■沿革

 同和鉱業片上鉄道は、硫化鉄を産出する柵原(やなはら)鉱山の鉱石輸送鉄道的色彩が強いが、ディーゼル機関車が貨車、客車、さらにディーゼルカーまでを一緒につないで走る混合列車が存在したり、貨物列車全廃後もその塗色から「ブルートレイン」と呼ばれたオープンデッキを持った客車列車が走っていたりと、ファンには人気のあった鉄道である。

 ただ、この鉄道ができたそもそものきっかけは、意外にも柵原鉱山ではなかった。もともとは、古くからの瀬戸内海航路の要衝であった片上の町と、山陽本線が通じた和気を結び、かつ片上にあった煉瓦工場へ三石からその原料を輸送するために、計画された鉄道であった。

 大正12年に、まず片上〜和気間が開業した。ただ、その先の和気〜三石間は、既存の山陽本線と並行することなどもあって、建設しないことになった。その代わり、この鉄道の経営に参加していた藤田組(のちの同和鉱業)が営んでいた柵原鉱山の鉱石輸送という目的が急浮上した。もちろん、当初からその目論見があってこそ、藤田組はこの鉄道に資本参加したのであろうが、同年に井ノ口(備前矢田の1kmほど先にあった貨物駅)まで延長した一方で、藤田組はそこから柵原までの索道を敷設したことにより、それまで吉井川の舟運に頼っていた鉱石輸送は飛躍的に近代化された。

 昭和6年には柵原までの鉄路が全通したことにより、柵原〜片上間は鉄道、そして岡山港付近にある製錬所までは海運による、鉱石の大量輸送ルートがここに確立されたのである。

 しかし、エネルギー革命による石油の生産量の増大に伴い、その精製時に発生する硫黄が硫化鉄にとって変わるようになったことや、昭和60年代の急激な円高の影響を受けて、柵原鉱山の産出量が激減し、ついに昭和62年、鉱石輸送は全量トラックに転換されるに至った。

 旅客収入の約10倍にも及ぶ収入を稼ぎ出していた鉱石輸送のなくなった片上鉄道は、もはや存在価値を失ったも同然であった。輸送密度が500人/キロ・日にも満たない旅客輸送主体では、とても鉄道存続は難しく、会社側は廃止の意向を打ち出した。鉱石輸送の減少に対応して取り扱いを始めていたコンテナ貨物や肥料輸送も、鉱石輸送にとって変わるほどでもなく、翌63年には貨物輸送を全廃、そして沿線自治体の反対などもあって、3年にわたる観察や話し合いの期間をおいたのち、平成3年に全面廃止された。

 全線のなかで、列車行き違いのできた駅が多く、また線路の有効長もかなり長いのは、鉱石輸送が盛んであった頃の名残である。また、中山と杖谷以外の駅には、たとえプラットホーム1面だけの駅であっても駅舎があって、すべてにおいてスケールの大きい本格派という印象を強く受けた鉄道であった。

 なお、全線にわたって線路跡を歩行者自転車専用道化する工事が、ここを訪れるたび進捗しつづけていて、鉄道施設は随時消えているが、あえてこの項では廃線跡情緒豊かであった頃の写真を掲載することを、あらかじめお断りしておく。



■ガイド 片上〜和気間

 起点の片上駅は、片上鉄道よりずっと後に開通したJR赤穂線の西片上の近くの、中心街や港に面した場所にあった。


 旅客ホームこそ構内の端のような位置に1面のみおかれていただけであったが、何本もの側線が並び、鉱石積み替え施設を擁した構内の跡はかなり広く、備前バス・備前片鉄バスの事務所や車庫、岡山セラミックスセンター、それに機関庫のあったあたりはスーパーや電器店と、多種多様な跡地の使われ方がなされている。跡地の開発が終わるまでは、プラットホームも途中で切断され、おそらく構内作業用に使われていたであろうと思われるサーチライトのついた高い信号柱も突っ立ったままであったが、今はそれらも見あたらないようである。

 信号柱のかなり高いところには、踏切の警報機で使う赤色灯らしきものがついていた。実際に、機器の裏側の表示を確認しても、踏切用の機器であるこの灯体は、この鉄道の信号機以外の表示器として、この先もいろんな所で見かけることができる。また、信号機についても廃線後撤去されずにそのまま残っているものが多く、線路敷跡の脇にポツンと信号機が立っているのが、この鉄道の廃線跡のトレードマークとなっている。

 廃線跡に踏み出す前に、線路が延びていたのとは反対方向である西側に少し足をのばすと、片鉄興産の敷地内に、片上鉄道で使われていたディーゼル機関車DD13-552や有蓋貨車2両、さらにもっと西方には腕木信号機や踏切警報機・遮断機などの遺物が保存されているのを見ることができる(A地点)。

 さて、電器店の裏側の流川を渡っていた橋梁の橋台跡から、廃線跡探索は始まる。レールや枕木はないものの、バラストがまだ残っている廃線跡は、いきなり複数の信号柱、さらに国道250号線と交差していた踏切跡では、障害物検知器(!)などの遺物が次々と現れるのを見ながら左にカーブし、助走をつける間もなく、この鉄道で最急であった1000分の28.6の上り勾配にさしかかる。

上り勾配
片上を出てすぐの上り勾配。上の電車はJR赤穂線  

 この峠越えのために、牽引力の弱い蒸気機関車時代には補助機関車を必要としたが、この上りの始まる地点からの廃線跡は、自転車・歩行者専用道に整備されている。結論から先に言うと、和気までの廃線跡は全て舗装道になってしまっている。

 廃線跡の脇には、昔の鉄道ではよく見られた懐かしいハエタタキのような形をした電柱が林立しているが、整備された廃線跡歩きはそれほど楽しいものではない。やがて前方に、頑張れば切通しで抜けれそうなほんの小さな小山が見えるが、ここだけはもうつきあいきれないというように、トンネルが口を開けている。これがその名もズバリの峠トンネルである(B地点)。

 舗装される前のトンネルの片上口付近には、バラストの上に四角い黒いゴムが散乱していた。これは、幹線の鉄道でよく見かけるPC枕木というコンクリート製の枕木と、レールを支える台座金具のようなものの間に使用された部品であると思われるが、片上〜和気間の枕木がPC枕木であったからこそ、こんなものも落ちていたのである。片上を出ていきなり目にした踏切障害物検知器といい、廃線跡探索でこのような遺物に出会うケースは非常に稀であり、この鉄道の規模がいかほどであったかが、こんなところからも伺える。

 ついでに言うと、片上鉄道はこのほかにもマルチプルタイタンパという、都市部の鉄道の駅構内の脇で留置されているのを時々目にする、バラストを交換する保線機械までも持っていた。これは廃止直後、系列である小坂鉄道(秋田県)に譲渡されたそうである。小坂鉄道に譲渡されたのは、このほかにもモーターカーやPC枕木三千本などもあったという。

 さて、途中で下り勾配に変わったトンネルを抜けると、それまでとは風景は一変し、のどかな田園地帯を進む。線路跡は国道374号線に併走するようになり、緩やかに右カーブを描き始めるところで、ようやく最初の駅跡が現れる。これが清水駅跡である。

清水駅跡
ススキに覆われた清水駅跡  

 ここには上下線用がそれぞれがずれて配置された、カーブした相対式ホームがあった。上下線のホームを結ぶように、真ん中に構内踏切があるという、跨線橋がなく、しかもタブレット(通票)の受け渡しをしていた駅によく見られた構造を持っていた。

 つまり、タブレットを受け渡しする駅務員の移動距離が最短ですむということであるが、列車の行き違いができる有効長がかなり長いわりには、旅客列車の編成の長さが短かったからこそ、可能なつくりであったともいえる。その2面あったプラットホームは、件の整備工事により、片上方面行きこそ撤去されてしまったが、柵原方面行きは未だに健在である。

 緩やかな勾配を下っていくと、明らかに周りの雰囲気とは異質な、かん高いエンジン音が聞こえてくるようになる。これは近くにあるサーキット場から発せられるものであるが、廃線跡がこのサーキット場へつながる道路と交差する先が、ホーム一面だけの駅であった中山駅跡である。ここにも長い間プラットホームが残っていたが、歩行者・自転車専用道の整備とともに撤去され、今では駅舎跡の敷地が目立つだけである。

 中山駅跡の先の小さな川に架かる橋は、歩行者・自転車専用道の橋としては、あまりにごついことからも判るように、片上鉄道の 橋梁をそのまま再利用したものである。そして、この先で廃線跡の道はいったん消えるものの、山陽自動車道の高架下付近から再び歩行者・自転車専用道が復活する。途中にある川を渡る橋梁にも鉄道時代のものの転用があるが、相変わらず鉄道跡の匂いは薄いまま、左にカーブしてJRとの接続駅であった和気へと近づいていく。

 和気は、列車の乗客の大半が入れ替わり、また多くの列車もJRとの接続をとるために長時間の停車をしていた駅であるが、旅客面だけでなく、貨物輸送においても国鉄と唯一線路がつながっていた駅として、片上鉄道の中で非常に重要な位置を占めていた。

 JR和気駅の1〜3番ホームの南側に、4・5番ホームとして片上鉄道の島式ホームがあって、JR駅とは地下道で結ばれていた。そして、島式ホームのさらに南側には貨物ヤードが広がり、多くの貨車が留置されていた。片鉄の廃線後もしばらくの間は、島式ホームがそのままで、往時を偲ばせてくれていたが、残念ながら歩行者・自転車専用道の整備とともに失われてしまい、今では味気ない。

つづき

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