■沿革

 明治の間には鉄道に恵まれなかった薩摩半島西岸部に鉄路を導くべく、明治末年に設立されたのが鹿児島交通の前身、南薩鉄道であった。南薩鉄道は、大正3年4月の伊集院〜伊作間開通を皮切りに、翌月にはこの地域の中核都市である加世田までを開業した。このころは、まだ現在の鹿児島本線の串木野〜川内間が開通していない頃で、いかにこの地区の人たちが、鉄道敷設に情熱をかけていたかが伺える。

 すると、鉄道開通による繁栄を目の当たりにした、加世田西方の万世の人たちが、おらが村にもと鉄道誘致を始めた。しかし、南薩鉄道は開業したばかりで資金の余裕がなかったため、万世商人といわれた人たちが中心となって線路敷地を無償譲渡し、しかも建設工費を村内有志が集めて会社に貸し付けるという献身的努力の末、大正5年に加世田〜薩摩大崎町(のちの薩摩万世)間2.5キロの支線が開通を見た。

 そして、本線のほうは、加世田〜上加世田間の加世田トンネル掘削などの難工事の末、昭和6年3月に枕崎まで延伸、ここに薩摩半島西岸部を縦断する鉄道が完成した。

 一方、これとは別に昭和2年、薩南中央鉄道が南薩鉄道の阿多から川辺までの間を開業、5年には知覧まで延伸していたが、昭和18年、戦時統合によって南薩鉄道に吸収合併され、南薩の一支線となった。この知覧線は、神風特攻隊の出撃したことであまりにも有名な、旧陸軍・知覧飛行場に関連する輸送などで、戦時中は非常に重要な役割を果たした。車両が不足して国鉄から蒸気機関車を借り入れて急場をしのいだほどであったという。ただ、総じて輸送成績はよくなく、昭和36年には、それまでの一日5往復からわずか2往復にまで、旅客列車の本数が削減されたほどであった。

 そして、昭和40年6月に豪雨災害を受け、運休を強いられた際に、それ以前から会社側が廃止の意向を示していたこともあって、被害を受けた箇所は復旧されることなく、そのまま11月に廃止された。また、万世線も利用低迷を受けて、それより前の昭和37年に廃止されている。

車両
頭部が流面形の形状をしたオレンジ色の気動 
車は、鹿児島交通後期の車両の象徴的存在で 
あった(加世田駅跡に保存されている車両) 

 その一方で、本線格であった枕崎線は、昭和24年から国鉄客車が鹿児島から枕崎まで乗り入れるようになった。またその5年後からは、逆に自社車両が鹿児島乗り入れを開始するなど、地域の重要な足として活躍していた。

 しかし昭和27年、南薩鉄道は、県内の有力企業コンツェルンである岩崎産業グループによる株の買占めを受け、買収された。そして同年、いくつかの部門が加世田から鹿児島市に移転したのを皮切りに、33年には本社も加世田から去った。さらに昭和39年には、大隅半島や島しょ部をテリトリーとしていた三州自動車と合併して、社名を鹿児島交通と改称した。

 このような一連の経緯による感情もあってか、地元では鹿児島交通というよりは、南薩線と呼ぶほうが通りがよかったようである。

 そして、枕崎線の運命を決したのも、やはり豪雨災害であった。昭和58年6月21日、南九州を襲った豪雨により、各地で線路が寸断されてしまった。こちらも知覧線の末期と同じように、すでに春先の3月に、一キロ当たり500人程度にまで落ち込んでしまった輸送密度を受けて、鉄道廃止への動きが出ていたため、このまま全線運休から廃止への道を辿ることが懸念された。

 しかし、このときは被害の大きかった両端部をバス代行輸送としたうえで、20日後に日置〜加世田間21.1キロのみながら運転を再開し、列車運行が蘇った。もっとも、両端部のバス代行区間も、並行道路を使ってほぼ鉄道ダイヤ通りの運行ができていたことは、この鉄道のスピードの遅さの裏返しであった。

 さらに、鹿児島本線上に1両だけ残された自社車両を使って、伊集院〜西鹿児島間の国鉄線上だけながら、従来からの乗り入れ列車のダイヤ通りの運行という「責任」も果たしていた。しかし、災害復旧と線路補強におよそ17億円かかるとされたために、結局翌年3月に全線が廃止され、日本最南端の私鉄は姿を消した。

 枕崎に取り残されたディーゼルカーは、本拠地の加世田に帰ることなく、現地で解体されたという。



■ガイド 伊集院〜日置間

 伊集院駅で鹿児島交通線が使用していた、いわゆる一番線にあたる駅舎本屋側のプラットホームは、今は使われていない。このホームに接していた線路に加え、この線路のもう一本北側の、「中線」といわれるプラットホームに接していない線路も、鹿児島交通の所属であったため、この複線幅の線路敷跡が駐車場になっている。

 雑草の帯となっている廃線敷は、鹿児島本線と、これまた駐車場となっている貨物関係の施設跡地に挟まれながら、鹿児島本線と方向を異にして、南を目指す。いきなり神之川を渡っていたところには、伊集院方の石積みの橋台に、跡が残されている(A地点)。

 その先、神之川に沿っていた辺りは、堤防の改修がなされて跡はよく判らないが、やがて未舗装の地道となった廃線跡は、朽ちた枕木を載せたままの小橋梁(B地点)や、コンクリート製のしっかりした跨道橋を見せながら、いよいよ最初の山越えにかかる。この伊集院〜上日置間はいきなりにして、当線最長の駅間距離であった。

 線路敷は、レールや枕木が撤去されているだけで、基本的にはそのまま残されているのだが、さすがに廃線後20年近い歳月は、多くの木々をその上に繁らせる結果となり、廃線敷を歩くのはかなり難渋することになる。もっとも、今なお踏破は不可能ではない。

 崖が切り立った切通しを抜け、あたりの耕作地に人の手が久しく入っていないように見えはじめたころ、前方に立ちふさがるように山が見えてくる。いよいよ峠の太田トンネルの出現かと、いやがおうにも気分が高まってくるが、そんな時、意外にも真新しい高架道路が頭上高くに現れる。

 これは南九州自動車道である。これだけ人里離れた感じがした中に登場する、そのあまりにも人工的かつ近代的な構造物に愕然とさせられるし、さらに前方には立入禁止のフェンスが見えている。せっかく、廃トンネルを目前にしたここにまで来て、こんなことで撤退せざるを得ないのかと、少なからず落胆しながら近づくと、なんと人一人が通れる通路がわざわざ設けてあるではないか。各地の廃線跡を破壊するなど、私の中では憎まれ役の日本道路公団であるが、ここだけはちょっぴり評価反転である。

 サミットの太田トンネルは、この高架道路をくぐってすぐのところに、ひっそりと眠っている。煉瓦積みと石積みが混ざったような構造の、長さ352メートル、当線最長だったトンネルは、中に道床と枕木をそのまま残してはいるものの、その口から水蒸気を吐き出し、少々異様な雰囲気を醸し出している。

太田トンネル
水蒸気を吐き出す太田トンネル伊集院口 
上日置駅跡1
ホーム跡と給水塔がいまだ残る上日置駅跡 

 沿革の項で、昭和58年の豪雨で両端部が不通のまま廃止となったと書いたが、うち伊集院〜日置間が不通となった原因は、この太田トンネルの湧水がひどくなって、崩落の危険があるとされたからであった。ただ、軌条自体が損傷を受けたわけではなかったので、実際、1日1本の補給列車が最徐行で運転されていたらしい。

上日置駅跡2
上日置駅跡の伊集院方にある給水塔跡から 
構内跡を見下ろす。左半分(本線跡)と右 
半分の高度差が次第についていくのが判る 

 一方、トンネルの枕崎口は、毘沙門集落付近から、これまたそのまま残っている廃線跡を伊集院方に遡ることによって、たどり着くことができる。こちらはトンネル口に有刺鉄線が張られていないために、一見すると中に容易に立ち入ることができそうに思えるが、実はその手前の足許がトンネルからの湧水で水浸しであり、とても近づくことができない。

 ただ、この一見厄介者の湧水ではあるが、実は蒸機時代には大いに役立った。というのも、日置駅に置かれていた給水塔の水源の水の出が悪くなったのを受けて、このトンネルの湧水を利用した給水塔を昭和22年に上日置に新設し、蒸機の喉を潤したのである。

 ときどき草刈りがなされているのか、比較的歩きやすい廃線敷を、小規模なハエタタキ型の信号電柱(C地点)や、「鹿交用地」と書かれたコンクリート製の用地標が山積みになっているところ(D地点)を脇に見ながら下っていく。すると、一部歩行不能なところがあるが、奥の集落群へと向かう道路と交差する踏切跡のすぐ先の、開通当初は毘沙門と称した上日置の駅跡に着く。

 ここは、相対式のプラットホームの片側がそのままであるほか、さきほどの太田トンネルで触れた給水塔も、いかつい石積みそのままに残っている。以前は、伊集院方のみ分岐器のある、一種のスイッチバック形状の駅であったそうで、列車の行き違いがある時のみ、北側の線路に列車を引き入れていたらしい。

 鹿児島交通線は、空軍基地があった知覧や万世への支線を持っていたためか、戦時中は爆撃を受けることが多く、ここ上日置付近でも、列車が爆撃されて死者が出たことがあったという。このような、あまりに長閑な風景からは想像もできないような凄惨な時代に思いを馳せ、思わず襟を正す。

日置駅跡
日置駅跡の枕崎方には、 
給水塔の土台が保存されている 

 太田トンネルをサミットとする山越えのために、高度をかなり上げてしまった線路跡は、日置の平野部にまで、下り勾配を続ける。そして、E地点の橋梁跡で橋台を残した後は、廃線跡は谷の東側へと移る。

 道路拡幅のために侵食されたり、ぽつんと電柱を脇に従えたり、あるいは築堤が残っていたりと、旧線路敷はさまざまな表情を見せているが、これが急に市街道路に変わると、これまでからするといささか違和感のあるような、真新しい住宅が立ち並ぶエリアになる。

 ここが日置駅の跡地である。現在は、八幡団地という名で10区画が宅地分譲され、平成14年5月の探訪時点で、うち8区画が売約済みであった。

 ただ、こんなに劇的に変貌した中でも、ひとつだけ、先ほど触れた水の出が悪くなって使用されなくなった給水塔が、円筒形の基部だけ、元の場所より少し枕崎方に移設されながらも、ひっそりと残っているのが嬉しい。



■ガイド 日置〜伊作間

 廃線跡が大きく変貌しているのは日置駅跡の付近だけで、ここを出ると再び、線路を剥がされただけで未利用のままの廃線敷が、美しい田園地帯の中をのびる。緑の絨毯となった築堤や、小さな橋梁跡(F地点)など、相変わらずの微笑ましい風景を見せているが、これが突然変わってしまうのがG地点である。ここから薩摩湖付近までの廃線跡が、歩行者・自転車専用道と化しているのである。

 吉利の駅跡は、そんな中、一面のプラットホームが残存している。駅跡の敷地も思いのほか広い。以前は列車行き違いが可能だったという。

 小奇麗に整備されたサイクリングロードは、うっそうとした林の中を下っていくが、突然道の駅のようなところに曲がりこまざるを得なくなる。おやと思ってその延長線上を見ると、風格のある永吉川橋梁の石積みの橋台・橋脚が残っている(G地点)。流木対策の為なのか、橋脚の上流側が尖っていて、その断面が五角形状になっているのが面白いけれど、ここに道の駅が置かれた理由は、この橋梁跡の存在とはまったく別のところにある。

 それは、この鉄道橋に並行して、石積み三連アーチの浜田橋が保存されているからである。この趣ある道路橋は、大正2年にそれまでの石橋から改修されて以来、昭和39年までの半世紀以上にわたって使われた、由緒ある橋であるそうだが、アーチ橋のシルエットは大変美しく、西の東シナ海に夕日が落ちるころに訪れると印象的であろう。

永吉川橋梁跡
石積みの浜田橋と並んで橋脚の 
残る永吉川橋梁跡(奥・G地点)
永吉駅跡
広い構内跡とともに、小さなプラ 
ットホーム跡が印象的な永吉駅跡 

 永吉川橋梁跡を過ぎると、まもなく永吉の駅跡である。ここには、2両編成でさえはみ出してしまいそうな、島式らしき短いプラットホームがぽつねんと残っている。それにしても、丁寧に草刈りがなされている駅跡の敷地は、ここも驚くほど広い。元駅前広場に面して、雰囲気満点の旧駅前商店が今なお営業中であるのも、よりよいムードを醸し出すのに一役買っている。

 廃線跡の歩行者・自転車専用道は、地図を見る限り、東シナ海とは1キロと離れていないはずであるが、海側には林が広がっていることや、一帯が広大な耕作地帯であることなどもあって、海に近い実感には乏しい。やがて、ちょっとした上りにかかり、跨線橋をくぐって右に回りこんでいくと、公園や遊園地など、ちょっとしたレジャースポットである、吹上浜のエリアに入る。

 吹上浜駅跡は、伊集院を出て初めて、何ひとつ跡を残していない駅跡である。しかし、吹上浜公園として整備されている一帯を、道路に並行して廃線跡の歩行者・自転車専用道がのびている。そして、この道が並行道路に吸収されると、そのすぐ先が薩摩湖駅があった場所である。

 薩摩湖駅は、南薩鉄道の経営者が代わって、積極経営をしていた時期に、一帯の開発にあわせ、昭和30年に開設された駅である。吹上浜〜薩摩湖間は、わずか0.9キロで、当線でもっとも短い駅間であったが、県立吹上高校の最寄り駅であったこともあって、朝の通学時間帯には、加世田発この駅折り返しの区間列車も設定され、利用客も伊集院、加世田に次いで多かった。

歩行者道の表示
廃線跡の歩行者専用道路には、気動車のイラ 
スト入りの表示がある(右上に拡大・I地点) 

 この薩摩湖の駅跡も、今は休憩所の建物が建っているだけで、駅跡らしい雰囲気はないが、地面が露出しているところを見ると、完全な砂地であることに、今さらながら驚かされる。鉄道現役時代も、このあたりはまさに吹上浜の名の通り、海の方向から吹き上げる砂で道床の砂利が覆われ、あたかも砂浜の上に線路が敷かれていたように見えたところもあったらしい。

 薩摩湖駅跡の先で、並行道路とクロスするH地点からは、藪に覆われた廃線敷が残っているが、ここへの立ち入りは困難である。ただ、太い道路に並行して1000分の25という急勾配で下っていく坂の途中から、廃線敷は歩行者の専用道路となり、伊作の町へ向けて、大きく回り込んでいく。この道の伊作方の入口に、あの流線型をしたオレンジ色の気動車のイラストに、旧南薩線と書かれた車止めがあって、鹿児島交通の廃線跡であることが、さりげなく示されている(I地点)。

 伊作の駅跡は、以前の駅前広場をそのまま活かしたバスターミナルとなっている。といっても、駅舎があった辺りにぽつんと待合小屋が建っているだけで、最期まで列車行き違いが可能だった駅構内跡は、がらんとした空き地のままである。待合小屋の前には、駅舎に上っていた2段ほどの階段が残っているほか、駅前にタクシーが待機しているのは鉄道現役時代と変わっていない。このタクシーの列が、ここに駅があった一番の名残と言えるのかもしれない。

 ただ、駅前にあった酒店は店をたたむなど、なんとなく周辺には沈滞ムードが漂っており、街の玄関がここでなくなったことは明白である。

  つづき

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