2005年4月25日 福知山線5418M、一両目の「真実」

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 やがて、男性が車内に入ってきた。医師だ!

 彼は、僕とほかの3人の男性の脈や瞳孔を、丁寧に調べはじめた。そして、ひととおり調べ終わると、レスキュー隊に対し、僕を最優先に救出すべしとの助言を行った。あとで知ったことであるが、これはトリアージといって、今回のように多数の傷病者が発生した場合に、傷病の緊急度や程度に応じ、治療や搬送の優先順位を決めるという、災害医療における重要行為である。トリアージは人の命に直接かかわるので、慎重になるのは私にもわかる。

 しかしこの判断は当然だ。ほかの男の人はすでに亡くなっているし、レスキューの方々は、ここ何時間かは僕を救出するためだけに、一生懸命作業をしてくれているのだから、と思った。と同時に、医師がもし私を最優先に、と言ってくれなかったらどうしようと、不安になったことも確かだ。このとき、酸素マスクもつけてもらったような気がする。

 この医師がいったん引き下がった後、少ししてから次の医師がやってきた。これもあとでわかったことだが、どうやら同一人物であったらしい。しかし、そんなことが判る余裕はなかった。

 少し若々しく見える医師は、声を張ってはっきりと言った。

「私は済生会○○病院の○○です!」

 驚いた。まずはじめに、自分の所属と名前を名乗る医師は初めてだ。ただ、○○の部分は、いずれも聞き取れなかった。しかし、病院名に関しては、私が以前から知っていて、おそらくこの事故現場から一番近いと思われる、中津(済生会中津病院、大阪市北区)でなかったことは、はっきりわかった。

「点滴をさせていただいてよろしいでしょうか!」

 このとき咄嗟に、点滴は疲労時や病気のときに、元気をつけるためにするものだという、無知かつ稚拙な思考が働いて、

「僕は元気だから大丈夫です」

と、いったん断ってしまった。すると医師は、今左脚を挟んでいる障害物が取り除かれ、解放された時のクラッシュ症候群───救出とともに血液の流れが回復すると、長時間圧迫され壊死していた筋肉から、有害物質が全身に広がり、急性腎不全や心不全を招いて、最悪の場合、死に至る症状。別名挫滅症候群───の回避のために、点滴が必要であることを丁寧に説明した。

「それは失礼しました。よろしくお願いします」
「それではシャツの袖を切らせていただきます」

 どこまでも丁寧な先生だ。もう服なんて、どうでもよい状態になっているのに。

 着ていた上着やシャツの右長袖が切られ、点滴が始まった。シャツの襟口を緩めてもらったり、てきぱきと処置が行われる。これも後でわかったことだが、遠く滋賀県から自主的に駆けつけてくれたこの医師の、いわゆる「がれきの下の医療」によって、クラッシュ症候群が大いに緩和され、ひいては私の命も救われたのである。

 ただ、挟まれている人間の心情としては、「医師がこんなぐちゃぐちゃな現場に、わざわざ来てくれた!」という感激、それに心理的安心感が大きかった。救出作業に大きな進展が見られない今、医師がそばにいてくれているということは、なんという心強さであろう。それまで時間が過ぎることばかり気にしていた消極的思考が、少しだけ前向きになったことは間違いない。

 私の体をずっと支えてくれているシンヤ君が、点滴袋も持ってくれたような気がする。そして、医師が措置をしている間も、レスキューの作業は、徐々にではあるが、進行していた。あるとき、右方にいたあるレスキューの人が言った。

「兄ちゃん、今から裏に回って、足の裏の方から攻めてみる。靴をたたくから、自分の足やったら言ってくれ」

 口にしてある酸素マスクを、手で持って少し外してから答える。

「わかりました、お願いします」

 そして、何人かの隊員が裏に回っているのがわかった。やがて、下の方から声がする。

「兄ちゃん、どんな靴履いてるん?」
「ティンバーランドのこげ茶色の革靴ですっ!」

 大きな声で叫んだ。

「じゃあ、これかなあ?」
「ちがいます」
「じゃあ、これ?」
「いや、ちがいます」
「おかしいなぁ・・・」

 これだけはっきりと靴の特徴を言っているつもりなのに、裏に回った人はティンバーランドがわからないのか。それとも、靴のロゴがわかるような状況でないのかもしれない。

 いや、もしかしたら、裏に回った人は私の靴をちゃんとたたいているのに、私の左脚の足先はすでに死んでしまって、神経が反応していないだけなのかもしれない。瓦礫に挟まれているすねの部分はあまりにジンジンしており、その先の足首や足の指などへの、自分自身の発する信号の行き帰りが実感できない。つまり、足首や足の指の動かし方自体を忘れてしまったような感じになっているし、信号が帰ってくるほうも、挟まれているより先の、どの部位の感覚もよくわからなくなってしまっている。

 ついにやってもたか・・・と思う。普段は容易に手の届くところにある自分の体の一部が、今ではとんでもなく遠くにある。それも、すでに実質的には別個体になっているのかもしれないと思うと、やりきれないものを感じる。

 何回か、靴確認のやり取りが続く。ということは、私以外も含め、たくさんの足首があるということでもある。

 いったんこの靴たたき動作が中断して5分ほど経ったころだろうか、また下の方から声がする。

「もう一回行くでぇ、これかなあ?」

 そのとき、靴の裏がトントンとたたかれる感触がわずかに、しかし確かにあった。

「それです、それですっ!」
「よっしゃわかったっ!」

 全身からいったん力が抜けた。いやぁ、まだ脚は死んでなかったのだ。あぁ、よかった・・・

 これで裏にいるレスキューの人の弾みがついた。裏の方で、作業が進む感触がするようになった。この足の裏側の作業も、全体の作業の進捗に大いに役立ったようだ。もうこの頃には、まもなく解放されるに違いないという実感があり、マイナス思考は完全に消えていた。そして、それから十数分ほど経っただろうか、そばの隊員が叫んだ。

「よっしゃ、これでぬけるぞ!」

 挟まれていた辺りを見ると、たしかに隙間ができているように見える。しかし、私のすねの感触は、相変わらずジンジンとしたままで、障害物から解放された実感はなかった。左脚を自分で抜こうとしたが、もう動かなかった。今度は何かに引っかかってではない。自分の能力的に、脚自体が、そして体さえもが、全く動かせなくなっていた。

 そのため、何人もの隊員たちが、不自由な足場と体勢の中、力を合わせて私の大きな体を抱えて、引っ張ってくれる。靴は、今度は脱げないようにしようと思えばできたが、もはや役立たずのものである。脱げるに任せた。そして、体が自分の頭の方向に、確かに抜け出てゆく。ああ・・・助かったのだ・・・

「担架っ!担架だっ!」

 隊員の声が弾む。そして皆口々に、

「兄ちゃん、よう頑張ったな!」

と声をかけてくれる。

 すぐさま担架が運び込まれ、皆に抱えられながら、体は担架に移され、担架についたベルトが締められる。そして、運び出されかけたところでいったんストップがかかり、

「運ぶときに首が動いて危ないことがあるから、念のためこれをはめるからな」

と言われ、何かが首周りに挟まれる。

 体は脱水しているはずなのに、涙が両目からとめどなく溢れ出る。こんなに湯水のように涙が出るのははじめてである。それは助かったことによる喜びや安堵感からではなく、この劣悪な環境の中、いままで努力してくれたすべての人への感謝の気持ちからであった。

 涙でよく見えない目をカッと見開いて、左右にいる一人ひとりの顔を見て叫んだ。

「ありがとう、ありがとう」

 口の酸素マスクを外していないので、モゴモゴになった声はよくは聞こえていないだろうが、そんなことを気にしている場合ではない。思い切り大きな声で叫んでいた。そうしたかった。隊員たちも、

「よく頑張った!」

と口々に激励してくれる。一刻も早くここを出たいという感情のほかに、お互い限界状態の中で頑張った男達の仲間意識というのか、熱い絆のようなものを感じ、もう少しこの場にいたいという、明らかに矛盾した思いも芽生えているのを感じた。

 記録によると、14時25分───二列になったレスキュー隊員や消防隊員たちの手によるバケツリレーによって、5時間閉じ込められた空間から脱出する。担架を持ってくれている一人ひとりにも、「ありがとう!」「ありがとう!」と熱く叫びながらも、どんなところにいたのかが気になり、搬出経路を冷静に確認するもう一人の自分もいた。

 すると、まず車内を後方へ平行移動した後、左側面の破れた窓からいったん下の車外に出され、車体の外沿いに、窓から屋根部分まで、再び平行移動するのがわかった。そして「よいしょ!」という掛け声とともに、担架は持ち上げられ、それと同時に眩いばかりの明るさの下に身が晒された。ようやく外に出たのだ!

 引き続き、大粒というより滝のような涙が目から吹き出て、「ありがとう!」と叫びながらも、今度は報道のカメラがいないかが気になっている自分がいる。こんなやつれた姿で大泣きしている情けない姿が、新聞に載ったりテレビに映るのはいやだ。

 しかし、幸いにもスチルカメラもテレビカメラもなかった。少しほっとする。このあたりを撮影するために、報道各社のバケットクレーンが立ち並んだのは、私が救出された1〜2時間後のことであった。

  つづき
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