西倉吉から上小鴨までの廃線跡は完全に遊歩道化されているため、廃線跡探訪をする私たちにとってはまったく面白くない状態が続く。ただ、それぞれの駅跡は、元の敷地を利用した休憩所になっている。
脇に牛が放牧されているのを見ながら、遊歩道の終わる上小鴨駅跡をすぎると、改修された国道が左から合流してきて、廃線跡はこれに吸収されてしまう。しかし、いったん右カーブした国道が左に曲がっていってしまうと、まっすぐ進んでいた線路敷が姿を現すようになる(B地点)。雑草の中、目を凝らしてよく見ると、レールもそのまま残っているのがわかる。
ここから関金までの倉吉線は、川沿いの平地が狭いこともあってか、河岸段丘の縁のようなところにへばりつくようにして進んでいた。そのため、この区間は意外にも林の中を進んだりして車窓風景にも富み、タイプの違う大きな橋梁も2つほどあった。
ただ、この付近の線路跡をそのまま利用して新しい道路を造る計画があり、現在この付近でも工事が進められていて、訪れる度に少しずつ鉄道の痕跡は消えつつあったが、このところ工事は完全に止まっている印象を受ける。地元の人に聞くと、まだ3軒ほど用地買収に応じていない家があるとのこと。そのため、短い間ながらレールが残っているところもまだあって、思わず笑みがこぼれてしまう。
 |
C地点の橋梁跡を小鴨川岸から見たところ。意外に高い。 橋梁の上にはレールも残っている |
特にまとまった痕跡を残しているのはC地点である。ここは、倉吉線の線路が、段丘の縁からはみ出すような形で高い橋梁を築いていたところで、今でもレールを載せた橋梁がそのまま残っている。
これは橋梁の直近まで完成している新道の先から覗き見ることができるし、小鴨川左岸の道から見上げても、なかなかの眺めである。
いつまでこれらの痕跡が残っているかは、用地買収に応じていない方の頑張り次第であるが、私のような素人から見ると、廃線跡を道路にするには鉄道用地の数倍の幅の敷地が必要であることだし、新たなルートで建設したほうが、何かと融通がきいていいのではないかと思う。しかし、倉吉線跡に限らず、新しい道路ができるときには、忠実に線路跡をたどるケースが非常に多い。
この橋梁跡の先のD地点にも、美しいコンクリートアーチ橋があって、平成7年夏にはその上をおそるおそる散歩したりしたものであったが、半年後訪れたときには跡形もなく撤去されてしまっていた。(そのため写真に残さずじまいに終わってしまった・・・残念。)
D地点の先からは道路が完成しており、関金駅跡も痕跡を留めていない。当時を偲ばせてくれるのは、戦後に植えられたという桜並木のある駅前通りだけであるが、この通り沿いにも空き地が増えてしまったようだ。
関金駅の駅舎があった位置から400mほどで、新しい道が突然終わることにより、レールの残る線路跡が現れる。この付近も、天神川の東岸と同様、踏切跡には機器箱が残っている。
やがて線路は築堤で高さを稼ぐようになり、泰久寺の集落の間を抜けていくのだが、泰久寺の駅跡はここを通り過ぎ、登り勾配の終わった集落のはずれになってようやく現れる。待合小屋は撤去され、駅名標も外枠だけになってしまっているが、2両編成の列車が止まれるかどうかというくらいの短いホームが、今でもそのまま残されている。
ところで、泰久寺駅跡のすぐ手前の道路をまたぐ橋梁跡(E地点)には、橋桁は撤去されているものの、橋台に昭和14年の着手、16年の竣工という銘板が残っている。関金〜山守間の開通は前述のように昭和33年のことであるが、少なくともこの橋梁に関しては、関金までの開通時には完成していたことになる。
泰久寺駅跡から先の廃線跡は、通る人もなく雑草の繁茂が激しいが、冬季でしかも積雪のない時なら、なんとかレールの残る線路敷を歩くことができる。竹薮の中を通り抜けたあたりで、小さな川を渡るコンクリート製の小橋梁が現れるが、銘板を見ると、これも泰久寺駅跡手前の橋梁と同様、関金延長時には完成していたようである。
やがて、倉吉線唯一であった山守トンネルが見えてくる(F地点)。これは戦後の昭和33年の竣工で、コンクリートもまだ新しいように見える。左にカーブする延長170メートルのトンネルの中は、当然ながら雑草がないので、今にも列車が来るかと思わせるような立派なカントの付いた線路が、錆びながらも静かに横たわっている。
|