ここには相対式のプラットホームが残っているほか、枕崎方には貨物ホーム跡らしきものも認められる。その先の踏切跡の脇には、2軒ほどの元・駅前商店が並んでいるが、あたりの家屋はこれだけであり、あとは一面の耕作地帯である。これほどまわりに何もないところに、信号場ではなく、列車行き違い可能な駅がおかれることは珍しいが、実際ここは正式には停車場ではなくて停留所であったという。
廃線敷が、北多夫施駅跡が載っている台地から堀川に沿う水田地帯に下ると、ここには美しい築堤が残っている。この築堤が低くなったL地点に小さな橋梁が見られるほか、堀川を渡っていた橋梁のところには、川の両岸の道を越えていた分を含め、3対向の石積みの橋台がまとめて残っているのが見られる(M地点)。
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南多夫施駅跡に建った住宅の脇 にはプラットホームが一部残る |
南多夫施の駅跡には、2軒ほどの新しい住宅が建っている。ただ、プラットホームの一部が寸断されながらも残っているのが面白い。また、石で囲われた建物の土台跡らしきものもある。ここも以前は列車行き違いが可能であったという。
廃線跡は、この南多夫施駅跡の先から道路化されている。私が訪問した平成14年5月の段階では、工事中の箇所を含め、1キロほどで廃線敷はもとの姿に戻ったが、これからどんどん伸長しそうな勢いである。
そして、この道路化が終わり、段丘状の地形に登りつめたあたりから、周りの田園風景から見ても明らかに異質な8階建ての巨大なマンションが、それも、真っ正面に立ちはだかっているのが見えてくる。歩を進めるにつれ、右にも左にも逃げずにどんどんその形だけが大きくなるこの建物は、まさに阿多駅跡の敷地の半分を使って建てられたマンションなのである。
駅前だったあたりの風景は、典型的な鄙びた片田舎の駅前の風情のままで、一角には石造りの農業倉庫も残っているほどであるため、この真新しい近代的なマンションとの対比には驚くばかりである。
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阿多駅跡から南方を望む。左に伸びる道路は 知覧線跡、右奥に伸びる築堤状の路盤が本線跡 |
この駅からは、旧薩摩中央鉄道から南薩鉄道の一支線となった、知覧線が分岐していた。駅跡に建つマンションの上層階からは、加世田方面と知覧方面、それぞれの廃線敷を美しく眺めることができそうだなあと指をくわえながら、左方へと知覧線跡の舗装道路を見送ると、加世田へ向かう廃線跡は、また未利用の荒れ地に戻る。
万之瀬川を渡っていたあたりは、河川改修がなされたようで、跡は残っていない。そして、市街地に近づいた廃線跡は、道路になったりしながら、この鉄道の本拠であった加世田の駅跡に進入する。
現役車両はもちろん、廃車になったような古い車両までもが雑多にゴロゴロしていたという広い構内跡は、駅舎のあったあたりがバスターミナルになり、その他の部分には電器屋やホームセンターなどの大店舗ができているが、まだ敷地には余剰感がある。バスターミナルのロータリーの中心には、大正2年ドイツ製の小さなSLが展示されているほか、その北側には石造りの農業倉庫を利用した南薩鉄道記念館があって、あのオレンジ色の流線型気動車などの各種車両や、各種資料が収蔵・展示されている。
鉄道現役時代、加世田から先は乗客もぐっと少なくなっていた。そして、これにあわせるかのように、軌条もそれまでよりさらに簡易になって、列車はかなり揺れながら走っていたという。
家屋の間にその雰囲気を残している加世田の先の廃線敷は、国道226号線と交差していたN地点からは、丘陵にある運動公園にのぼるための2車線道路となっている。ただ、この道路は途中でプイと左に曲がってしまう。そのため、訪れる人もいない加世田トンネルの手前からの廃線敷は、山中にそのまま眠っている。
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濡れた枕木が出口から差し込む光に 反射する加世田トンネル跡(伊集院方) |
トンネルの伊集院口のあたりは草木が繁茂するにまかせてあるが、肝心のトンネル口は塞がれていない。それどころか、トンネルの中に入って足許を見ると、道床や枕木までもが手付かずのまま残っている。
ただ、この下り片勾配のトンネルに入り、運動公園で遊ぶ子供の声が小さくなって湧水の音が目立ってきた頃、パタパタパタと頭上で薄気味悪い音がする。もしやと思っておそるおそる見上げると、それこそ無数のコウモリが住みついていて、列車が通らなくなって安全な住みかとなったトンネル内を、自由気ままに飛び回っているのである。そのため、肝っ玉の小さい人にこのトンネルの通り抜けはお勧めできないが、市街地の至近でこのような静寂があるギャップには驚かざるをえない。
そもそも、加世田を出てわずか1キロも行かないうちにこのような静寂があるのも、市街地を避けたようなルート選定をしたからに他ならない。地形図を見る限り、こんなトンネルを含むルートを取らなくとも、国道270号線に沿った経路にしていれば、トンネルどころか勾配さえほとんどないままに、上加世田付近に出ることができたのにと思う。建設当時、沿線住民に汽車が走れば馬が汽笛に驚いて暴れるとか、震動で稲が枯れるなどの反対が多く、全体的にくねくね迂回するような線形が多くなったという。ここもそうなのだろうか。
いずれにしても、このトンネルの建設は湧水が多かったために、難工事だったらしい。建設工事中、落盤により犠牲者も出たということを知ってゾッとしたのは、探訪後のことであった。
加世田トンネルを出てから上加世田駅跡に下る廃線敷は、かなりの藪こきを覚悟しなければならないが、旧駅前に農業倉庫がひっそり残る上加世田駅跡には、比較的長いホーム跡が残っている。さらに、上日置のケースと同様、加世田トンネルから湧き出る水を水源にしていたと思わせる蒸気機関車用の給水塔が、伊集院方に残されている。
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