■ガイド 伊作〜加世田間


 伊作の町へ立ち寄るために大きく東へ迂回した線路は、針路を西へ、そして南へと戻していく。このうち、西へと向かうJ地点からの廃線跡は、近年整備されたらしい道路となっていて、K地点の今田公園まで続いている。今田公園から先は藪に覆われており、立ち入ることは無理であるが、伊作川に架かっていた橋梁が撤去されているだけで、ほかの廃線敷は残っている。

 廃線跡が、1000分の25の急勾配をもって、伊作川の南側の台地にまで上りきると、辺りは水田や畑が入り混じった耕作地帯が広がっている。台地にあがってすぐの辺りが南吹上浜の駅跡になるが、線路敷の東側にプラットホームの残骸らしき、コンクリートの塊が転がっているだけである。

 路盤は完全に残っているものの、草木の繁茂によって、その上を歩くことが困難であることが多い廃線跡をぐんぐん南下していくにつれ、あたりの地面が先ほどの吹上浜付近の砂地とは対照的な、まったりとした黒土になっていることに気づく。北多夫施駅跡は、そんな田園地帯のど真ん中にある。

北多夫施駅跡
北多夫施駅跡には相対式ホームが残っている 
小橋梁跡
ガーダーの残る小橋梁跡(L地点) 

 ここには相対式のプラットホームが残っているほか、枕崎方には貨物ホーム跡らしきものも認められる。その先の踏切跡の脇には、2軒ほどの元・駅前商店が並んでいるが、あたりの家屋はこれだけであり、あとは一面の耕作地帯である。これほどまわりに何もないところに、信号場ではなく、列車行き違い可能な駅がおかれることは珍しいが、実際ここは正式には停車場ではなくて停留所であったという。

 廃線敷が、北多夫施駅跡が載っている台地から堀川に沿う水田地帯に下ると、ここには美しい築堤が残っている。この築堤が低くなったL地点に小さな橋梁が見られるほか、堀川を渡っていた橋梁のところには、川の両岸の道を越えていた分を含め、3対向の石積みの橋台がまとめて残っているのが見られる(M地点)。

南多夫施駅跡
南多夫施駅跡に建った住宅の脇 
にはプラットホームが一部残る 

 南多夫施の駅跡には、2軒ほどの新しい住宅が建っている。ただ、プラットホームの一部が寸断されながらも残っているのが面白い。また、石で囲われた建物の土台跡らしきものもある。ここも以前は列車行き違いが可能であったという。

 廃線跡は、この南多夫施駅跡の先から道路化されている。私が訪問した平成14年5月の段階では、工事中の箇所を含め、1キロほどで廃線敷はもとの姿に戻ったが、これからどんどん伸長しそうな勢いである。

 そして、この道路化が終わり、段丘状の地形に登りつめたあたりから、周りの田園風景から見ても明らかに異質な8階建ての巨大なマンションが、それも、真っ正面に立ちはだかっているのが見えてくる。歩を進めるにつれ、右にも左にも逃げずにどんどんその形だけが大きくなるこの建物は、まさに阿多駅跡の敷地の半分を使って建てられたマンションなのである。

 駅前だったあたりの風景は、典型的な鄙びた片田舎の駅前の風情のままで、一角には石造りの農業倉庫も残っているほどであるため、この真新しい近代的なマンションとの対比には驚くばかりである。

阿多駅跡
阿多駅跡から南方を望む。左に伸びる道路は 
知覧線跡、右奥に伸びる築堤状の路盤が本線跡 

 この駅からは、旧薩摩中央鉄道から南薩鉄道の一支線となった、知覧線が分岐していた。駅跡に建つマンションの上層階からは、加世田方面と知覧方面、それぞれの廃線敷を美しく眺めることができそうだなあと指をくわえながら、左方へと知覧線跡の舗装道路を見送ると、加世田へ向かう廃線跡は、また未利用の荒れ地に戻る。

 万之瀬川を渡っていたあたりは、河川改修がなされたようで、跡は残っていない。そして、市街地に近づいた廃線跡は、道路になったりしながら、この鉄道の本拠であった加世田の駅跡に進入する。

 現役車両はもちろん、廃車になったような古い車両までもが雑多にゴロゴロしていたという広い構内跡は、駅舎のあったあたりがバスターミナルになり、その他の部分には電器屋やホームセンターなどの大店舗ができているが、まだ敷地には余剰感がある。バスターミナルのロータリーの中心には、大正2年ドイツ製の小さなSLが展示されているほか、その北側には石造りの農業倉庫を利用した南薩鉄道記念館があって、あのオレンジ色の流線型気動車などの各種車両や、各種資料が収蔵・展示されている。



■ガイド 加世田〜津貫間


 鉄道現役時代、加世田から先は乗客もぐっと少なくなっていた。そして、これにあわせるかのように、軌条もそれまでよりさらに簡易になって、列車はかなり揺れながら走っていたという。

 家屋の間にその雰囲気を残している加世田の先の廃線敷は、国道226号線と交差していたN地点からは、丘陵にある運動公園にのぼるための2車線道路となっている。ただ、この道路は途中でプイと左に曲がってしまう。そのため、訪れる人もいない加世田トンネルの手前からの廃線敷は、山中にそのまま眠っている。

加世田トンネル跡
濡れた枕木が出口から差し込む光に 
反射する加世田トンネル跡(伊集院方) 

 トンネルの伊集院口のあたりは草木が繁茂するにまかせてあるが、肝心のトンネル口は塞がれていない。それどころか、トンネルの中に入って足許を見ると、道床や枕木までもが手付かずのまま残っている。

 ただ、この下り片勾配のトンネルに入り、運動公園で遊ぶ子供の声が小さくなって湧水の音が目立ってきた頃、パタパタパタと頭上で薄気味悪い音がする。もしやと思っておそるおそる見上げると、それこそ無数のコウモリが住みついていて、列車が通らなくなって安全な住みかとなったトンネル内を、自由気ままに飛び回っているのである。そのため、肝っ玉の小さい人にこのトンネルの通り抜けはお勧めできないが、市街地の至近でこのような静寂があるギャップには驚かざるをえない。

 そもそも、加世田を出てわずか1キロも行かないうちにこのような静寂があるのも、市街地を避けたようなルート選定をしたからに他ならない。地形図を見る限り、こんなトンネルを含むルートを取らなくとも、国道270号線に沿った経路にしていれば、トンネルどころか勾配さえほとんどないままに、上加世田付近に出ることができたのにと思う。建設当時、沿線住民に汽車が走れば馬が汽笛に驚いて暴れるとか、震動で稲が枯れるなどの反対が多く、全体的にくねくね迂回するような線形が多くなったという。ここもそうなのだろうか。

 いずれにしても、このトンネルの建設は湧水が多かったために、難工事だったらしい。建設工事中、落盤により犠牲者も出たということを知ってゾッとしたのは、探訪後のことであった。

 加世田トンネルを出てから上加世田駅跡に下る廃線敷は、かなりの藪こきを覚悟しなければならないが、旧駅前に農業倉庫がひっそり残る上加世田駅跡には、比較的長いホーム跡が残っている。さらに、上日置のケースと同様、加世田トンネルから湧き出る水を水源にしていたと思わせる蒸気機関車用の給水塔が、伊集院方に残されている。

上加世田駅跡
角張った給水塔がプラットホーム 
の端に残っている上加世田駅跡 
内山田駅跡
内山田駅跡の伊集院方には踏切跡が残る。
奥には小さく国道の跨線橋が見える 

 この先も、その上を歩くことこそ困難であることが多いものの、橋梁跡の一部が完全に撤去されているのを除くと、すべての廃線敷が残っている。そのため、時々現れる駅跡がアクセントとなる。

 内山田駅跡は、緩やかにカーブした広い構内跡に、うちひとつは貨物用のものだったのか、長短2つのプラットホームの跡がある。そして、次の上内山田の駅跡には、プラットホームは残っていないものの、手前の道路に踏切跡が残っているほか、構内跡にはなぜか鉄橋のガーダーの切れ端が放置されている。

橋台跡
上内山田〜干河間にある小さな橋台跡(O地点) 

 上内山田と干河の間は、並行国道から離れてしまうこともあって、廃線敷に沿って進むことは難しい。しかし、O地点の橋台をはじめとして、相変わらず廃線跡は手付かずのまま眠っている。

 その廃線跡が、久しぶりに見る長閑な小集落を過ぎたところに、干河の駅はあった。最近できたらしい太い道路が、駅跡を貫いてしまっているが、その枕崎方には、雑草に埋もれながらも、プラットホームの一部がひっそりと残っている。

 昭和58年の水害では、内山田付近のほかに、この干河駅の南方でも路盤が流失した。ただ、今こうやって現場を訪れても、それほど高い路盤でもないし、被災当時の写真を見ても、被害を受けた箇所の長さはせいぜいレール一本分である。私の受けた印象では、一畑電気鉄道立久恵線の水害被害箇所と同じ程度であり、その気になれば、すぐにでも復旧できそうであったように思える。ただ、どちらの路線とも、あの段階でお金をかけて復旧したところで、費用対効果は全く期待できなかったであろう。

 P地点で国道をくぐっていたところは、同時に加世田川を越えていた、いわゆる二重立体交差のようになっていた箇所でもある。ここには伊集院方に橋台が残っているのが、国道橋の上からも認められる。その一方で、津貫の駅跡は、その手前の加世田川が改修されたことが影響したのか、石造りの農業倉庫以外に、それらしい名残は感じられない。

 ただ、駅跡のそばにある保育園の園庭に、この鉄道のものと思われる古枕木が無造作に積み上げてあった。子供が遊ぶには少々危ないような気がしたけれども・・。



■ガイド 津貫〜枕崎間


 加世田を通って東シナ海に注ぎ出る加世田川と、枕崎へと流れてゆく花渡川との分水嶺は、津貫のすぐ先である。しかし、それほど急な峠越えでなかったために、トンネルに頼ることなく下り勾配に変わっていた廃線敷は、再利用の方途もないのか、相変わらず途切れることはない。

 そのなかでも面白いのは、新旧道路の跨線橋が双方とも残っているQ地点である。古いほうの小さな跨線橋には昭和5年7月、そして少し高いところにある現国道の跨線橋には、昭和48年3月との竣工の表記があって、その造りや大きさに半世紀の差を感じさせる。

上津貫駅跡
ひっそりと島式のホームが残る上津貫駅跡 

 次の上津貫の駅跡は、少々わかりにくいところにある。というのも、駅へ進入する道が並行国道の側ではなく裏側の生活道路側にあり、しかもあたりには廃屋があるだけで何もアクセントになるものがないため、駅へ入る道のとっかかりが大変わかりにくいのである。ただ、この道から駅跡に入ると、島式であったと思われる、カーブしたプラットホーム跡がひっそりと残されている。

 やがて廃線跡は、典型的な農村の風景を見せる久木野の集落の中を通るようになる。ここにあった薩摩久木野の駅跡は、土が盛られて工事事務所と化しているために跡を残していないが、その手前のR地点の道路には、黄色地にSLマークが描かれたおなじみの踏切注意の道路標識が建ったままだし、駅跡の枕崎方のS地点の廃線敷には、アジサイが帯状に植えられ、一見遊歩道のようになっている。

 たまたま手入れをされていた初老の男性にお話を伺えたのだが、鉄道廃止後、放置されていた旧線路敷を鹿児島交通から借り上げ、土壌を入れ替えたうえで、一人でこのような植栽を施されているそうである。自分たちが住む村を、個人の力で少しでも美しく保とうとするその心意気に、頭が下がる思いである。

 狭小な谷を通り抜け、「私鉄鹿児島交通線」との記載がある跨線橋(T地点)をくぐると、金山駅があった。この駅名、そしてその由来となった地名はもちろんのことだが、これは字面のとおり、島津藩直営の金鉱山が戦前まであったところから付けられている。鹿児島県は菱刈の例を持ち出すまでもなく、昔から金山が点在していた。ここもそのうちのひとつであり、駅跡から東へ分け入ったところにその金山はあった。

鹿籠駅跡
踏切跡の向こうが鹿籠駅の敷地跡 

 この先の花渡川を渡っていた地点には、コンクリート製の橋台と橋脚がいまだに残されたままである(U地点)。やがて、枕崎の平地に出てきたことを実感するようになると、跨線橋をくぐったり、道路を越える橋梁の跡を見せたりしながら市街地に出てきて、長かった旅も最終章である。

 鹿籠駅跡は、手入れの行き届いた空き地になっていて、その中心にあるバス停の前には、パーク&ライド用と思われる駐車場が設けてある。残念ながら、駅跡の敷地の形以外に面影はないが、その伊集院方には踏切跡、反対の枕崎方には橋台が残っている。

 この先、枕崎の市街地に入っても、廃線敷は帯状の荒れ地となったまま、途切れなく続いている。撤去の跡も生々しい踏切跡を何箇所かやり過ごし、切通しを抜けると、いよいよたくさんの鹿児島交通バスが体を休めているところが見えてくる。ここが枕崎の駅の端で、その先に久しぶりに生きているレールが見えてくる。

 あまり理解してもらえないかもしれないが、こうやってひとつの路線を何日もかけて廃線跡探訪をしていると、生きている線路に飢える感覚、といえばいいのか、久しぶりに見る頭の光っているレール、油の落ちた跡も生々しい濃褐色の枕木、灯火が煌々と灯る信号という現役の鉄道施設を見ると、ようやくやってきたなあと、少なからず感銘を覚える。

 考えてみれば、ここまでの心境になったのは、国鉄天北線跡探訪時の南稚内到着時以来であり、考えてみれば北と南の最果ての地の廃線跡であることも影響しているのかもしれない。

枕崎駅1
朝の枕崎駅に、JR指宿枕崎線の通学列車が到着した。
ホームに降り立った乗客は思い思いの方向へと散っていく 
枕崎駅2
乗客を呑み込んだ鹿児島交通バスが 
次々と発車していく枕崎駅前の朝の情景 

 枕崎駅は、鹿児島交通線があったころは、鹿交と国鉄が島式ホームの片側づつを使っていた。駅の所有はここを開設した鹿児島交通のものであったため、鹿交廃止までは、この駅は国鉄の駅数にカウントされていなかったというのが面白い。

 今は東から延びてきた一本のJRの線路が、分岐器もなく、ただ行き止まりになっているだけの簡素な終着駅の駅舎は、相変わらず鹿交が所有している。その駅舎は、バスの営業所として使われており、待合室もバスのためのものを、JR用にも間借りしているといった感がある。

 私は、朝の指宿枕崎線の7時32分枕崎着の列車の様子を見ていたのだが、列車から降りた高校生、あるいは三々五々ここに集まってきた人たちは、7時45分の伊集院・知覧・水産高校行、50分の鹿児島・川辺高校・知覧(45分発と経由地が異なる)行、そして8時の空港行と、次々と発車していく計7台のバスに続々と乗り込んでいった。

 存外に活気があるのに驚くとともに、この駅は鹿児島交通にとってバス事業の要衝であること、また鉄道現役時代でも、わずか数分で折り返す列車が多かった(末期には1分というのも少なくなかった)こともあって、ここ枕崎では鉄道よりもバスが幅をきかせていたであろうことが、容易に想像された。

  つづき

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