新藤枝駅からの線路は、目的地の袋井とは逆の東へと進み、築堤を登りながら右にカーブして東海道本線を越えていた。だた、今では築堤の痕跡は全くなく、わずかにサンライフ藤枝という施設の駐車場の形だけが、カーブしていた線形の名残をとどめているに過ぎない。しかし、東海道本線を越えてからの駿遠線のルートは、田沼公園の裏からはほぼそのまま生活道路となっているため、そのまま南下すると、このちっぽけな軽便鉄道に律儀に穴を開けてくれている東海道新幹線の高架をくぐって、高洲駅跡である高洲バス停付近で田沼街道に取り込まれる。
その田沼街道は、東名高速道路をくぐる手前で右に曲がっているが、線路はそのまままっすぐ進んでいた。今では田沼街道と廃線跡の分岐部こそ民家が建って、一見わかりにくくなってはいるものの、その先の廃線跡は道路となって残っていて、東名高速道路の下をくぐっている。ちなみに東名高速のこの付近の開通は昭和44年2月のことであるから、ほんの一年半ほどだけであるが、軽便と高速道路は共存していたことになる。また先ほど高洲の手前でくぐった東海道新幹線のほうはというと、開通は高速道路より前の昭和39年10月であったので、こちらのほうは6年ものあいだ、新旧の列車の究極の立体交差が見られたことになる。
さて、廃線跡は東名高速道路をくぐった後、右にカーブし、再び先ほどの田沼街道とクロスしたすぐ先で、ぱったりと途絶えている。再び廃線跡がよみがえるのは、大井川西小学校の南方にある西幼稚園(保育所も付近にあるが幼稚園の方)付近の田中川を渡るところからである。付近の案内看板の多さからいえば、「アロエ食品」という会社の北東方といったほうが見つけやすいかもしれない。
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大井川に今なお残る木製の橋脚跡 |
田中川にかかっていた橋梁の橋台跡から南の方向へ、廃線跡の道は田園地帯の中を趣も豊かに進んでいく。緩やかに右にカーブした先にある泉川を渡る橋は、鉄道時代の橋からレールをはずして枕木の隙間を他の枕木で埋めて板を渡しただけであり、今でも充分軽便鉄道の雰囲気を残している。
末期に終着駅となった大井川駅跡は、この橋を過ぎてすぐの、しずてつストアがある場所にあたるが、主だった痕跡はない。さらに進むと坂をのぼり、駿遠運送の倉庫にぶちあたってしまうが、この敷地の先はもう大井川である。
ここにあの大井川木橋があった。現在は橋の取り付け部の橋台と、かなり朽ちてはいるが木製の橋脚が少しながら残っている。撤去が面倒だったのか、ちょうど水の流れている部分だけ橋脚の跡が規則正しく並んでいて、並行する国道150号線の富士見橋からでも俯瞰で眺めることができる。ただ、富士見橋の歩道は廃線跡とは反対側にあるため、車やバスからでしか安全に見ることができないのは残念である。それでも廃止後30年が経過しているのに、大井川の激しい流れに耐えて残っているのはまったくの驚きである。さすがに年々削られているようで、今では水量の多いときにはかなり見えづらくなっている。
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構内方向からの旧遠州神戸駅舎 |
橋を渡った先は、近年、太平洋岸自転車道として大々的に整備されてしまったのが残念であるが、ほどなく左横に少し広い公園がある場所に着く。
ここが遠州神戸駅跡で、公園とは反対側にある「老人憩いの家」こそがまさに旧遠州神戸駅舎である。これは駿遠線跡では唯一残存している駅舎で、横には古びた食堂もあり、いまだに懐かしい駅前の雰囲気を醸し出している。
余談ながら、線路が現在の国道150号線に沿ってまっすぐいけばいいものを、なぜわざわざ神戸に寄っているかというと、神戸村出身の国会議員が「我田引鉄」をした影響であるという。現在でも御前崎方面行きのバスは神戸に立ち寄るものが多いようで、いまだにその成果が持続しているといったところであろうか。
遠州神戸駅跡をすぎると、太平洋岸自転車道はすぐ左にカーブし、道路をアンダークロスするが、今度はくぐった道路の西側の歩道部分が廃線跡になる。これをそのまま南下し、自動車道と分岐して数百mゆくと、再び左横に小さな公園がある場所がでてくる。すこし右側も土地がふくらんでいるので容易に想像がつく通り、ここが上吉田駅跡であり、末期でも列車の行き違いがおこなわれていた主要駅であった。
これからは水田の中をひたすら進む。開通当初は下吉田という駅もあったそうだが、この水田のまっただ中、乗降客は数えるほどで、まもなく廃止されたという。やがて榛原の市街地に入ると、所々区画整理の影響を受けてしまうが、細江駅跡の少し先にあったS字カーブの終わりまで、廃線跡をたどることができる。しかしここから先は、現在の榛原郵便局付近にあった静波駅跡を含め、遠州川崎町(のちに榛原町と改称)駅跡のすぐ手前までは全く痕跡はない。
遠州川崎町駅跡は、静岡鉄道榛原営業所というバスターミナルになっている。構内に佇む車両は鉄道車両からバスに変わっているものの、敷地の形や構内の雰囲気に、軽便鉄道の雰囲気を感じることができる。
駿遠線のなかで、太平洋を間近に望むのは、意外にもこの区間だけである。それだけに、ここは本当に気持ちの良い廃線散歩が楽しめる。
遠州川崎町駅跡からの廃線跡は道路になっているが、やがて勝間田川に突き当たる。ここには橋台が残されている。ちなみに、ここの橋梁は昭和30年代はじめに木橋から鉄橋に架け替えられており、まだこの時点では設備投資が行われていたことになる。
川を越えると、再び整備された自転車道になって国道とクロスし、海沿いを進むようになる。ここから相良までの区間が、この鉄道第2の難所であった。というのも、当時は現在のように海側に強固な堤防がなく、波打ち際、というよりむしろ砂浜の上のようなところを走っていたために、たびたび線路が砂や波をかぶって埋まったりえぐられたりしたのである。
当時波津に熱心な保線工がいて、彼は台風の時は自らの危険をかえりみず、たとえ真夜中であってもカンテラを照らして線路を見回り、被害があれば豪雨の中、一人で工事をして命がけで線路を守ったという。それでも数百mにわたって線路が波にえぐられて、不通になったこともあった。
やがて、相良町にはいるあたりで整備された自転車道は終わる。ここで、廃線跡は目の前の萩間川を避けるように国道をクロスし、右斜め方向に入る。廃線跡の道路は狭いが、そのまま残っているのでたどることは容易である。ただ主要駅であり、車両基地のあった相良駅跡は住宅街になっていてまったく痕跡はない。
駅跡の先にある萩間川を渡る橋は、鉄道時代のものを再利用しているようであるが、渡った先は相良中学のグラウンドになってしまっている。この先の廃線跡は市街地の中に埋没するが、市街地のはずれの小堤山公園横の歩行者・自転車専用道として忽然と姿を現す。ここを進むと駿遠線唯一のトンネル、小堤山トンネルが目の前に現れる。(A地点)
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美しい姿が甦った小堤山トンネル(A地点・鹿島さんご提供) |
ここは、鉄道廃止後も地元住民の短絡路として多くの人に使われていたが、完成後70年余を経たトンネルは痛みが激しく、全国各地の廃線トンネルと同様、老巧化が大きな問題となっていた。
そのため、このたび補修工事がなされたのであるが、実はこの補修設計をされたのが、なんとこのHPの読者の方(記帳No.263の鹿島さん)であったことが幸いし、限られた予算と格闘しながらも最大限の現況保全の努力がなされた。その結果、当時の雰囲気を充分に残しながら、美しい煉瓦積みの姿が甦っている。トンネル内には、駿遠線とトンネルの説明看板もデザインして貼ってあるそうである。
チマチマとちっぽけなホームページを創っている者にとって、これほど嬉しいことはなく、個人的に是非とも再訪したい箇所である。
小堤山トンネルから先は、景色もよいし、勾配もなく、サイクリングコースとしても最高の区間となる。途中の橋もすべて鉄道時代のものに板を渡しただけであるし、他の遺物こそないが雰囲気は当時のままと言える。ここを軽便鉄道が、今自分が走っている自転車の速さとそう変わらないような速度でトコトコ走っていたことを想像すると、何ともほほえましい気分になる。
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須々木駅跡付近の橋梁跡。鉄道時代の面影を強く残す |
須々木川の橋梁を過ぎたあたりにあった、須々木の駅跡は何も残っていないが、その先にある橋梁は軽便が豚と衝突し、車両が脱線して川に落ちたという珍事が起こった場所である。この事故ではそうだったかは存じないが、豚と衝突して軽便は脱線したのに豚の方は元気だったというような話は多かったそうである。
旧街道とクロスする手前にあった落居の駅跡を過ぎ、ほどなく少し広かったであろう構内を感じさせる場所に着く。ここが御前崎の最寄り駅でもあった地頭方の駅跡であり、駿遠運送の地頭方営業所があって、構内跡の形にそこはかとなく名残が残っている。
つづき
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