部はというと、鉄道施設の跡はすべて撤去されており、当初の駅舎でもあった旧本社も鉄道現役時代の昭和34年に火災で焼失していることもあって、チップを満載したトラックが並んでいるのが目立つだけである。駅跡の南側にあたる、根室線の踏切がある道路のさらに南側(B地点)に、機関庫のピットの跡が残されているのが目立つくらいである。

 ところが一見みえない痕跡が残されているのである。それは地名である。この付近はズバリ「拓鉄」という地名になっているのである。もっとも新得町の詳細地図はなかなか目にすることはできないし、現場に行くこともそうないであろうから、この「拓鉄」という地名が残っているということを実感するのは一見困難であるように思えるが、今このインターネット上で、すぐに思わずニヤリとする結果に遭遇することができる。

 それは、地図検索サービスを使うのである。たとえばMap Fan Webにおいて、地名検索の欄に「拓鉄」と入力すると、ズバリ西新得駅跡付近を指し示してくれる。

 あるいはパソコンの郵便番号検索ソフトで081-0037と入力してみるという手もある。今でも運送会社となった拓鉄の本拠はここにあるから、大したことはないのかもしれないけれど、今なお廃止鉄道そのままの名を冠した地名が残っているという事実は興奮ものである。もっとも、この地名が付いたのは昭和47年のことだから、拓鉄の廃止後ではあるのだが。

佐幌川橋梁跡
佐幌川を渡っていた橋梁の橋脚跡が残る(D地点)。 
あたかもタコ部屋労働者の墓標のようにみえてしまう  

 南新得の駅跡からの廃線跡は、残念ながらかなりが畑地に戻されている。国道38号線の南新得跨線橋(C地点)から新得方を眺めると、そことなく線路敷らしきものが判別できても、屈足方のほうの痕跡は微塵も感じられない。

 しかし、その先にある佐幌川を渡っていた橋梁の跡が、橋台は深い草に覆われているものの、橋脚がすっくと建っていることにより、はっきりと残されている(D地点)。橋脚の足元の地盤はかなり洗われて、土台部までむき出しになっているため、あたかも墓標が川床に建っているかのように見えてしまう。ここは訪れる人が少なくないのか、川の左岸側の堤防上の道から獣道のようなものがあり、橋脚のたもとに行くのは雑草の茂る夏季であっても比較的容易である。

 さて、拓鉄は新得から鹿追までの間に、大きく分けて2回のアップダウンを繰り返していた。新得が属する佐幌川の流れる低地から佐幌停留所の載っかっていた台地へ20メートルほどの標高差を登ったと思ったら、今度は屈足の低地まで20メートルほど下る。そして、今度は70メートルほどの高低差を克服して新幌内停留所の属する台地へ登り、50メートル下って鹿追に至るという風である。

築堤跡
今なお残る廃線跡の築堤がカーブを描く(E地点)。 
築堤はかなり大規模で、眼下には小さな川が見られる  

 この佐幌川を渡ってからが、最初の上り勾配になる。農牧地から離れて山間部に入るために、この区間は先ほどまでとは一転して線路跡が明瞭に残っているので、頑張れば歩けないことはない。ここは切通しがあるところを抜けると、かなり大きな築堤で川を越え(E地点)、また浅い切通しと、変化に富んだ風景が広がる。

 そして、この浅い切通しを抜ければようやく台地のレベルに到達して、一面の農牧地のなかに躍り出る(F地点)。さらにこの先には築堤を築いていたが、一帯の区割りに対して斜めに走っていることもあって、完全に農牧地の邪魔になった線路敷の跡は、ここでぱたりと途絶える。ただ、前方に見える防雪林がちょうど今まで辿ってきた線路跡の延長線上で切れ目を作っているので、丁寧に辿ると線路跡は確定できるのかもしれない。

 下佐幌停留所のあったあたりは、もとからまとまった集落があったわけでもないため、地図でこの辺だとわかっていても、停留所のあったところは全く特定できない。いや停留所跡だけでなく、この台地上に線路跡の面影はない。新旧の地形図の対比により、明確に線路が通っていたことが特定できる一号と東二線の両道路の交差点上(G地点)に立って、線路が敷かれていたはずの方向を眺めても、さっぱり分からない。このような西洋的な牧歌風景が広がるところを、ハチロクと言われた蒸気機関車が走っていたとは想像し難いほどである。

屈足駅跡と橋梁跡
小さな橋梁跡の先は屈足の駅跡地である(J地点)。  
木材の集散地であることは、当時と変わっていない  

 それならと、旧版地形図には、この台地から屈足へと下り始めるH地点に切通しの記載があるので、これを探すことにした。ただ、結果はというと切通しは農地の拡張のために大幅に埋め立てられていて、その先の1000分の25の下り勾配の跡も、深い雑木林の中に埋もれて、一部草に埋もれた築堤の跡らしきものが散見されるだけであった。

 もっとも、新得・屈足を結ぶ道路と廃線跡が交差するすぐ南側には、小さな橋台がひっそりと残っているのが見られた(I地点)。

 平地へ降り立ち、ほぼ東へと針路を変えて屈足の市街地に入り込んだ廃線跡は、今もなお木材関係の施設が建ち並ぶ屈足の駅跡に近づく。拓鉄最大の貨物取扱量を誇った駅跡の手前(J地点)にも、小さな橋脚と橋台が残っていた。

  つづき

Last visited:May-2000 / Copyright 1996-2005 by Studio Class-C. All rights reserved.