2005年4月25日 福知山線5418M、一両目の「真実」

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 深くしゃがんだり、走ったりすることなどはとてもできないながらも、普通に歩くことには苦痛が少なくなり、8月から仕事に復帰できる目途が立った。といっても、脚の痛みはまだとれたわけでないし、ちょうど真夏の暑い盛りである。毎日、空調が効いていて、室温が一定した所にいることに慣れた身としては、多少の不安もないではない。しかし、精神的な喜びがすべてに勝る。

 ただその前に、是非ともしておきたいことがあった。それは、あの事故で挟まれて動けなかった時、現場に駆けつけて、「がれきの下の医療」を施してくださった先生へのお礼と、経過報告である。

 その先生が、「済生会○○病院」のどなたであったのか、事故後もずっと気になっていたのだが、自分の勤めている会社のある記者が解決してくれていた。それは、まったくの偶然からであった。

 5月のある日、その記者は、滋賀県のとある病院の医師チームが尼崎の脱線事故現場に直接駆けつけ、「がれきの下の医療」を施したことを取り上げようと、ある医師を取材していた。その際、医師の話を聞くにつれて、先生がお話されている点滴した相手の男の人って、年格好や状況からして、ひょっとして同じ会社の吉田のことではないのか───という思いがしたらしい。そして、記者が知っていた私の事故当時の状況と突き合わせると、「やっぱりそうですね!」となったという。

 その記者からもたらされた情報によって、あのとき聞いた「済生会○○病院」の○○部分は「滋賀県」、つまり「済生会滋賀県病院」であり、私に「がれきの下の医療」を施してくださったのは、この病院で救命救急センター長をされている長谷貴將(はせ たかのぶ)氏であったということが明らかになった。

 長谷先生は、誰に指示されたわけでもなく、現場近隣の病院は負傷者の受け入れで混乱しているだろうという、自らの判断によって、事故現場から大阪府・京都府を挟んだ滋賀県栗東市にある病院から、名神高速で1時間をかけて、わざわざ現場にまで駆けつけてくださったのだという。


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 社会復帰が目前に迫った7月下旬の週末に、長谷先生に直接お会いできることになった。妻と娘、そして今回は取材抜きである記者の4人で、病院へ訪問させていただき、私にとっての命の恩人との、運命的な再会が実現した。お礼を言いながら握手をさせていただく手に、思わず力が入る。

 助けてくださったお礼とともに、己の無知により最初に点滴を断ったことに対するお詫びを申し上げると、先生は明るく笑って返してくださり、少し気が楽になった。

 あの現場では、はきはきと言葉を発せられていたこともあり、先生は非常にお若く見えたが、改めてお会いしても、救命救急センター長という要職にありながら、活力みなぎる情熱的な先生であると感じた。そして、おそらく昼休みと思われる貴重な時間を割いて、様々なことを話してくださった。そのなかで、いくつもの興味深い、私にとっての新事実が明らかになった。

 まずひとつは、私は車外にいたということである。私は、マンションの機械式駐車場のピットに、折り重なるように倒れていたうちの一人だったそうである。自分の上にはそれまで座っていた座席があったし、右のほうには僅かに残された車内の空間が見えていたので、自らは車内にいたように感じていたのであるが、これには大変驚かされた。もっとも、あまりもの車体の変状により、どこまでが車内でどこからが車外なのか、私にはよく分からなかった面もある。

 さらに、現場にはガソリン臭が立ちこめていたということも、初めて知った。長谷先生のチームは、13時に現場に到着され、およそ1時間後の13時56分、1両目に生存者が取り残されているとの情報がもたらされ、消防から現場への進入を要請された。そして、マンションの駐車場ピットに入る際に、強烈なガソリン臭がするのに気付き、「引火したら私も終わりだな」と思われたという。劣悪な環境の下、駐車場ピットに入って作業されていた医師やレスキューの方々は、まさに自らの命を懸けて、我々を救ってくださっていたのである。

 改めて考えてみると、私は、少なくとも11時ごろからは、レスキュー隊のお世話になり続けていたのに、14時前になってようやく現場の指揮所に、私の生存情報がもたらされたということは、現場の混乱は、午後もなお続いていたのであろう。そりゃそうだ。あんな同時多発的に、一刻を争う状況が起き続けている現場で、各箇所の状況を完全に把握し、指揮・命令系統が整然といくのには無理がある。

 むしろ、今回はうまくいった方であるとさえ思う。その場に携わらなかった人たちが、後から「たられば」を言うことは容易いことであるが、あのとき現場で動いてくれていた人たちは、自分の職業の枠にとどまらず、使命感や人間愛をもって、目の前の難題に全力で立ち向かった、まさにプロ中のプロ集団であった。

 そして、私の廻りで亡くなっておられたのは、自分のすぐそばの3人のお方だけであるように思っていたが、実は周りには、もっと多くおられたそうである。ただ、ほかの亡くなっておられた方には、毛布が掛けられており、私の視界から遮られていたようだ。そのおかげもあって、私がPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされずにすんだのであろう。

 長谷先生にしていただいた「がれきの下の医療」は、医学用語ではCSM(Confined Space Medicine)といって、今回、私たちが受けたものが、日本で最初に行われたCSMの事例となったようである。報道でご存じの方もおられると思うが、あの阪神大震災において、多くの救えたはずの命があったことがきっかけとなって、その重要さが広く知れ渡ることとなったのがCSMである。

 先生は、救急災害医として「予防できる災害死」を減少させるために、英国式の災害医療システムを導入され、合理的かつ体系的アプローチを広めておられ、今回、自らそれを実践されたのである。先生が、現場で医療行為に入る前に、まず自分の所属と名前を名乗られたのも、先生が学ばれた災害医療の手順だそうである。そして私を診て、脱水症状が激しいとの判断で、すぐに輸液の措置をとられたのだという。

 親戚の医師が繰り返し言っていることであるが、CPK(第4章参照)の値が、14000から正常近くにまで戻ったという事例は、聞いたことがないことだそうである。長時間にわたる圧迫から解放された際の、心停止を免れることができたのはもちろんのこと、こうして早く仕事復帰できるのも、長谷先生の「がれきの下の医療」が大いに効いたことは間違いない。

 長谷先生は、医師でありながら、私たち受傷者と同じ目線の高さで話されるのが印象的であった。あの日、あの現場でそんな長谷先生に巡り会えたことは、私にとって間違いなく大きなことだったのである。

  つづき
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