■沿革

 藤枝は、東海道53次の宿場町としても栄えたが、明治22年に付近を通った東海道線は焼津から南西へと進み、瀬戸川の北岸の藤枝の町並みからは南側に外れた。さらに、明治34年頃に計画された駿遠鉄道が、焼津を起点として西へ海岸沿いにルートを策定するに至り、危機感を持った藤枝町を中心とした志太郡下の有志が、これに対抗すべく強力に運動を展開、藤枝町大手〜川崎町〜相良町というルートの軽便鉄道の免許を得た。

 その結果設立されたのが藤相鉄道で、大正2年に大手〜藤枝新(のちの新藤枝)間を開業、翌年には大井川の東岸に達した。さらに翌年の大正4年には、大井川対岸からの線路も伸び始めたが、この軌間762ミリの軽便鉄道にとっては、川幅1キロに及ぶ大井川越えが一大事であった。

 当初は、道路橋を渡る徒歩連絡であったが、あまりに乗客の苦痛が大きいとして、半年後、その道路橋に軌道を敷設した。しかし、橋上に重い蒸気機関車を載せることはできないため、乗客は大井川両岸の大井川・大幡両駅で定員12名の人車に乗り換え、貨物は到着貨車を機関車で橋上に押し上げた後、手押しによって大井川を渡ったという。

 大正11年夏の集中豪雨で、大井川に架かる橋が破壊された。これを契機として、機関車の荷重に耐えられる鉄道併用橋が架設され、不便な乗り換えが解消されたのが大正13年、そして念願の鉄道専用橋が架けられたのは、昭和12年のことであった。ただこの橋も、橋桁こそ通常の鉄製であるが、橋脚がなんと丸太(!!)の、何とも軽便鉄道らしい橋梁であったため、普段列車は時速10Km程度のノロノロ運転で、おそるおそる渡っていた。しかも風がきつくなると運転中止になったり、川の増水で橋が落ちて不通になったりと、この鉄道にとってもまさに”越すに越されぬ大井川”であった。

 藤相鉄道は大正末期、東方へは駿河岡部まで、西方へは地頭方まで路線を延ばしたが、岡部への延長線は成績が悪く、昭和11年に早くも廃止されている。

 一方、袋井方でも藤相鉄道設立の翌年、中遠鉄道が設立された。袋井駅前から南東方へ、これも軌間762ミリの鉄路が延び、新三俣まで開通したのが昭和2年のことであった。

 そして戦時中、両社は静岡電気鉄道を母体とした5社合併により、静岡鉄道藤相線および中遠線となった。合併当時は、軽便鉄道である両線はすでにバスに押されており、新会社のお荷物になると言われていたが、戦後復興期の静岡鉄道の業績を支えたのは他ならぬ両線であった。というのも、沿線が芋など食料の大生産地であったため、食糧難の時期に買出人やヤミ商人などで、連日列車は満員となったのであった。

 ところで、合併によってできた静岡鉄道のネックは、各線がバラバラで経営効率が悪いことであった。そのため、当時使われていなかった旧東海道線の石部トンネルを活用し、静岡線運動場前から焼津を通り、藤相線大井川に達する路線が計画され、昭和25年には当局の免許も得ている。しかし、その後東海道新幹線の建設に伴い、旧隧道の一部を東海道線が再び使用することになり、実現しなかった。

 その一方で、軌間の同じ藤相線と中遠線の間をつなげる構想もあった。この区間には、戦時中、旧陸軍の遠江射場の弾薬輸送用の専用軌道があったため、これを改良して敷設することも検討されたが、元来トロッコ用の軌道であるために線形が悪く、一部を利用したうえで軌道を新規に敷設し、昭和23年に開通した。ここに大手〜袋井駅前(のちの新袋井)間、全長64.6キロの駿遠線が全通を見るのである。

 しかし、軽便鉄道である駿遠線は、衰退するのも早かった。特にトラック輸送をライバルとする貨物輸送は、昭和34年に早々と廃止されている。そして、昭和39年の大手〜新藤枝間、および堀野新田〜新三俣間の廃止を皮切りに、どんどん路線縮小の時代を迎えることとなった。

 そして、この愛すべき軽便鉄道も度重なる部分廃止の後、昭和45年の新藤枝-大井川間の廃止によりすべての区間がなくなった。一番最近に廃止された区間でもすでに30年以上が経過し、鉄道現役当時のままというような痕跡は非常に減ったばかりでなく、近年廃線跡が太平洋岸自転車道に転用されて、一部が非常に味気ないほどに整備されてしまった。それでも、まだまだ当時の面影がしのばれる区間も多く、個人的には大好きな廃線跡である。



■ガイド 新藤枝〜大手間

 今回は駿遠線の基点であった新藤枝から大手、そして袋井方向へそれぞれ廃線跡を辿ってみることとする。

 JR藤枝駅前広場の東側にあるバス乗り場が藤枝方のターミナル、新藤枝駅のあった場所である。この新藤枝駅跡からは、実は3本の廃線跡がある。ひとつは袋井へ向かう駿遠線跡、あとの2つは実はどちらも大手への線路跡である。駅の北北東方向からゆるやかに右に曲がりながら進んでいるのが開通当初の路線、そして駿遠線がでている方向から左に曲がっているのが、昭和32年に国道1号線と立体交差するためにぐっと東に路線変更された跡である。

 当初の路線の方は、駅北側正面の通りの1本東側の道路になっている。実をいうと、この道路が始まるあたりに開通当初の藤枝新駅があったのだが、国鉄との接続の利便性を考えて、大正8年に駅を国鉄駅横に移動した経緯がある。

 この廃線跡は、国道1号線と出会うところで寸断されているが、川を渡ったところから再び緩やかな右カーブを描く道路として残っている。ただ、途中にあった志太駅の跡は判然としない。

 一方、廃止のわずか7年前に路線変更された方は、新藤枝から300mほどの間は駿遠線と同じく跡はないが、その後は現在の田沼街道の一本東側の道路(旧田沼街道)の歩行者・自転車専用道部分として生き残っていて、これをたどってゆくと国道一号線の下をくぐり、当初の路線跡と合流する。

 双方の廃線跡が合流する地点は、ちょうど瀬戸川の西岸である。ここには、緩やかにカーブした橋梁があったのだが痕跡は全くなく、跡地に「ふれあい大橋」という、人と自転車しか通れない現代的な橋が架かっている。

岡出山駅舎
移築され現在も残る岡出山(藤枝本町)駅舎。 
現在でも安藤塗装店の作業場として使われている  

 この橋の先は下り坂になっていて、住宅地内の道路になにか不自然な幅の空間がある状態になる。実は意外や意外、ここが、後述の大井川越え及び相良付近の海岸沿いに次ぐ、この鉄道の第3の難所とでもいうべき場所であった。

 この坂を下ってすぐのところに瀬戸川駅があったのだが、この駅から新藤枝方に出発するとすぐ25/1000の登り勾配になるため、助走がつけられずに登坂に苦労したという、今ではほとんど信じられないような話が残っている。軽便の馬力のなさがほほえましい話ではあるが、一つ手前の岡出山駅まで戻って勢いをつけて登ることも少なくなかったらしい。

 やがて、廃線跡は道路が拡張されることによって、風情がほとんどなくなってしまう。ただの市街地の中の道路を進み、飽波神社という神社があるが、この鳥居の前に岡出山駅があった。ここは後期には藤枝本町と改称していたが、行き違い設備のあった立派な駅で、現在もオリジナルの場所からは少し移動しているものの、当時の駅舎が塗装店の作業場として使われている。

 線路跡を拡幅した道の蛇行に合わせてそのまま突き進むと、やがて静岡鉄道藤枝営業所に着く。ここが大手駅跡である。たくさんのバスが体を休める広い構内は、鉄道時代を彷彿とさせるものがある。さらに3キロほど先の駿河岡部まで路線が延びていた跡は、戦前の廃止がたたってか、ほとんど痕跡はないようであった。

  つづき

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