和気を出てからも、廃線跡は歩行者・自転車専用道になっている。そのため、緩やかにカーブしていた橋梁として片上鉄道のランドマーク的存在の一つであった金剛川橋梁(C地点)も、再利用はされているものの、オレンジ色に綺麗に化粧直しされたため、橋梁の側面に書かれていた「同和鉱業片上鉄道線」の文字は消えている。
この歩行者・自転車専用道は、昭和51年3月竣工の表記が残る鵜飼川橋梁などで、鉄道時代のものの再利用が見られるものの、築堤の側面をコンクリートで固め直したり、切通しも崖を削り直したりして、基本的にはかなり力の入った整備がなされている。
そんな勢いもあって、相対式ホームが残っていた本和気駅跡、そしてホームのみならず駅舎までもが近年まで残されていた益原駅跡も、影かたちなく撤去されてしまった。歩行者・自転車専用道を歩いていても、駅跡がわからないほどなので、目安をあえて記すと、本和気駅跡は左手に大きな病院がある脇、そして益原駅跡は、周りの家々が閑散としてきた後、左側に一見無意味に見える、新しいコンクリートの縁石が高まっているところである。
それにしても、後述する備前矢田駅跡付近の歩行者・自転車専用道と変貌した区間が、駅跡のホームや信号、ハエタタキ型の電柱をできるだけ残しているのとは対照的な整備である。
| よい風情を残す天瀬駅跡(整備前) |
益原駅跡の北方で、廃線跡の道は吉井川と右手の山に挟まれ、左に走る国道374号線より一段高いところを進むようになる。鉄道時代の橋脚を利用した少し高さのある橋梁を過ぎ(D地点)、さらに進んでいくと、まだそれほど傷んでいない信号機が現れて(昔と位置が変わったような気がするが・・)、有効長の長い構内跡を思わせる駅跡に着く。
清水駅跡と同じように、互い違いになっていたホームのうち、柵原方面行きのホームとそれに載っかった駅舎が残っていることによって、現役時代の風情を色濃く残しているこの場所は、末期まで列車行き違い設備の残っていた天瀬駅跡である。
| 2本連続する天神山第一、第二トンネル |
この鉄道のプラットホーム面には、列車停止位置を示すために、1、2、客等と白ペンキで味のある字が書かれていた。ここにはその一部がまだ鮮やかに残っているが、残存するプラットホームが少なくなった現在では、この表記も貴重になりつつある。
歩行者・自転車道への整備工事は、平成15年1月現在、天瀬駅跡の少し先で途切れているが、引き続き工事中であった。
そのため、隧道が2本連続して口を開けていた天神山第一、第二トンネル(E地点)も、鉄道時代の匂いを強く残すポイントであったが、すでに重機が入っていた。現在では整備がどんどん進んでいると思われる。また、緩やかな左カーブを曲がった先にあった河本の駅跡は、廃線後かなりの間にわたって残っていた廃屋同然の駅舎や線路敷がとうとう撤去されて、家屋が建っている。
| 草が茂ったままだった河本駅跡(撤去前) |
河本駅跡を出ると、並行する国道374号線が上を跨ぐことにより、吉井川のすぐ横を進むことになる。この先で、廃線跡はまたまたアスファルトに覆われるが、間もなく前方に大きな鉄扉が現れる。
これは、吉井川の水位上昇から矢田地区を守るため、昭和57年に完成した竜ヶ鼻閘門といい、列車の通らない今では閉められていることが多いようだが、撤去の時の都合だったのか、閘門の真下のレールが数十センチだけながら残っているのが微笑ましい(F地点)。
やがて備前矢田駅跡に着く。駅舎はすでにないが、2面のプラットホームや貨物上屋は残っており、貨物上屋に関してはいまだ現役で何かの用途に使われているかのようである。残されているホームの間隔が比較的広くなっているのは、上下線の線路の間にもう1本の線路(中線)があった名残である。
備前矢田駅跡から井ノ口付近までの廃線跡は、整備された歩行者・自転車専用道になっている。もっとも和気町域とは異なり、信号機やハエタタキのような形をした電柱の一部は残してあり、細い舗装道の脇に、鉄道時代の信号や電柱の遺物が建っているという、独特の景観をなしている。
廃線跡は右側に山が迫るあたりから、ようやくレールをはがされたままの状態が長く続くようになる。右側の崖に、平行な細い線が何本も張られているのが見えている(G地点)が、これは落石感知装置であり、張られているワイヤーが切れると警告を発するようになっていた代物である。
そして、ここを過ぎると突然、右側全体が建物も地面も赤茶けた、ある種異様な光景に変わる。これはこの場所の奥に、弁柄(ベンガラ)という赤い顔料を生産する工場があるからである。世界遺産である安芸宮島の厳島神社を彩る朱色にも用いられていることが象徴的であるこの弁柄も、柵原から産出される硫化鉄に関連した製品である。
左手の道路より一段高いところを、帯状に線路敷跡は伸びている。これをのどかに進んでいくと、やがて苦木の駅跡が現れてくる。この駅は、ほんの数軒の民家しかない地点に置かれていた駅であるが、もとは列車行き違いが可能であった。互い違いになっていた相対式のホームがかろうじて残っているが、面白いことに、民家や道路がある方とは反対側の、山側のホームに駅舎が載っている。そのため、有人駅だった当時に乗客はどのような動線をとっていたのか興味を惹かれるが、このあたりも平成15年1月現在、整備工事が始まっているため、キロポストまで残っている駅跡がどこまで残されるか、予断を許さない。
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以前の杖谷駅跡(平成10年2月撮影。 現在は民家を含め跡形もない) |
そして、吉井川の蛇行にあわせて大きく右にカーブすると、民家の縁側の前にちょこんとホームと待合小屋をつくったような、長閑な杖谷駅があった。だが非常に残念なことに、現在、この付近一帯は、和気赤磐共同コンポストセンターという廃棄物の処理施設になったため、ここにあった民家ごとすっかり消えうせてしまった。
巨大な倉庫状の建物がドカンと建っている様子は、一瞬場所を間違えたかなと思ってしまうほどの変貌であるが、脇に橋梁跡は残っているので、間違いなく杖谷駅があった場所である。利用者は少なかったのに、いつも美しく手入れがなされていた、あの旅情溢れた小駅の風情はかけらもない。
再び右側の崖が険しくなり、警報機のついた落石感知装置があるところを過ぎて、大きく左にカーブすると、備前塩田の駅があった。ここから終点柵原までの駅舎は、それまでとは一転して、赤い三角屋根の目立つ、古い言い方でいうとハイカラな洋館風の建物であった。そのため、瀟洒な駅舎と無骨な鉱石列車とのミスマッチが、この鉄道独特の景観をなしていた。ただ、かなりの間、相対式のホームと構内踏切の警報機らしき跡が残っていた備前塩田の駅跡も、現在は更地となっている。
備前塩田を出て、すぐに吉井川を渡っていた第一吉井川橋梁(H地点)は、この鉄道随一の長さを誇った橋梁である。これも撤去されており、一部の橋脚跡の基礎部分が残されているのみである。
第一吉井川橋梁を渡ってからは、それまでとは一変して平野部を進んでいた。この区間は一般道に整備されつつあり、現在は一部を除き完成している。備前福田駅跡も駅舎は撤去され、一面残っていたホームもわざわざコンクリートで固めなおされている。駅正面側の旧道から駅跡に延びていた道路の分岐部に、つい近年まで残っていた「福田駅」と書かれた、矢印のついた赤錆びた看板も、この道路の拡幅とともに消えている。
備前福田駅跡の少し先のI地点にある橋梁跡、および溢水橋跡だけが、現在残っている鉄道時代の痕跡である。そして、吉井町の中心であり、片上鉄道の主要駅の一つでもあった周匝駅跡も、駅舎がないばかりでなく、ホームもかなり削られて天面に往時の面影を残すのみとなっている。ただ、片上方にあった貨物上屋については、いまだに現役のようで物資が積まれている。
周匝駅跡の先は、早くから道路化されていた。第二吉井川橋梁(J地点)も、鉄道時代の橋梁を有効利用した歩行者・自転車専用道となっていたのだが、平成10年9月の台風による集中豪雨のために、柵原方の橋脚及び橋桁が流されてしまった。そのため、旧橋梁を撤去してまったく新しい橋が建設され、ここでも片鉄の遺物は消えてしまった。
そして、第二吉井川橋梁の先で、線路が左にカーブしている途中にあったのが、美作飯岡駅跡である。ここには、ゆったりとカーブした相対式のプラットホームが残っているが、用地の関係なのか、周辺の集落とは少し離れた田んぼの中に駅が置かれていたのが面白い。
もともと、吉井川と吉野川の合流点であるこの付近は、古くから交通の要衝であった。そのため、駅開業当初は、美作地方で産出する貨物の発送で大いに賑わったそうで、備前矢田に次いで側線の多い駅であった。しかし、昭和9年の姫新線林野駅開業とその2年後の姫新線姫路〜津山間開通によって、この興隆もわずか数年の間だけで終わり、晩年は寂しい駅となっていた。
ところで、これまで駅名の頭には備前がついていたのが美作に変わっている。先ほどの第二吉井川橋梁で、旧国界を越えたのである。
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