2005年4月25日 福知山線5418M、一両目の「真実」

... 5 ...


 3日目に、ICUから一般病棟に移された。重傷であることもあって、ナースステーションに近い、モニターカメラが付いた個室が私の病室となった。この部屋が、私にとって、自らの再生をかけた当面の「戦場」となる。

 そしてこの頃から、私が事故車両に遺してきた遺留品探しも本格化した。私の勤めている会社の人たちが、JR尼崎駅近くの引き取り会場と、病院との間を奔走してくれて、いくつかのものが戻ってきた。

 まず帰ってきたのが鞄であった。家族が買ってくれたばかりの、まだ真新しかった黒い鞄は、外側だけでなく、中まで血だらけで、すでにカビが生えていたとのことであった。そんな状態であったから、中身だけ抜いて、すぐ家族が廃棄し、私は鞄そのものは見ていない。

 だだ驚くべきことに、鞄の角には、なんと「肉片」がついたままであったという。これでは、事故に直接あっていない人までもが、PTSDにかかってしまう。これくらいJRも考慮してほしいものである。

 携帯電話も帰ってきた。既述したように、事故の瞬間に膝の上に乗せていたために、どこかに飛んでいってしまっていたものである。折りたたみ式のブルーメタリックの筐体は、折りたたみ部の近くで、折りたたみ方向とは逆へ、真っ二つにひびが入っていた。また、折りたたむと外側になる方にある小さい方の液晶にも、割れてひびが入っており、もちろん電源が入る気配さえない。

 妻がドコモに相談したところ、特殊な装置で電源が入らないか試みてくれた。ドコモは非常に協力的で、経営陣によるトップダウンにより、会社全体で私たち被害者のことを支援してくれていた。しかし、残念ながら電源は入らなかった。

 もはや電話機が使えないことが分かっているのに、ここまでして電源だけでも入ってほしかったのは、電話帳データを取り出したかったからにほかならない。パソコンに携帯電話のデータを取り込んで管理するソフトを持ってはいたのだが、ずぼらな私は、なんと2年近くもバックアップを取っていなかったのである。そんなに長い間取っていなかったとは・・・と後悔したが、まったくもって後の祭りである。この2年間に新たに出会った人の電話番号やメールアドレスをすべて失ったということは、この2年間の自分の「進化」を否定されたような気がするほど、残念なことであった。

 その一方で、もしかすると自分の命を救ってくれたかもしれないノートパソコンも戻ってきた。原形こそ保っていたものの、これも衝撃で壊れており、やはり電源は入らなかった。

 このパソコンのハードディスクの中にも、大切な仕事のデータや写真が入っている。こちらの方も、携帯電話並みに近年バックアップを取っていなかったので、これまで築き上げてきたものすべてが無くなってしまったかと落胆していたのだが、その後、会社の人が大変な努力をしてくれて、なんとハードディスク内のデータを取り出してくれた。

 これは本当にうれしい知らせであった。作業をしてくれた人の話を伝え聞いたところによると、ハードディスクにまで血がこびりついていたそうである。そんな状態から、よく大切なデータを取り出してくれたものだと、感謝してもしきれない。

 血が付いていたといえば、事故の時穿いていたズボンのポケットの中にあった、財布、そして家や車の鍵もそうであった。これらは、私が病院に運び込まれて処置を受けた際、切り刻まれた衣類とともに、ただちに病院から返却されたものの、財布の中の札までもが全面どす黒くなっていたほか、車の鍵にも血がこびりついていたという。さすがに特殊なタイプである車の鍵だけは、簡単に合い鍵交換というわけにもいかないので、妻が必死に磨いてくれた。おかげで、傷が多くなったくらいで普通に使えるようになった。

 一般病棟に入ってからは新聞も見せてもらえたし、病室にテレビも設置され、ようやく自由にニュースに接することができるようになった。やはりニュースもワイドショーもこの事故関連ばかりで、まだ一両目や二両目などから遺体が収容されていた。ニュースを見ている一般の人は、なんでこんなに遺体収容に時間がかかるのか、分からないだろうと思う。

 しかし、これら一連の報道を見てようやく、私の乗っていた一両目の車両が横倒しのまま、マンションの地下駐車場部分にもぐり込んでいたことがわかった。自分が見て感じた状況と一致し、深く納得する。そうか、挟まれていたときに見上げた、打ちっ放しのコンクリート面は、地下駐車場の天井部分だったのか・・・さらに運び出される時、いったん下方向に行くことができたのも、地下駐車場のピット部分があったから可能だったのか・・・そして何より、私が5時間閉じこめられていた現場が、救急車の音もヘリコプターの音もしない、異様なほどの静寂に包まれていた、一番大きかった疑問が氷解した。

 このころから、テレビや新聞では、脱線原因についての解析が盛んになっていた。評論家や大学の教授が、線路と車輪の模型を前に、訳知り顔で「これはせり上がり脱線です」などと、明らかに事実と異なっていることを言い、他の出演者たちが難しい顔をしながら頷いている。ひどいところでは、電車は転倒して脱線したのに、脱線防止ガードレールがあったら大丈夫だったと、大間違いの説教を垂れる者までもがいた。

 非常に腹が立つ。僕自身が、今すぐにでもそのスタジオに駆けつけて、本当の脱線原因を、そして真実を皆に伝えたいと思う。しかし、体はちっとも動かせないのでどうしようもない。電車が転倒脱線したことが一般に信じられるようになったのは、その後、電車が衝突したマンションの手前左側にある架線柱が、少し高いところで折れていたことが明らかになってからである。

 やがて死者が100人を越えた。なんということであろうか。この科学技術が発達した現代に、死者が100名を越すほどの列車事故が起こることがあり得るのだろうか、と思う。スピードの出し過ぎで、カーブを曲がりきれなかったというこの事故は、明らかに初歩的かつ前近代的であり、陸蒸気が走っていた明治の鉄道創生期くらいの次元の低さの事故である。しかし現実に悲劇は起き、100名を越す方が亡くなり、私のように、多くの人が苦しんでいる現実がある。

 JR西日本が悪いに違いないが、企業というものは、形の見えるようで、ある意味直接見えない、社会的集団である。それでは、どこの誰に怒りをぶつけるべきなのであろうか。経営者や現場責任者にぶつければ、それですむのか。それとも会社から圧力を受けていたとはいえ、そして既に亡くなっているとはいえ、やはり運転士なのであろうか。私たち被害者の怒りは、直接顔を合わせるJR職員に向くことが必然的に多くなるが、非現業部門から派遣されていることが多い彼らとて、事故後たまたま担当になったにすぎない。言いようによっては、彼らも被害者でもあるかもしれない。

 もちろん会社の責任は、経営者をはじめとして、社員全員の責任でもある。よって、僕らと直接顔を合わせることとなった職員にも責任の一端はあると言えるが、その後盛んになった非番の職員によるボーリングや宴会、ゴルフたたきの論調には同感できなかった。特に、そういう「不祥事」を見つけることに躍起になったり、記者会見で横柄な態度をとるものが出始めたマスコミには、自分もその端くれながら、筋違いぶりに大いに落胆した。

 だが、決定的に悲劇的であるのは、この怒りをどこかにぶつけたところで、体はちっとも治らないという現実だ。それでも、命を永らえただけマシと思わなければならないのか。

 子供の頃、阪急宝塚線で、下り勾配のまま終着宝塚駅に入っていく電車の運転席付近にかぶりつきながら、もし運転士が気を失ったりしたら、即座にこの僕が運転室に入って、ブレーキをかけて皆を助けてやる───といつも思っていたことを思い出す。そのころは、客室側から2つの差し金をはずすだけで簡単に乗務員室に入れた(はずの)手順も知っており、いつも終着宝塚駅に入る頃、ひとり身構えていたものだ。

 もし時計の針を戻すことができたなら、そしてこの僕が、事故を起こした快速電車の乗務員室後ろに立っていたならば、さすがに早めに異常に気づいただろう。そして、今は施錠されている乗務員室に入ることはできないまでも、ガラスをたたくなりして、あの運転士に注意を喚起することはできたはずだ・・・そうしたらこの大惨事は防げたのではなかろうか。自分が乗務員室にかぶりつきで乗っていたら事故は未然に防げたかも・・・という思いと、それとは逆に、いつものように後ろに乗っておけばこれほどの怪我をすることはなかった・・・という思いが交錯する。

 事故以前の日常に戻れれば───と何度思ったかわからない。これは、私だけでなく、事故で亡くなった方の遺族をはじめとする、多くの人が思ったことだ。この事故を経て、被害者だけでなく、事故現場周りの人や加害者であるJRを含めて、誰もが悲しむべき結果になっているのだ。


~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


 そんな時、大変驚かされ、落胆させられた続報が耳に入った。それは、対向列車である特急列車が、事故現場直前で緊急停止し、多重事故を免れたのが、事故列車の車掌の措置によってではなかったことである。通常、このような事故が起きた場合、当該列車に乗務している車掌がまずせねばならないことは、対向列車や後続列車との多重衝突事故を防止するため、列車防護無線で緊急停止信号を発報し、周りの列車を止めることである。これは鉄道員にとっては常識中の常識である。

 しかし、車掌は気が動転したのか、おろおろするばかりで、乗客に指摘され、ようやく会社に連絡を取ったような状態であったという。そして、防護無線機を押したが、作動しなかったということらしい。防護無線機を押さなかったのか、それとも故障していたのかは、事故調査委員会の調査を待つとしても、いずれにしろ、結果的に列車防護無線が発報されなかったことは大問題である。

 では、対向の特急列車はなぜ止まったのだろうか。これは、脱線現場脇の下り線の信号機が脱線車両と接触・故障して赤表示になった影響で、特急電車があらかじめ徐行していたことに加え、現場南側の踏切の異常を示す、特殊信号発光機が発光していることを、特急の運転士が確認したからだそうである。

 特殊信号発光機が発光していたのは、事故を目撃した通りがかりの女性が、対向列車が来ると危ないと思い、踏切に設置されている緊急押しボタンを押したことによる機転かららしく、これは言うまでもなく特大ファインプレーである。

 しかし、このような措置が乗務員でなく、一般市民からなされたことは、JR西日本にとって、恥ずかしいを通り越して、ただただ情けない。だいたい、航空機でも飛行中、何かトラブルがあった際には、乗務員が「慌てないでください」とやるのが当たり前だ。その一方で、このざまは何だ。

 個人攻撃をするのは本意でないが、もう少し機転のきく車掌がこの快速電車に乗務していたら、この事故を防げたのではないかと思う。私のように、ノートパソコンの作業に集中していた素人でさえ、脱線直前───残念ながら、わずか2〜3秒前だったが───におかしいと気づいたくらい、わかりやすい異常運転であった。いくら最後部の車両に乗務していて、常に運転状況に集中していなかったとしても、いつも同じ最後部に乗務しているプロなのであるから、塚口駅を通過して分岐ポイントをやりすごしているうちに、いつもと違うとか、ブレーキがかかっていないのはおかしいとか感じるはずである。

 真偽のほどは不明ながらも、事故直後の報道では、車掌は司令所に「脱線しそうだ」と連絡していたという話もある。もし、これは危ないと気づいていたのなら、なぜ自分の判断で非常ブレーキを引けなかったのだろう。

 何を結果論を言っているか、と思われるかもしれない。確かに、駅で電車がオーバーランをしたような場合に、車掌がなぜ非常ブレーキをかけなかったのかと責められたりするのは、酷な話であると思うが、この事故に関しては、あのカーブ直前に非常ブレーキを引けた(正確には列車緊急防護装置のスイッチを押せた)と確信する。それほど、事故直前が異常な運転状態であったことは、私も他の乗客も実感しているのだ。

 事故列車に乗務していたのが、機転のきかない車掌であったこと、そしてそのために、最後の砦が働かず、事故を未然に防ぐことができなかったのは、大変な不幸であった。彼が所属する組合も、彼があまり優秀でないことを察知しているようで、車両最後部でどんな大けがをしたのかは知らないが、未だに病院に入院させてかくまっているようである。これはこれで、4つの労働組合を抱えるJR西日本の、複雑な問題の一端が透けて見えており、考えれば考えるほど暗澹となる。

 さらに、事故列車には、たまたま乗客として現役の運転士が2名乗りあわせていたのに、事故現場から「逃げた」という事実も伝わってきた。もっとも、運転士や当人から報告を受けた上司に、個人攻撃をするのは筋違いである。これは明らかに、JR西日本という会社の管理体制が、そのような空気を作り出していたため、つまり、少々のこと───もっとも少々ではなかったが───で乗務に穴を開けるようなことがあれば、大変なペナルティが待っているために、運転士が逃げ出す結果となったに他ならない。

 もちろん、2人の現役運転士が責任感の強い、上司に逆らってでも───というような気概のある人であったなら、このようなことにはならなかったであろうが、残念ながらJR西日本にこのような人が育つ土壌や企業風土がないことは、その後の私の接した社員を見ても明らかであった。だから、当該個々人に反省文を書かせたり、処分が下されたりしたことは、残念ながら問題の本質を突いていることになっていない。


~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


 退屈なゴールデンウィークが始まった。よりによって、毎日好天が続き、恨めしい。あばら骨が折れているために、ベッドを操作して体を起こすことも禁じられている。見えるのは窓越しに見えるマンションの高層階と、隣接する市役所の上の方だけである。その市役所も半旗を掲げている。

 本来なら、今日はこんなことをしている日だったはずだ、などといろんなことを考えれば考えるほど、精神的に滅入ってくる。外傷的な診断としては、左膝関節・左足関節・骨盤の骨折や、左下肢圧挫傷などで、全治6ヶ月ということである。今は右腕だけしか自由に動かない。半年もこんな状態を耐えなければならないのか。

 とんでもなく長い時間を抱えることとなった。個人的に趣味を多く持っていることもあって、いつも時間が足りないとばかり感じる日常を送っているのに、それなのに、せっかくの抱えきれないほどの時間を持て余す。それも、昼だけならよいのだが、夜寝るときも左脚の違和感が気になって熟睡できず、1〜2時間ごとに目が覚める。時間の経つのが遅い。ただ心臓が動いていて、1日3食のメシを食うだけの毎日だ。

 今日も朝のテレビで、定番の星占いや血液型占いをやっている。今日の一番は天秤座と言われたところで、A型さんは気をつけましょうと言われたところで、ラッキーアイテムがなにがしと言われたところで、ほんと関係ないやと笑うしかない。

 漫然とした入院生活の中で、予定らしい予定といえば、傷がふさがってゴールデンウィーク明けに始まった週2回の入浴と、5月下旬に始まった午前11時15分からのリハビリだけである。

 こうして、5月のカレンダー1枚が、ほとんど無意味な数字の羅列のまま、引きちぎられていった。

  つづき
トップページに戻る