■沿革

官設の北陸本線が敦賀から延びて明治30年(1897年)に福井〜小松間が開通し、いよいよ石川県の加賀平野にも鉄道時代がきた。
官設の鉄道駅から加賀温泉郷の各温泉街まで私鉄が計画され明治32年には早くも馬車鉄道が開業している。 大正11年には全て電化し各温泉街を結ぶ温泉電気軌道が完成した。

  山中馬車鉄道

山中馬車鉄道は、山中温泉の中曽根次郎らほか6人の旅館経営者らが計画し、大聖寺駅と山中温泉を結ぶ馬車鉄道で明治31年(1898年)設立されました。明治32年に山中〜荒木間4.8kmが15人乗り一頭立ての10両で開業し、明治33年大聖寺まで伸延する。建設費は当初5万円を予定していたが6万円掛かったとある。
明治43年に電化の認可をえて山中発電所が明治45年完成し、同大正元年9月山中電気軌道に改名する。また設立準備中の温泉電気軌道に15万5千円で譲渡する事に決する。
大正2年に電化工事が完成し石川県内でもっとも早く電車が走った。
山中〜大聖寺間8.6kmを馬車鉄道では1時間掛かったものが電車では20分に短縮されたとある。

加賀温泉郷の中ではもっとも早く計画された鉄道です、やはり山中温泉が官設鉄道からもっとも遠く交通の便が悪いため旅館の旦那衆が浴客誘致のため奮闘したものと思います。
もっとも鉄道が出来ても一般の庶民には贅沢で、普段は徒歩連絡していたようです。日本百名山の著者の深田久弥氏は大聖寺町出身ですが彼が小学生の頃、初めての登山で山中温泉の奥にある富士写ヶ岳に登った時も往復とも歩いて行ったと書いてある。

山中馬車鉄道 山中駅
山中馬車鉄道 山中駅 

  山代馬車鉄道

明治38年(1905年)に山代温泉の永井寿ら旅館の旦那衆15人が発起人となり温泉客の便宜をはかるために資金を出し合って設立する。明治44年3月、官設の動橋駅(いぶりばしえき)の東側より山代まで5.1km、当初は馬車鉄道で開業した。
のちに温泉電気軌道に4万円で譲渡する事に決する。

山代馬車鉄道 山代駅
山代馬車鉄道 山代駅 

  粟津軌道

明治40年(1907年)11月に官設北陸本線の粟津駅が開業した、これに合わせて粟津温泉の法師善五郎らほか経営者6人が明治40年馬車鉄道敷設の許可を得た。
明治44年粟津〜符津間(粟津駅)3.5kmが開通する。当初12人乗り4両で営業開始する、運賃は8銭で特等が12銭とある。
明治45年5月温泉電気軌道に3万3千円で譲渡することを決した。

  片山津軌道

明治42年(1909年)に官設の動橋駅(いぶりばしえき)の西側より片山津〜動橋間を鉄路で結ぶ計画を、片山津温泉の稲葉市次郎らほか6人の旦那衆が計画する。
明治44年6月に片山津軌道が設立され、当初の馬車鉄道の計画が変更されガス式自動車軌道の敷設免許を得る。しかし工事は進まず大正2年温泉電気軌道に支援を仰ぎ完成後譲渡する事とし当初の馬車鉄道に戻して大正3年4月片山津〜動橋間2.6kmが開通する。

  温泉電気軌道

明治45年(1912年)加賀藩の元家老の横山家をはじめ60数名が参加して温泉電気軌道が設立された。 温泉電気軌道はそれまでに営業を始めた各馬車鉄道を引き継ぎ、電化工事を推し進め大正2年には山中電気軌道が営業を開始した。当初は送電事業もしていたようです。
大正3年(1914年)10月には山代〜河南駅間が開通して山中線に接続する、さらに山代〜粟津間を開通、動橋線に宇和野駅で接続して各温泉街を結び、大正4年には山代〜動橋間、粟津〜粟津駅(官設)間の連絡を図った。片山津線は大正11年に電化が完成し、温泉電気軌道29.2kmの電化が完成した。
大正15年、大聖寺川上流に枯淵発電所が完成し自家動力とし余剰分は付近の旅館や機業場に送電していた。 昭和6年山中で大火があり停車場や他1戸と客車1両を焼く。昭和16年には山代でも大火があり車庫や車両を焼失した、このときは他社から車両を借りて乗りきったとある。
また運転にも工夫を凝らし、夏期には温泉納涼電車を運転し浴客の人気を集めて業績は上向きでこの併合は成功であったと記してある。
昭和18年(1943年)6月に戦時統合により北陸鉄道に全ての路線を合併する。

温泉電気軌道全図
温泉電気軌道全図 黒線 (現在の地図に書きました) 

  北陸鉄道河南線時代

戦後、徐々に道路整備がなされモータリゼーションが発達してくると河南線の経営はあやしくなり始め、昭和37年11月にまず粟津線(粟津〜宇和野間)が廃止された。さらに昭和40年片山津線が廃止された。
その後ますます経営が苦しくなり、北陸鉄道は保有する全路線を廃止すると発表し関係自治体や利用客の反発をかうが、北陸鉄道河南線は昭和46年(1971年)11月山中線(山中〜大聖寺間)、河南線(河南〜動橋間)を廃止し温泉電気軌道時代から加賀温泉郷を結んで「おんでん」と親しまれて来た線路は全て廃止されバス輸送に転換された。
昔の地図では温泉電気軌道からの線路全てを北陸鉄道河南線と記してあるものもある。
今では、加賀温泉郷に電車が走っていた事を実際に知る人もだいぶ少なくなりました。

  つづき