2005年4月25日 福知山線5418M、一両目の「真実」

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 松葉杖によって、不自由ながらもようやく体の移動ができるようになった6月の第2週の週末、ある知らせが飛び込んできた。翌火曜の14日に、JR西日本の垣内剛社長が、私に謝罪に来るというのだ。

 ほかの病院では、ずいぶん前に社長が謝罪にきたらしいのに、ここには来ないなぁ・・・と、ほかの入院患者と話していたのだが、おそらく、18日に予定されているJR西日本による遺族・被害者向けの説明会、及びその翌日の福知山線不通区間の運転再開が、目前に迫ってしまい、とり急ぎ来ることになったのであろう。妻がJRの担当者に尋ねたところによると、私が入院している病院は、他の病院より大阪から遠いために、訪問が後回しになってしまったという、なんとも訳の分からない釈明がなされたらしい。

 いずれにしても、急にではあるが、たいへん重要な局面が訪れることとなった。事故の加害企業の最高責任者が、この病室に来るというのである。言いたいことは山ほどある。大慌てでパソコンに要点をしたため、妻に自宅でプリントアウトしてもらう。紙は5枚になった。

 6月14日火曜日の午後、病室のドアのすりガラスの向こうに、黒い影が蠢くのが見え、やがてノックがあった。妻がドアをゆっくりと開ける。すると、一人の男の顔が見えた。わかっていたのにハッとした。テレビや新聞で見慣れた、銀縁の眼鏡をかけた「あの男」だ!

 私を担当するJR社員も一緒に入ってきたため、妻が社長一人にしてほしいと言うと、社長がその社員に病室を出るように命じた。それとともに、見舞いの品も丁重にお断りした。

 そして、「あの男」一人だけが、私の右斜め前に立った。いつも謝っている姿ばかりを見ていたからであろうか、テレビで幾度となく見たのと変わらない、頼りなく、情けない印象だ。なんでこんな男が、3万人を越す社員を擁する大企業のトップを、勤めあげることができているのだろうか。おそらく、国鉄時代から、井出正敬元会長の側近として仕えているうちに、上へ上へと引き上げられていったのであろう。本人自身が放つ、カリスマ性やオーラといった類は、微塵も感じられない。

 もっとも、非常に穿った見方をすれば、被害者である私にこういう憐れみに近い気持ちを生じさせることが、相手側の作戦によるものだったとしたら、完全なる私の負けではあるが───

 まず彼は、私の怪我の回復具合を聞くとともに、こう言った。
「この度は、私どもの・・・(以下略)」

 あ〜テレビで何度も聞いた、あのフレーズだ。思わず、
「ずっと謝ってばっかり、謝り疲れてもう言葉に実感ないでしょう?」
なんて言ってしまった。

「そんなことはございません。」

 いかんいかん、これでは表面的なセリフの応酬になってしまい、本当の話し合いにならない。椅子に座ってもらってから、少し軽いジャブを放って、この男の人間性を探ってみることにする。

「だいたい企業が不祥事を起こした時、トップは世間一般が思っていること以上のことを施策として示さないと、世間は納得しませんよ。だから、福知山線の復旧・再開通の時期の選択は、御社にとって、失地を少しでも回復する、数少ないチャンスだったはずです。つまり、自らATS−P型(従来型より高機能の列車自動停止装置)の整備後としていたなら、安全性を優先する企業風土に変革しつつあるなあと、御社を見る世間の目も少し変わったかもしれなかった。それが、一日三千万でしたっけ、日銭を失うのが惜しかったのか、ATS−P型の整備を待たず、ゴールデンウィーク明けにでもすぐに再開通というようなことを匂わせ、しかも、国土交通省の同意を得られないとわかるや即撤回したことは、御社の信頼をますます落とす結果となったんじゃないですか?」

「・・・・」

「そういう観点から見ると、エフュージョン尼崎(電車が衝突した被災マンション)の買い取り価格を、こういう場合一般的とされる時価での買い取りではなく、購入時の価格で買い取ると言ったのは、満点には遠く及ばないまでも、少しは評価できます。」

 つまり、けなした後、少し持ち上げてみて、「あの男」がどういう反応をするか、窺ってみたのである。すると、最後に「あの男」の口元が、少しではあったが緩んだのを、私の目は見逃さなかった。なるほど、まったく悪い人間ではないようだが、かといってそれほど人間的に深みもなく、そして心の変化が如実に顔に表れる、政治家向きではないタイプの人間であるな、なんて思った。逆に、こういう人間なら、こちらの言うことも、少しは真摯に聞いてくれるかもしれないと期待して、用意した5枚の紙を渡す。

 彼は、いつもかけている眼鏡から、背広の内ポケットに忍ばせていた別の眼鏡にかけ替え、少し震える手で紙を読み始めた。

 私が指摘したのは、大きく分けて、管理体制の改善〜安全性向上計画の実現について、事故直後の対応について、ATS−P型設置について、そしてオーバーランについての4項目であった。

 彼は読み終えると、ひとつひとつ説明、というより弁明を始めた。私が指摘したことを含め、詳述するとかなり長くなるので、ここでは彼が大きくリアクションを見せた部分や、私にとって印象的だったことを書くに留めることとする。

 彼が一番反応したように見えたのは、現役運転士が2人も現場から「逃げた」遠因として、社員に鉄道マンとしての誇りや責任感を失わさせる圧政的な教育があるとして、終戦直後に起きた鉄道事故の例を引き合いに出したときであった。これは、昭和23年に起きた近鉄奈良線花園駅での電車衝突事故なのであるが、ほとんど世間から忘れ去られており、現に彼も知らなかったので、ここで説明をしておく。

 近鉄奈良線の大阪方面行き電車は、生駒のトンネルの途中から、大阪平野に下るまで、何キロにもわたって、急な下り勾配が続いている。戦後の混乱がまだ収まりきっていなかった昭和23年3月31日、奈良発上六(現上本町)行急行電車が下り勾配の中、ブレーキが効かなくなって暴走を始めた。この電車をなんとか止めようと、たまたま乗客として乗りあわせた近鉄の職員はもちろんのこと、警察官や当時の国鉄の職員たちも、運転台まで行って手動ブレーキをかけ続けたり、空気抵抗を増やすために全部の窓を開けるなど、あらゆる方策を施した。だが、それもかなわず、電車は花園駅にて先行電車に激突してしまったのである。

 朝の満員電車で、しかも先頭車両が木造であったことを考えると、犠牲者が49人にとどまったというのは、命をかけて電車を止めようとした、彼らの努力によるところが大きかった。ただ、彼らのうちの何人かも、命を落とす結果となった。

 他社の車両であっても、命をかけて暴走電車を止めようとした果敢な行為と、今回の逃げた運転士の件は、比べようもないことは明らかで、彼も少しは印象に残ったようであった。

 車掌が周辺列車を緊急停止させる処置をとらなかったことの詳細については、車掌の所属組合に守られているのか、会社としても把握できていないということであった。事故調査委員会の調査を待つとの、情けない答えしか出てこず、自分の会社の従業員に話ができないという事態には、驚かされたともに、大いに落胆させられた。

 驚かされたというと、オーバーランについての話で、現場の運転士から、他の私鉄にあるような、定位置に停止するためのなんらかの支援システムが、要求されていないか訊ねた時もそうであった。彼は、現場からはこのような要求は届いていないというのだ。しかし、こんな手記を整理している今日も、私は福知山線猪名寺駅でオーバーランに遭遇している。相変わらず、JRの運転技術のレベルは低いままだ。

 そして、彼に強調したのは、私たち、命を永らえることが許された者は、お亡くなりになった方々に対し、JR西日本のこれからの「更正」を見届ける義務があり、私はJR西日本に対して、安全面においての債権者であると認識しているいうこと、さらにJR西日本が作成した「安全性向上計画」が確実に遂行されているのか、随時報告してほしいということである。これには力のないイエスをもらった。

 彼の力のない言い訳ばかり聞いているうちに、30分経ってしまった。同じフロアにいる、他の負傷者の社長訪問予定時刻から察すると、私に対する想定所要時間は10分のはずだ。遅ればせながらも、そろそろ話を締めにかかろうと思ったその時、今度は妻が満を持したように一枚の紙を取り出して、彼に手渡した。

 妻には、事故直後から、JR側との対応を一手に任せてきた。人数がいるばかりで、全く自主的に考えて動くことができず、ほとんど役に立たないJR職員に向き合って、そしてJR西日本という会社の体制や姿勢を目の当たりにして、彼女はかなりの不満を積もらせていた。しかも、彼女は以前航空会社に勤めていた。同じ、たくさんの乗客の命を預かる交通機関でありながら、あまりもの意識の差、体制の差を目の当たりにして、怒りを通り越して驚きを感じていたようだった。

 航空会社の事例を引き合いに出して、航空会社ではこんなことをしているのに、御社はどうなっているのか、などの指摘が進む。特に事故が起きたとき、ダイヤの復旧ばかりを重視しており、負傷者の救護に関するマニュアルがないのではという指摘には、彼は観念したように、そのとおりだと告白した。JR西日本は10年前の信楽高原鐵道事故にも関連しているのに、そのあたりの意識の低さには改めて驚かされる。遅きに失している感もあるが、今からでも航空会社に学ぶべきことはたくさんある。

 そして、妻は最後に「ブランドはなぜ墜ちたか―雪印、そごう、三菱自動車事件の深層」(産経新聞取材班著/角川書店刊)という本を手渡した。食中毒事件の雪印、経営破綻したそごう、リコール隠しの三菱自動車といった、危機管理能力の欠如した企業の実態を問い、日本企業を蝕む制度疲労を追求した本である。

 事故後のJR西日本の対応が後手後手に回り、世間の信用を大いに落としたのは、衆知の通りである。社長に会った最初に私が言った福知山線の運転再開時期に関して、当初JR側が主張していたように、旧型ATSシステムのままでも問題のカーブの手前に速度を照査するセンサさえ取り付けていれば、防げた種類の事故であるから───それでは何故取り付けていなかったのかという問題もあるが───確かに新型ATSの設置を待たなくても、旧型ATSのセンサを増設することによって、一定の安全は確保できる。

 しかし、不祥事をいったん起こし、いったん世間が疑念の目を向け始めた時には、専門的な常識よりも、私たち世間一般の素人の「常識」に対して、納得させるだけの施策や説明が必要である。それを怠った企業は、大きなしっぺ返しを食らい、ひどい場合は解体にまで追い込まれたケースまで起きたのは、記憶に新しい。

 この本の内容は知らないが、タイトルから見る限り、今回のことにも当てはまる内容かもしれぬ。

「これを読んでください」
「・・・わかりました。お預かりします。」

 そして、最後に挨拶と深いお辞儀をし、去りゆく彼の背中に、私は最後の声をかけた。

「必ず、社員を前向きにさせるような会社にしてくださいよ!」
「はいっ」

 彼は、もう一度お辞儀をして去っていった。時間はすでに一時間を過ぎていた。

 終わった───しかし、それとともに猛烈な後悔の念が襲ってきた。というのは、本当はもうひとつ、言いたいことがあったのである。しかし、私が言うのは筋違いかなあと思い、躊躇してしまったのである。

 それは、この事故を受けて、全国の鉄道事業者に対し、国土交通省令で、直線部から比べて、大きな減速幅を要するカーブの手前には、速度超過防止機能のあるATS等の設置が義務づけられたが、これにより、全国の地方私鉄や第3セクター鉄道にかける迷惑を考えたことがあるか、ということであった。

 経常利益が700億を越すような鉄道会社の社長にとって、年1〜2億の赤字によって、存亡の危機に瀕している地方私鉄や第3セクター鉄道が、全国に数多く存在することなど、頭の片隅にもないだろう。しかし、経営余力の乏しい事業者にとっては、新たに設置が義務づけられたATSの設置や改修は、経営が揺らぐほどの、大きな負担となっていく現実があるのだ。

 もちろん、地方私鉄や第3セクター鉄道も、より安全になるに越したことはないのだが、安全投資や安全教育をケチった巨大鉄道会社が起こしたミスによって、ただでさえ苦しい中小事業者が迷惑を被る、そんな不条理な構図を、彼に認識してほしかったのである。極端な話、JR西日本が罰金の意味合いを込めて、いくらかの補助を出すぐらいのことがあってもいいくらいだ、と私は思う。

 しかし、こんなことを、役人でもなければ中小私鉄の経営者でもない、ただの一市民の私が言うのは、やはり筋違いであると思い、言わなかった。それでも、やっぱり言えばよかった───「あの男」と一対一で話す機会は、もうないかもしれない、こんな筋違いのことこそ、今話すべきではなかったのか・・・という思いが自分の周りをぐるぐるかけ巡ったが、時すでに遅しであった。

 社長の訪問から4日後の18日、宝塚ホテルで、事故の遺族と負傷者向けの、説明会があった。私には、タクシーに一時間近くも座り続けるだけの体力の自信がなかったので、妻だけが出席した。

 説明会の終了後、席を立とうとしていた妻に、社長が自ら歩み寄り、「この前お約束したことは、絶対にいたしますから」と言ったらしい。どうやら、彼にとっては聞き飽きた感のある、鉄道そのものに関する私の話よりも、妻の下したパンチの方が効いたようである。ただし、渡した本は、忙しくてまだ読んでいないとのことであった。

  つづき
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