■ガイド 西倉吉〜関金間

 西倉吉から上小鴨までの廃線跡は完全に遊歩道化されているため、廃線跡探訪をする私たちにとってはまったく面白くない状態が続く。ただ、それぞれの駅跡は、元の敷地を利用した休憩所になっている。

 脇に牛が放牧されているのを見ながら、遊歩道の終わる上小鴨駅跡をすぎると、改修された国道が左から合流してきて、廃線跡はこれに吸収されてしまう。しかし、いったん右カーブした国道が左に曲がっていってしまうと、まっすぐ進んでいた線路敷が姿を現すようになる(B地点)。雑草の中、目を凝らしてよく見ると、レールもそのまま残っているのがわかる。

 ここから関金までの倉吉線は、川沿いの平地が狭いこともあってか、河岸段丘の縁のようなところにへばりつくようにして進んでいた。そのため、この区間は意外にも林の中を進んだりして車窓風景にも富み、タイプの違う大きな橋梁も2つほどあった。

 ただ、この付近の線路跡をそのまま利用して新しい道路を造る計画があり、現在この付近でも工事が進められていて、訪れる度に少しずつ鉄道の痕跡は消えつつあったが、このところ工事は完全に止まっている印象を受ける。地元の人に聞くと、まだ3軒ほど用地買収に応じていない家があるとのこと。そのため、短い間ながらレールが残っているところもまだあって、思わず笑みがこぼれてしまう。

橋梁跡
C地点の橋梁跡を小鴨川岸から見たところ。意外に高い。 
橋梁の上にはレールも残っている 

 特にまとまった痕跡を残しているのはC地点である。ここは、倉吉線の線路が、段丘の縁からはみ出すような形で高い橋梁を築いていたところで、今でもレールを載せた橋梁がそのまま残っている。

 これは橋梁の直近まで完成している新道の先から覗き見ることができるし、小鴨川左岸の道から見上げても、なかなかの眺めである。

 いつまでこれらの痕跡が残っているかは、用地買収に応じていない方の頑張り次第であるが、私のような素人から見ると、廃線跡を道路にするには鉄道用地の数倍の幅の敷地が必要であることだし、新たなルートで建設したほうが、何かと融通がきいていいのではないかと思う。しかし、倉吉線跡に限らず、新しい道路ができるときには、忠実に線路跡をたどるケースが非常に多い。

 この橋梁跡の先のD地点にも、美しいコンクリートアーチ橋があって、平成7年夏にはその上をおそるおそる散歩したりしたものであったが、半年後訪れたときには跡形もなく撤去されてしまっていた。(そのため写真に残さずじまいに終わってしまった・・・残念。)

 D地点の先からは道路が完成しており、関金駅跡も痕跡を留めていない。当時を偲ばせてくれるのは、戦後に植えられたという桜並木のある駅前通りだけであるが、この通り沿いにも空き地が増えてしまったようだ。



■ガイド 関金〜山守間

 関金駅の駅舎があった位置から400mほどで、新しい道が突然終わることにより、レールの残る線路跡が現れる。この付近も、天神川の東岸と同様、踏切跡には機器箱が残っている。

 やがて線路は築堤で高さを稼ぐようになり、泰久寺の集落の間を抜けていくのだが、泰久寺の駅跡はここを通り過ぎ、登り勾配の終わった集落のはずれになってようやく現れる。待合小屋は撤去され、駅名標も外枠だけになってしまっているが、2両編成の列車が止まれるかどうかというくらいの短いホームが、今でもそのまま残されている。

 ところで、泰久寺駅跡のすぐ手前の道路をまたぐ橋梁跡(E地点)には、橋桁は撤去されているものの、橋台に昭和14年の着手、16年の竣工という銘板が残っている。関金〜山守間の開通は前述のように昭和33年のことであるが、少なくともこの橋梁に関しては、関金までの開通時には完成していたことになる。

 泰久寺駅跡から先の廃線跡は、通る人もなく雑草の繁茂が激しいが、冬季でしかも積雪のない時なら、なんとかレールの残る線路敷を歩くことができる。竹薮の中を通り抜けたあたりで、小さな川を渡るコンクリート製の小橋梁が現れるが、銘板を見ると、これも泰久寺駅跡手前の橋梁と同様、関金延長時には完成していたようである。

 やがて、倉吉線唯一であった山守トンネルが見えてくる(F地点)。これは戦後の昭和33年の竣工で、コンクリートもまだ新しいように見える。左にカーブする延長170メートルのトンネルの中は、当然ながら雑草がないので、今にも列車が来るかと思わせるような立派なカントの付いた線路が、錆びながらも静かに横たわっている。

泰久寺駅跡
ほとんど現役当時のまま放置されている泰久寺  
駅跡。外枠だけになった駅名標が寂しく建つ  
(駅名標の中身はすぐ近くにある!)  
山守トンネル内部
今なお線路が生々しい山守トンネル内部。  
カーブしたレールが鈍く出口の光に反射する  
 

 トンネルを出てすぐに、道路と小鴨川をまとめて渡っていた橋梁は、平成5年頃に撤去されて跡形もないが、その先に線路を載せた築堤がわずかながら残っている(G地点)。この築堤は、細い道路を跨いでいた橋梁の倉吉方橋台までで途切れているのだが、この脇にある関金町資料館を見過ごしてはいけない。というのは、この資料館の中に先ほどの泰久寺駅跡の駅名標の「中身」をはじめ、関金町が収集した様々な倉吉線の遺物が展示されているのである。

 資料館の横を通り過ぎた右カーブのあたりからは、廃線跡は地元の小学校の通学路として整備された歩行者・自転車専用道となり、終点の山守駅跡に進入していく。だが山守駅跡は、この道路の整備時にプラットホームが撤去され、痕跡として目立つのは敷地の境界標だけとなってしまっている。

 この駅は、現役当時からなぜかどの民家からも離れたさびしいところにあり、並行している道路を走るバスの停留所とも離れていた、奇妙な駅であった。



■国鉄倉吉線あとがき

 ここは、レールもそのままに現役当時の雰囲気を漂わせている区間が比較的多い廃線跡だったのだが、さすがに最近は手が加えられる場所が増えてきた。その中で、変化に富んでいるのは上小鴨より先の区間である。この区間は徒歩による探索をお薦めするが、並行する国道や県道に少ないながらもバス便があるので時刻を調べて利用するとよい。

 倉吉線跡に限ったことではないが、廃線跡を道路や遊歩道に整備するケースは多い。それはそれで人口の1割が土木建設業に関連していると言われるこの日本の、地域振興策や景気対策として間違っているとは思わないが、関金駅跡の手前の道路については、100mほど東側の川沿いにも同じような道路を拡幅整備中であることもあり、疑問符を打たざるを得ない。どちらか1本だけにでもならなかったのだろうかと思うのは、私だけではないと思うが・・・。

Last visited:Jan-2000 / Copyright 1996-2004 by Studio Class-C. All rights reserved.