■沿革

 明治36年、鳥取県中部地域に現在の山陰本線が通じた。しかし、この地域の中心である倉吉町を通らずに、北条平野をまっすぐに突っ切ったことにより、倉吉駅は倉吉の中心部より北の上井(あげい)地区におかれた。

 そのため、鉄道に取り残された格好となった倉吉地区が陳情を重ね、山陰本線への連絡軽便鉄道として、明治45年に倉吉(のちの打吹)まで開通したのが、この路線の始まりである。このとき「倉吉駅」の名前を山陰線から奪い、それまでの倉吉駅であった山陰線の駅は、上井と名乗った。

 さらに、大正11年に公布された「改正鉄道敷設法別表」で、姫新線の中国勝山から倉吉までが予定線となり(通称南勝線)、昭和3年と10年には予算計上までされたというが、政変や日支事変により、工事には至らなかった。ところが、開戦ムードが高まってくるとともに、陸軍演習場への兵員輸送という目的が急浮上、急遽工事が開始されて、昭和16年5月にに関金まで延伸した。

 昭和33年には、5kmほど伸びて山守までさらに延伸したものの、ローカル支線の宿命で、西倉吉までの貨物に関してはそこそこの取扱量があったものの、旅客のほうは並行バス路線の充実などもあって、早くから低迷した。

山守駅跡
現役当時の山守駅にて。2両編成の列車でもは
み出すほどの短いホームの先に車止めが見える。
列車は数分で折り返した。(昭和56年3月) 

 そのため、延伸のわずか10年後の昭和43年には、国鉄諮問委員会が赤字の深刻な路線のバス転換策を打ち出した、いわゆる「赤字83線」の中に入れられてしまった。この時は「日本列島改造計画」を唱える田中角栄内閣の成立とともに、この問題がうやむやになり、実際廃止されたのは、83線中の11線区に2線区を加えた計129.3キロにとどまったため、倉吉線は廃止を免れることができた。

 ただ、利用の実態にあわせたのか、昭和47年には倉吉駅の名前を山陰本線に返上し、それまでの倉吉駅は打吹(うつぶき)と改称している。

 しかし、昭和55年に成立した国鉄再建法で、倉吉線は再び廃止対象のやり玉に上がることとなった。この法律では、「赤字83線」の時の反省もあって、2年間で協議が整わなければ国鉄が独自に廃止申請できる、いわゆる「見切り発車事項」がついたため、交渉引き延ばし策が通じないようになっていた。そして、第一次廃止対象の倉吉線は、昭和60年3月31日、山守発22時7分の臨時列車を最後に、72年の長きにわたった歴史を閉じた。

 南勝線の中国勝山までの残り区間は、昭和50年に測量及び用地買収が開始されたようだが、工事着手には至らなかった。予定駅9駅の中には、ひる山や湯原温泉も含まれており、県境の山越えには難渋しても、開通するとそこそこの可能性を秘めていたようにも思うが、それも夢物語に終わった。



■ガイド 倉吉〜西倉吉間
線路跡
廃止後15年経ってもレールがそのまま残る廃線跡 

 倉吉駅の倉吉線関係の施設があったあたりは、倉吉線がかつて使用していたプラットホームが根元で寸断され、小綺麗な駅前広場が整備されている。そして、駅前広場の先も駐車場と化しているが、この駐車場の東端で山陰線と分岐して国道9号線を越えたところから、錆びたレールもそのままに廃線跡が現れる。

 踏切跡こそレールが撤去されているが、その踏切跡も機器箱が残って、一見すぐにでも復活できそうな雰囲気を漂わせながら、線路は市街地の外縁部をたどっていく。この状態は、天神川に突き当たるところ(A地点)まで、約500mにわたって続いている。

 ただ、天神川を渡っていた橋梁は撤去されており、さらにその先からは、倉吉市の手によって歩行者・自転車専用道に整備されている。途中の上灘駅跡も、地元作家のモニュメントと碑があるだけで、打吹駅跡まではこの専用道が続く。

 さて、一時期は交通公社の時刻表の表記でも、倉吉市の代表駅となっていた打吹駅跡であるが、貨物取り扱いスペースもあって、まとまった敷地を持っていた構内は、公共施設や公園となって、脇にはSLが一両保存されている。鉄道現役当時の駅前通りは、打吹公園通りという名に変わり、駅跡を貫通している。

 また、近くには「駅裏月決駐車場」もあるほか、駅跡の片隅には、倉吉線鉄道記念館が設けられている。この入場無料の記念館、建物に入るときに自分で照明をつけて、帰りにまた自分で消して帰るという、常時無人のつつましやかなもので、展示物は駅構内の貨車入換用の機関車などいたって地味であるが、壁に貼ってある現役時代の写真が廃線跡探索をする私たちの参考になるので、是非とも立ち寄りたい。


 また余談ながら、元の駅前通りを南方に進んだあたりでは、古い白壁倉庫群の並ぶ町並みが、滋賀県長浜や北海道小樽を見本として、「赤瓦」という名のもとに再生されており、観光スポットになりつつある。

 倉吉線現役時にこのようなことになっていたら、駅からほど近いこともあって、鉄道利用者も少しくらいは増えたかもしれないなあと思ってしまうのは、廃線跡歩きをする私たちの悲しい性である。

 打吹駅跡から先は、新しく完成した道路になっている。この道路は小鴨川を渡るところで右に曲がっていってしまうが、倉吉線は直進の方向に進んでいた。この跡は今も地図を開くと一目瞭然で、倉吉市金森町と同福吉町との町境となっている。この直線の先に、ごく最近まで左カーブをしていた線路が300mほど残っていたが、平成10年に2車線道路化され、消えてしまった。

 この2車線道路を辿って行って、突き当たったところが西倉吉の駅跡である。ここは駅前だった場所に日通の出張所が残り、その周囲には木材関係の工場があって、駅の周囲は鉄道現役当時の雰囲気とそう変わっていない。しかし、肝心の駅跡自体は廃線跡を利用した遊歩道の出発点として立派に整備され、敷地の形や一部の樹木以外は、全くといっていいほど跡はない。

 それにしてもまったく不思議なのは、私が一番最近に探訪した平成14年9月には、せっかく整備した駅跡の公園を掘り返して、また何らかの工事をしていた。工事内容を表示する看板を見る気もしなかったが、どうするのだろうか。

  つづき

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