■ガイド 屈足〜鹿追間

 屈足の駅跡から、国道の北側の裏のようなところを進んでいく線路跡は、十勝川にぶちあたる。ここに架かっていた全長197メートルの橋梁の跡を含め、ここからの拓鉄の痕跡はしばらく失われているが、K地点のあたりからの砂利道が、拓鉄の築堤を崩した線路跡のラインのようである。

橋梁跡
コンクリートが無骨な小さな拱渠(L地点)  

 その証拠に、この道路が大きく左の山側に曲がって廃線敷と明らかに袂を分かつあたりで、何とも不気味なコンクリートの固まりが佇んでいる(L地点)。これは小川か小道を越えていたらしい拱渠の跡で、その先にもかなり大規模で美しい築堤が残っているのが見られる。そして、問題の熊牛トンネルに近づいていく。

 拓鉄唯一の隧道、熊牛トンネルは、全長が603メートルあって、しかもトンネル内も一貫して上り勾配が続いていた。そのため、蒸気機関車時代には機関車から発せられる煤煙に悩まされたのはもちろんのこと、冬季間にはつらら防止のため、古枕木を燃やし、トンネル入り口の扉によって、その煙を中に封じ込めるなどの対策がとられた。列車が通るときには当然扉の開閉が必要となるが、そのためにトンネルの新得方の熊牛停留所から、職員が通っていたという。一方、それ以外の時期も、標高の高い鹿追方から雨水が流れ込むのを防ぐために蓋を必要としたりと、大いに関係者の手を煩わせたトンネルであった。

 トンネルの新得口に到達するには、藪こきをせねばならないようであったので無理をせず、反対の鹿追口に回ってみた。この鹿追口の方は、都市部の地下鉄道が地上に出るところによく見られるような、平地に刻まれた切通しに、トンネルの穴がぽっかりと開いている姿をしていたところである。

 しかし現在、このあたりは小山になるほど埋め戻されて、残念ながら跡はない。こんなに土砂を積まなくてもと思うが、廃線後トンネルに入ってすぐのあたりが崩壊して、地表にもぽっかりと大きな穴を開けていたらしいので、埋め戻しついでに土砂がうず高く積まれたのかもしれない。

 熊牛トンネルの東側は、トンネルに近い部分こそ、一見築堤跡に見えるほどまで埋め戻されているが、その鹿追方は溝のような形状を残している。この溝は鹿追方に行くにしたがって、次第に浅くなっていることから、これこそがトンネル東側にあった切通しの名残そのもので、その幅の南半分だけが埋められたものだと思われる。

 そして、意外ではあるが、この切通しこそが件の熊牛トンネル以上に厄介な区間であった。

 話は開業前にまで遡る。開業を目前に控えた昭和3年8月、付近にもたらされた長雨によって、この切通しの土手が崩壊してしまった。この事態を受けて、拓鉄は万全を期するために、9月の開業予定を12月に遅らせることとしたのである。沿線住民の、一日も早く鉄道をという期待に冷や水を浴びせかけたのは、間違いなくこの切通しであった。そして開通後も、幾度となく側壁が崩れたり、あるいは積雪期には雪が吹き溜まったりと、千難万苦を極めたのである。

 その一方で、この切通しには興味深いこともあった。それは、この付近で栽培されている砂糖の原料、甜菜(てんさい)の輸送を主たる目的として敷設されていた河西鉄道という軌道と、M地点で立体交差していたのである。こんな畑が広がるだけのような所で、2つの私鉄が互いに連絡駅も設けずに立体交差していたとは痛快である。が、冷静に考えてみれば一日数往復の拓鉄と、旅客扱いをする列車が1日に2本程度しかなかった河西鉄道の連絡など、取りようもなかったのも事実であるが。

 まあそれはともかくとして、河西の橋台跡を何とか探そうと、丹念に拓鉄の切通し跡を見て回ったが、残念ながら失われているようであった。この付近の河西鉄道の路盤跡も、道路になってしまったのか、雰囲気は全く残っておらず、「こんなところで2本の鉄道が立体交差をしていたとは・・・」と、頭に想像しながらここを離れるより他はなかった。

 だが拓鉄は河西鉄道と、さらにもう1カ所で立体交差をしていた。それはP地点で、こちらは拓鉄の方が河西鉄道の上を越えていた。この跡は以前探したが、熊笹に阻まれて撤退したことがあったので、今度は見つけるまではと不退転の意志を持って踏み込んでいった。

立体交差跡
あまりにも幻想的に針葉樹林の中に眠る、河西鉄道と  
の立体交差跡(P地点・河西鉄道の路盤跡から北望) 
 
 
立体交差跡2
上と同じ立体交差跡を拓鉄の築堤から見おろす 

 すると、鬱蒼とした針葉樹林の中に、忽然と拓鉄の築堤と橋台が現れたのである。そして、緩やかにカーブする河西鉄道の路盤跡も、これまたはっきりと確認することができた。もっとも、河西鉄道の路盤跡など、まったく意に介さないかのようにカラマツの植林がなされているために、河西の廃線跡はあたかも並木道のようになっていたけれども・・・。

 拓鉄跡のうちでも一番印象的ともいえるこの痕跡は、近くを通っている道路からは植林のために全く見えないが、驚くべきことにこの道路とは20メートルも離れていないほどの近さであった。数十年後、木々が伐採された時には忽然と姿を現して、地元の新聞の小ネタくらいにはなるかもしれない。

 ついでにいうと、この地点で両鉄道の列車がちょうど立体交差をしているという、まさに絵に描いたような決定的な写真を私たちは見ることができる。それはJTB刊行の「全国軽便鉄道」(岡本憲之著)の37ページに記載されているもので、見事に両鉄道の列車が1枚の写真に収まっている。こんな列車本数の少ないなかで、このような写真を撮られていたとは・・・まったく撮影者に感服するばかりである。

 北熊川停留所の載っかっている台地から、鹿追の平地まで下っていた痕跡は、残念ながらこの立体交差付近しか残っていないようであった。現に、台地から下り始めるO地点付近の線路跡の道を辿ってみたが、ハギノ川が完全に改修されていることにより、通ってきた道も自然に線路跡のルートから外れてしまった。

 鹿追の市街地に入った廃線跡は、生活道路となり、東へと進んでいく。中鹿追の停留所があった付近に町役場があるが、その同一敷地内にある町立図書館(Q地点)の2階に、拓鉄の資料が保存展示されている。図書館の方に頼むと鍵を開けてくださるので、是非とも見学をお薦めする。

 鹿追駅は、当初は家が一軒もなかったような町はずれに開設されたというが、その後町の中心が駅に吸引されるように次第に移動してきた様子が、元町・東町・新町といった町名にも現れている。拓鉄のもう一つの存続会社である拓鉄バスのターミナルとなっている駅跡の付近には、拓鉄が自社発注したという大正生まれの名蒸気機関車8622(形式8620ハチロク、国鉄と同型機)が、星印の中に「拓」の字がキラリと栄える社紋も鮮やかに、屋根の下に大切に保存されている。



■ガイド 鹿追〜上士幌間

 鹿追から北上していた区間は、一面の農牧地帯のなかにあるためか、北笹川や自衛隊前といった停留所跡も含め、跡は見あたらない。逆に、農牧地からはずれた山林地帯には、なんらかの跡は残っている可能性もあると言えるが、そんなところに限って道路から遠くはずれていて、踏み込むのが困難なところが多いのが残念である。

 瓜幕の駅跡も、それを示す標柱がなければ全く信じられないほど、ただの空き地となってしまっているが、ここには然別湖への観光客輸送のために、食堂車をつなげた国鉄客車の乗り入れがされたこともあったという。

 それに加え、一時期定期区間列車の設定もあったほどの駅なのに、機関車の方向転換用の転車台はなく、そのかわりに駅の裏に当たる南方に膨らむ形で、デルタ形をした三角線が設置されていた。先述の鹿追町立図書館の2階の片隅にある、瓜幕の昔の市街地図にも、この三角線の記載が見られる。

 瓜幕の上士幌方で瓜幕川を越えるQ地点のあたりなども、地形図によるとなんらかの痕跡が残っている可能性が強いが、今回はなんとも近づくことができなかった。道路の交差によって完全に線路が通っていたことが特定できるR地点に立って、ようやくほんの10メートルほどの鉄道路盤跡らしき痕跡を見つけたに過ぎなかった。そして、東瓜幕の駅跡も、瓜幕よりも更に見逃しそうなほどのところに、ひっそりと標柱が立つのみであった。

 東瓜幕よりさらに東方で、拓鉄の路盤跡が非舗装道路になっているなど、何となく鉄路の残香が匂うところはあっても、ズバリそのものの遺物は見つけられなかった。というのは、次第に濃霧が立ちこめてきて、10メートル先が見えるかどうかという程になり、残念ながら探索を断念せざるをえなくなったからである。つまり早い話が、鹿追以東はこれといった痕跡を見つけることができず、大きな忘れ物をしたような心境のままこの地を去った。


<追記> いただいた情報では、中音更駅があった地点から1.5キロほど上士幌方の、音更川支流のウオップ川に架かっていた橋梁の橋台と橋脚が、今なお(平成17年時点)残っているそうである。



■北海道拓殖鉄道あとがき

 開拓期の北海道には、「拓殖」という言葉は大きな意味を持っていた。この開拓のためという言葉をズバリその名に記した「拓殖鉄道」も日高や根室、あるいは十勝の冠をかぶせて存在した(十勝については拓鉄の一部区間になった)が、拓鉄だけは拓殖の前に付けられた名前が大きいだけあって、他とは格の違いを見せつけていたようである。しかし、記憶にもまだ新しい北海道拓殖銀行の消滅によって、この拓殖という言葉も一般の人々の記憶から薄れつつある。

 今回2回目の拓鉄跡の訪問で、河西鉄道との交差跡が残っているのを目の当たりにしたという大きな収穫があったが、鹿追以東はなおたくさん宿題を残してしまった。この区間の廃線跡の様子は、あまり公表されているのを見かけないので、是非ともじっくり見たかったのであるが、いつ再々訪できるやら・・・。

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