2005年4月25日 福知山線5418M、一両目の「真実」

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 すでに救急車が待ち構えていた。救急車の乗るのは生まれて2回目だ。その後部ドアが閉まった瞬間、車内の救急隊員に、相変わらず涙ながらに叫んでいた。

「現場でのレスキュー隊員たちに、ありがとうと礼を言ってください」
「わかりました」

 この救急車に同乗している救急隊員からすれば、僕を助けてくれたレスキュー隊員たちが、どこの誰だか知る由もないはずであるから、そんな伝言が果たせないのは頭では判っている。それでも、相変わらず感謝の言葉を発せずにはいられない自分がいた。

 車が動き出す。しかし、それにしても乗り心地が悪い。後輪のばねが、跳ねているように感じる。自分の体は、しっかり固定されているために、ストレッチャーから転げ落ちるようなことはないのに、いつの間にか体に力が入っている。この救急車が旧型で、サスペンションが、商用バンのような板バネなのだろうか。もしも私が金持ちならば、もっとサスペンションのいい救急車を寄付したいとさえ思った。

 もっとも、後日、この救急車に同乗していた医師に聞くと、私が乗ったのは現代におけるいたって標準的な救急車で、乗り心地もこんなものであるとのことだった。今から思えば、車の少しの振動が、骨折や打撲をした部位にひびいて、辛かったのかもしれない。

 そして、そばにいる隊員に、自分の名前と自宅の電話番号を言って、ここに電話連絡してほしいという旨を伝えた。隊員はメモをとってくれたが、この救急車から直接連絡がいったかどうかはわからなかった。

 しかし、恐ろしく寒い。悪寒がする。体が震え、歯が音を立てるほどがたがたする。かといって、同乗の救急隊員は、格段の処置をしてくれるわけではない。それでも、彼らに特に何かのお願いはしなかった。もう着くだろう、そればかり思っていた。

 ところが意に反し、なかなか病院に着かない。20分以上乗ったように感じた。どこに向かっているのだろう・・・もうこれ以上着かなかったら我慢ならない。そう思ったころ、ようやく病院に滑り込んだような感覚があった。

 扉が開く。思ったよりゆっくり丁寧に、私の載ったストレッチャーは救急車から下ろされた。再び報道のカメラがいたらどうしようと思う。しかし、またいなくてホッとする。

 救急処置室に直行する。もう体は動かせず、上を向いたままであったから、蛍光灯の列ばかりが眼前を流れてゆく。

 処置室に入ってストレッチャーが固定され、ちょっとしてから医師や看護師が群がってきた。これもイメージと違い、ゆっくり、落ち着いてという感じだった。テレビドラマだったら、こういうときはすぐ医師やナースが駆け寄って、慌しいシーンとなるのに、現実は意外に落ち着いているものだ。これは、私の出血がそれほどでもなかったせいなのか。

 診察台に移された後、着ていた服に縦横に鋏が入って、裸にされてゆく。そして、最後にトランクスにも鋏が入る。この後の入院生活で、下半身を女性看護師に晒す機会が多くなり、こういうことに抵抗はなくなってゆくのだが、このときはさすがに一瞬動揺したため、「いいですか?」と訊ねられてしまった。そして、コンタクトレンズも外されて、視界がぼやける。

 幸い、ガラスの破片はそれほど浴びていなかった───それでも後日、初めてシャンプーをしたおりに、髪の毛の隙間からかなり出てきた───が、左脚を中心に、数え切れないほどの創傷があった。傷口の周りの数カ所に、局部麻酔の注射がなされた後、針が入っていく。お尻に近い部分は、ホッチキス状のものでパチンと留められる。小さな傷にはテープ状のものが貼られる。

 そんな処置がなされている間に、尿道の中に透明なチューブが差し込まれる。これは、尿を本人の意思に関係なく、自動的に出すためのものである。本来ならチューブが差し込まれる瞬間は、飛び上がるほど痛いものだそうであるが、体のあらゆる部分が痛くなっている今、それほど気にはならなかった。

 体の下から上のほうへ、処置部があがってきて、最後に医師が言った。

「あれぇ〜、口の上に穴が開いてるな。ちょっと待ってくださいよ。」

 やわらかい、ストローほどの長さの棒を持った手が、鼻の下に近づいてきた。そして、口を開けていないのに、そのやわらかな棒が前歯に当たる感触があった。

「うわ・・・」

 私は男性で、すでに中年である。さらに、決して2枚目ではないし、別段、見た目が商売道具というわけでもないので、どうでもいいではないかと思われるかもしれないが、さすがに顔に穴が開いたことはショックであった。

 この穴に関しては、口の裏側から傷の周りの数箇所に麻酔の注射があった後、針が差し込まれ、縫合された。左目の上にも切り傷があったが、これはテープによって措置された。

 これら一連の措置がなされている間に、妻が来たのがわかった。泣きわめきながら、腰を抜かすほどの勢いであることがわかる。心配するといけないと思い、こちらから「大丈夫、大丈夫やから」と声をかける。そんなに大丈夫ではなかったけれど。

 というのも、乗っていたストレッチャーから診察台に移ったり、あるいはレントゲンを撮ったり、ICUのベッドに移るために、体を動かされると、とんでもなく痛いのである。それこそ、今まで生きてきて、体験したことのないほどの痛みである。必死に歯を食いしばっても、「うーっ!」という声を出さずにはいられない。あばら骨が4本折れているためであった。

 ICUのベッドに横たわると、少しだけ落ち着いた。親戚や会社の人が、慌しく動いてくれているようだ。いやがおうにも、今日起きたことを頭の中で反芻してしまう。あの電車に、特に普段乗らない一番前の車両なんかに乗らなければよかった・・・一本あとの電車でも、大阪到着はほんの数分しか違わないのに・・・何度後悔したかわからない。

 明治の鉄道黎明期に、日本最初の鉄道である新橋〜横浜間のレール幅を、狭軌(JR在来線や、大半の関東私鉄のレール幅)でなく、より幅の広い標準軌(新幹線や、大半の関西私鉄のレール幅)にしていれば、力学的に転覆は起きなかっただろうにとも思う。建設費の安い狭軌を採用したがために、そしてその後、標準軌への改軌を図る動きが政治がらみで中止になったために、一世紀以上もたった平成の世になって、この私がこんな目にあうことになるとは・・・。

 そして全体の状況を知るために、テレビは無理だとしても、とにかく新聞が見たい。しかし、私の精神的なことを考えてか、誰も見せてはくれなかった。

 相変わらず、左脚の感覚は変なままである。そして左脚はもちろんのこと、首と腕と右脚以外は、まったく動かなくなってしまった。もちろん寝返りも打てない。事故現場で挟まれている時には、上半身が動かせたことを、奇跡のように思う。点滴はやがて両腕になった。これで両腕に点滴、鼻には酸素チューブ、下半身には尿チューブと、私は半ば植物人間と化した。

 医師はとにかく尿が出ないと、と言う。まさにクラッシュ症候群の心配からである。CPKという、血液中のカリウム系毒素の値が、通常200程度であるはずなのに、14000もあった。このままでは、命が永らえても、人工透析が必要な体になってしまう心配があった。

 医師によると、今晩がヤマとのことであった。ひょっとすると、明日を迎えられないのかな、とも思う。今こうやって意識はあるのに、これで終わってしまうのか───

 その夜は寝付けなかった。興奮や不安からだけではない。左足首に、言葉で言い表せないような違和感があり、少し時間が経つと、すぐ気持ち悪くなってしまうからである。かといって、自分の力では左脚は全く動かせない。そのため、たびたびナースコールを押して、左足首の位置を変えてもらう。看護師は、遠慮なくお呼びくださいといってくれるけれど、やはりぎりぎりまで我慢してしまう。

 それでも、10分おきくらいにナースコールを押す羽目になった。ただ、その晩はたまたま、インターンと思われる、研修の若い男の看護師がおり、彼は遠慮なく呼んでくださいよ、どうせ夜通し起きていますからね・・・と言って、私がナースコールを押す前に、自主的に来てくれることが多かった。これは本当にありがたく、この看護師には感謝してもし足りないほど、大変世話になった。

 浅い眠りが明けた事故の翌日が、打撲や骨折による痛みが、後にも先にも一番酷かった。顔を含め、体じゅうが痛む。妻によると、顔や左脚をはじめとする、体の腫れも一番ひどく、正視できなかったそうである。首も、この日からまったく動かせなくなった。一種のむち打ちなのであろうか。

 もうこれで、両腕と右脚、そして口しか動かなくなった。情けないを通り越して、なんでこんな目にあうのだろうと思う。そんなに日頃のおこないが悪かったのだろうか。昨日の事故前のように、いつか自由に体が動かせる日は来るのだろうか。体じゅうの痛みもあって、マイナス思考ばかりが頭をよぎる。

 ただし、見舞いに来てくれた人に対して、事故の様子などを語る口だけは、元気であった。精神的に、半ば興奮状態であったのであろう。

 この日はよいこともあった。まずひとつは、尿が出始めたことである。一番心配されたクラッシュ症候群の症状が、和らいできたのである。

 そしてふたつめは、内臓の損傷がなかったために、食事を摂ることが出来るようになったことである。挟まれていたときに、もし内蔵がやられていたら・・・と思いながらも水を飲んでいたことは、結果的には間違っていなかったのである。

 わずかに肺に挫傷があって、少量の血がたまっているようだが、それ以外に臓器の損傷はなく、2日目の夕食から普通に食べられるようになった。ただ、普通にといっても、体は動かないから、誰かにスプーンで口に運んでもらう必要があった。まさにゼロ歳児状態である。

 しかし、久しぶりのメシはうまかった。最後になんとか一人で食べた、ごく普通のみかんの缶詰が、涙が出るほどうまい。というより、実際涙が溢れ出た。

 2日目の晩は、つらい左脚の違和感を少しでも忘れるためにも、妻が置いていってくれたiPodを聞いてみる。妻と私は、いつも音楽の趣味が全く合わないのだが、そのときはたまたま、自分が大学生のころ大好きだった、Bruce Hornsby & The Range の 「The Way It Is」 という曲が聞こえてきた。それを聞いていると、若くて元気だったころを思い出すとともに、俺は今、こんなところで何をしてるんだろうとほとほと情けなく、またまた涙が溢れ出てくる。

 左の人差し指と中指も負傷して、爪の中の内出血がひどく、2本の指に全く力が入らない。これらは、私の仕事上、大切な指であるのだが、下手ながら好きなピアノを弾くためにも、重要な指である。唯一のレパートリーであるガーシュインも、もう弾けなくなったのかな・・・とピアノを前に座っている自分を空想してしまう。ピアノが表に立つ 「The Way It Is」 を聴きながら、涙が止まらない。

 ICU内だけに、看護師がしょっちゅう前を通る。涙を流していることがばれないようにしなければと思うが、抑えることができない。しかし、なんでこんなに涙もろくなってしまったのだろうか・・・

  つづき
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