2005年4月25日 福知山線5418M、一両目の「真実」

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 6月19日日曜日、福知山線不通区間の運転再開の日を迎えた。新しい福知山線のダイヤには、それまでほとんどなかった余裕時分が加えられた。至極あたりまえのことである。

 余裕時分とは、読んで字の通りで、例えば駅で乗客の乗降に手間取って発車が遅れるなど、何らかの小さな遅延があった場合に備え、標準的な所要時間───基準運転時分という───に付加される時間のことである。これがなければ、列車はいったん遅れると、その遅れを取り戻すことが難しくなってしまう。

 福知山線においては、この余裕時分がほとんどなかったどころか、一部にはまったく与えられていない列車さえあったという。これは、あらかじめ決められたダイヤに沿った運行をする一般交通機関の常識を覆す、とんでもない事実であるが、私が乗った快速の宝塚〜尼崎間には、まさに余裕時分が与えられていなかったというのだ。

 もっとも、JR西日本の言い分によると、余裕時分は設定していないものの、各停車駅間の基準運転時分自体が、厳密な所要時間より5秒単位の切り上げ処理をしているために、宝塚〜尼崎間で合計32秒の余裕があるという。おそらく、鉄道業界の関係者がこれを聞くと、何のための余裕時分なのだと、一笑に付すに違いない。これは、言い分というより、辻褄合わせの言い訳である。それほどキツいダイヤを組んでいたのである。今まで、そんなことには全く気づかなかったが。

 このダイヤに関することでは、事故後、福知山線のダイヤが過密であるという報道が目に付いたが、実は福知山線のダイヤは、それほど過密であるわけではない。複線区間で、福知山線以上に列車密度が高い線区は、JR・私鉄を含め、いくらでもある。問題なのは、列車ダイヤの密度ではなく、それぞれの列車に与えられた余裕時分がなかったり、充分でなかったことにある。繰り返しになるかもしれないが、これは相当とんでもないことである。

 このことは、オーバーラン多発の一因にもなりうる。

 というのも、列車の運転士が停車駅の手前でブレーキをかける際、早めからブレーキをかけてしまうと、停車するまで、より時間を要してしまうのだ。段階的に緩やかなブレーキをかけるより、できるだけ遅めに大きな制動をかけた方が、停車するまでに要する時間が少なくてすむのである。これはレーシングドライバーが、減速を要するカーブの手前で、できるだけブレーキを我慢してからかけるのと、同じ理屈である。

 そのため、余裕時分がなかったり、少なかったりした場合、運転士はできるだけ遅くブレーキをかけようとするはずである。このできるだけ遅く・・・が限界を超えると、本来の停止位置に止めることができず、オーバーランしてしまうのである。

 さて、福知山線不通区間の運転再開後のダイヤは、この余裕時分をとったぶん、事故以前とは数分の変更がなされている。しかし、基本的なスジそのものは、事故当時のものの踏襲である。事故を起こした列車に相当する宝塚始発同志社前行快速の列車番号は、事故列車の5418Mから、5818Mに改められた。羽田発伊丹行日本航空123便と同じく、5418Mは福知山線においては欠番とされたのである。

 余裕時分の加えられたダイヤ改正と、日曜ダイヤによって、事故当時の時刻とは多少のずれはあるものの、この日の5818Mが事故現場にさしかかる場面は、各社のニュースの格好の的となった。病室でテレビを見ていると、事故現場に向かって手を合わせる乗客などの画の後、画面は空撮に切り替わった。

 その画面を見た瞬間、心臓が止まるかと思うほどドキッとした。5818M列車が事故現場を通過した、まさにその直後、対向の特急北近畿が反対側の線路をすれ違っていったのである。

 既述したように、事故当日の特急北近畿は、惨事を目撃した女性の機転などにより、異常な事態が発生したことが運転士に知らされ、現場の手前で緊急停車した列車である。しかしあの日、特急北近畿が、もし今日のようなタイミングですれ違っていたならば、特急を現場手前で止めるのは、到底間に合わなかったろう。そして、マンションにへばりついた事故車両と激突して、それこそ想像もしたくないような事態となっていたはずだ───

 時折、海外で列車多重事故が報道され、誠に失礼ながら、発展途上国だからこういうことも起きる・・・と思っていた面があった。しかし、この日本で、この目を疑うような事故が起き、さらにもっと被害が大きくなる多重事故が起こっていた可能性が、充分すぎるほどあったのだ。

 病室のベッドの上で、改めて自分の危機意識の低さを恥じた。


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 福知山線が全面復旧した翌週末、ようやく車椅子や松葉杖に頼らずに、自力で歩行することができるようになった。これを受けて、退院を見据えた一時帰宅をした。これまで、自分が移動するといえば、病院内か、散歩をしてもせいぜい病院から数百メートルの範囲内に留まっていたから、久しぶりの大きな移動に心躍る。

 知人が乗せてくれた車から見た車窓風景を新鮮に感じた一方で、まだ痛みが残っている脚にとっては、少し辛い道中となった。しかし、久しぶりに自宅の階段を上るときには、さすがに感慨を覚えた。

 自分の部屋は、事故当時のままであった。そんな中、事故当時持っていた鞄から妻が抜き出してくれていた重要書類が置いてあるのが見える。間違いなくプラスチック製のファイルケースの中に入れていたはずなのに、かなりの面積がどす黒く血で染まっていて、こんなものは人様にお見せできないなぁと苦笑する。

 鞄のまん中のあたりに入れていたはずの、勤めている会社のIDカードまでもが、鋭く折れ曲がっており、改めて2ヶ月前に起きた信じられない出来事に思いを馳せる。


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 7月1日金曜日、ようやく退院の時を迎えた。

 都合により、退院が夕方になったので、本当に今日退院するのだろうかといったような、不思議な感覚にとらわれながらも、昼間に「引っ越し」の準備をする。

 それにしても、この病室は、半ば植物人間状態の時から、2ヶ月以上も生活をした空間である。当然、「家財道具」も多くなった。これは、JRの担当職員が荷物運びをしてくれて、出発への全ての準備が整った。

 それでは、ナースステーションに挨拶をしよう。声をかけながら、ナースステーションを覗くと、お世話になった見慣れたナースの人たちの笑顔が見える。それこそ、入院初期には毎日していた点滴や、発熱が激しかった頃の昼夜お構いなしの度重なる氷枕の交換、そして洗髪や入浴、食事運び、部屋の掃除・・・いやそれのみならず、体が動かなかったときには、下の世話までしていただいた人たちである。「おめでとうございます」と口々に言ってくれる彼らや彼女たちの笑顔を見ていると、さすがに涙腺が危うくなって、お礼の挨拶もそこそこにエレベータに乗り込む。

 この病院には、地下1階にICUがあり、エレベータの中にもその表示がある。自分があの日、限界と闘った場所をもう一度見たいと思う。そういえば、ICUのナースの人たちも、退院の折には覗いてねと言っていたし。しかし、エレベータ内のB1の表記のところに書かれた「関係者以外立入禁止」という冷たい筆致に、なんとなく尻込みする気持ちが先に立ってしまって、地下に行くことなく、1階のロビーに出る。

 会計で、妻が退院の手続きをしてくれているのを待っている間、やはり万感せまるものがあった。こんなときに限って、普段、殆ど私とはしゃべったことのない付き添いのJR職員が、「よかったですね。」などと言いながら、右背後からすり寄ってくる。顔を見られたくなくて、思わず左に顔を背ける。

 しかし、退院の手続きが終わり、雨の降りしきる外に出た際には、さすがに感極まった。愛娘がいぶかしがる中、JRの人への挨拶もそこそこに、タクシーの後部座席に乗り込んだ。

  つづき
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