2005年4月25日 福知山線5418M、一両目の「真実」

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 なんとなく目が覚めた。というより、目が開いたといった感じであろうか。あれから、どのくらいの時間が経ったのかはわからない。車内は、薄暗いせいなのか、それとも埃が漂っているのか、なんとなくもやっとしている。

 目の前は、世界から色が抜けてしまったような、彩度の低い瓦礫の光景が広がっている。やはり進行していた方向からみると、私は後ろのほうを向いているらしく、視線の先には少しばかりの空間があるのがわかる。そして、上下の感覚がどうも変だ。そう、目に見えている世界自体が横倒しになっているのだ。

 しかし、異様に静かであった。いや、もしかしたら音はしていたのに、その記憶がないだけかもしれない。

 そして、もやっているのは、目の前に広がる光景や音だけでなかった。自分の意識もである。あまりにぐちゃぐちゃな、これまで見たことのない光景に、なんだか現実でないように感じる。

 もしかしたら、昨日までの疲労のために居眠りをして、夢を見てしまっているのではないか。そうだ、これは夢なんだと思った。いや、正確には夢であってほしいと念じた。しかし、よくよく考え直してみると、先ほど電車が転倒した記憶は薄らながらある。認めたくないが、これは現実だ。

 視線を手前に移すと、私の上には男の人がのっている。何人のっていたかなどは覚えていないが、折り重なっているというような言葉で簡単に片付けられないほど、複雑に絡まりあっている。もちろん、そういう私も他の人の上にのっているようだ。

 ただ、顔の前だけは空間があいていて、それで目の前に視界が開けているのが判った。さらに足下の方に視線をおろすと、大変驚くべきことに、先ほどまで使っていたノートパソコンが、ちょうど私の胸の前に引っかかっており、そのおかげで空間ができ、息ができているようだ。何という偶然だろう! ノートパソコンは、事故の衝撃で閉じた状態にはなっていたが、すごいことであると思った。

 全身に人や物が載っていたせいなのか、自分の体を動かしたり、脱出を試みようとは全く思わなかった。手くらいは動かせる余裕があったのかもしれないが、そんな発想さえ全く浮かばなかった。このときは、痛みも記憶していない。

 ただただ、嘘であるかのような目の前の光景を、ぼんやりと眺めていた。そして、そのうちにまた意識が遠のいていった。


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 人の声で目が覚めた。私の記憶の中では、初めての事故後の音である。

 作業灯がつけられており、オレンジ色の作業着を着たレスキュー隊員が作業していた。すでに、私の上にのっていた人や物は、あのノートパソコンを含めて撤去されている。もしかしたら、命の恩人であったかもしれないノートパソコンの行方は気になったが、救出作業の障害物として、どこかに投げ捨てられたのであろう。他人にはただの壊れたパソコンでも、私にとっては貴重品だ。是非ともいつか再会したいという気持ちになる。

 しかし、私の体が動かない。見ると、両脚のすねの部分が瓦礫に挟まれている。このとき初めて痛みを感じた。特に左脚が強烈に挟まれてジンジンになっており、すでに半分感覚が麻痺している。右脚も痛い。

 私の真上で作業しているレスキュー隊員のヘルメットを見ると、左側になんと姫路市消防本部と書いてあった。「もう姫路から援軍が来ているのか!」 左手にはめた腕時計を見ると、まだ11時ごろであったように記憶している。

 周りを見ると、私の右下のほうに、といっても手を伸ばせば届くような近さに、同じくどこかを挟まれているのだろう、若い女性が「痛い、痛い」と泣きわめいている。ほかに男性が3人いる。

 えらいことになっていることを、このとき初めて実感した。これはもしかしたら、大きなニュースになっているのではないかと。何を今さら、と思われるかもしれないが、この狭い空間にいる私にとっては、事故の瞬間以来、私から見える範囲がすべてであり、事故全体の様子など、全くわからなかったからである。ただ、私の乗っている電車の先頭車両が脱線して、このようにぐちゃぐちゃになっており、多くの人が倒れ、遠くからレスキューが駆けつけている現実がある。

 家族や会社の人が心配しているだろうなと思う。いつもズボンの左ポケットに入れている携帯電話を取り出すべく、本能的に左ポケットをまさぐる。しかしポケットの中はカラである。よくよく考えると、事故当時、携帯も膝の上に出して作業をしていたことを思い出した。もうどこかにぶっ飛んでしまっているはずだ。

 なんとなく、右にいた男の人の手を握りしめ、「がんばろでぇ〜」と声をかける。これは、その男の人のためと言うよりは、多分に自分で自分を励ますためであった。しかし、その男の人がすでに息絶えており、暖かく感じたその人の手は、私の体温によって暖められているだけであると判るまで、少なからずの時間を要した。その人の返事がないことで、すぐわかりそうなものではあるが、精神的に平常状態でなかったのであろう。

 まもなく、泣きわめいていた女の人が救出された。「いいなぁ・・私もはやくこのようになりたいな」と心から思いながら、その女の人に「よかったな! よかったな!!」と声をかけた。女性が手際よく載せられた担架は、消防隊員たちによって、バケツリレーの要領で搬出されていった。

 急に静けさのようなものが、あたりを支配する。おそらく、外は救急車の音やマスコミのヘリコプターの音、そして人の声などが飛び交って、ごった返しているのであろうが、1両目の私の周りはエアポケットに入ったような状態で、聞こえる音といえば、レスキュー隊員の声と、時折連続して鳴る携帯電話の呼び出し音くらいなものである。

 女の人がいなくなってから、レスキューの人の指示に従い、自分の体を女の人がいた辺りの右方に移して、体勢を変える。改めてよく見ると、私の後ろに一人、左横に一人、右下に一人の計3名の男の人が見える。ただ、いずれもすでに亡くなっているようであった。

 そして、上を見ると、電車の広い窓があった。幸いにも割れていない。割れていたなら、どうなっていたかわからない。がそれより驚いたことに、その窓ガラスのすぐ向こうには、コンクリートの壁のようなものが見えている。改めて上下左右の感覚を確認したが、やはり窓ガラスの方向が上だ。電車が横転した記憶に照らし合わせても、つじつまがあう。

 つまり、私が今いるのが横転している車両の左側面付近であり、見えているのは右側面の窓と、建物の天井裏というか、そういう類のものである。なんで窓の向こう、つまり上のほうにそんなものが見えるのであろうか。もちろんこれは、先頭車両がマンション「エフュージョン尼崎」一階部分の立体駐車場の中にもぐりこんだためであるが、納得するためには、数日後に新聞を見せてもらうまで待たねばならなかった。

 心を落ち着けて、上に見える窓の下にある座席のシートを見ると、優先座席の模様ではなく、通常のブルーである。周りも見渡して総合的に考えると、どうやら私は座っていたところから右斜め前に投げ出された後、どう移動したかはわからないものの、結局投げ出された着地点のあたりにまで、戻ってきているようであった。

 この私の一連の所作との前後関係ははっきり覚えていないが、目が覚めて30分ほどしたころであろうか、少し遠くから「交代!」との掛け声が響いて、レスキュー隊員がいったん出て行った。「えっ、交代なんかしないでくれよ」と一瞬思ったが、これだけの蒸し暑い劣悪環境の中の力仕事である。交代しないと効率がかえって落ちるのは、私にもわかる。そして、この交代で車内に入ってきたのは、今度は明石市消防本部のレスキュー隊員たちであった。挟まれながらも、すごい救急ネットワークが機能しているなと感じた。

 やがて、隊員から「右脚が抜けると思う、ちょっと頑張ってみて」と言われた。右脚には突き刺すような痛みがあったが、ゆっくり動かすと、まだ少しひっかかる。このことを訴えて、さらなる障害物を取り除いてもらってから、再度チャレンジすると抜けてきた。履いていた靴は、当然のごとく何かに引っかかって脱げた。しかし、普通に右脚を抜こうとすると、ひざのあたりが何かにあたるため、右脚をさらに右の方向へ、つまり股を開脚の方向へ、かなり大きく開ける必要があった。このときは、体が硬いことを素直に後悔した。

 痛いとか言っている場合ではない。多少の無理をして股を広げ、ようやく右脚が解放された。しかし、左脚はますますジンジンとしてきて、もう感覚がわからなくなってきている。レスキューの人が必死に作業してくれており、こんなことを言って状況が変わることもないのは百も承知であるのに、「すまんがもう限界や、早くしてくれんか・・」という言葉が出てしまう。それほど我慢できない状況であった。それが時計を見ると正午ごろであったから、事故発生から約3時間後である。

 レスキューの人は、カニの鋏を巨大化したような形をした、スプレッダーという機械に空気圧を送り、挟まれた脚のあたりの瓦礫の隙間を拡げようとしてくれている。「圧送れぇ〜」という掛け声を、伝言ゲームの要領で繰り返し車外のスタッフに送るとともに、隙間にスプレッダーをあて、拡げようとしてくれているのだが、瓦礫の部材が曲がるばかりで、「やめぇ〜」となる。何度やってもうまくいかず、レスキューの人も困っているようだ。

 あまりに状況が好転しないので、もしかしたらもう脚は抜けないのかもしれない・・・と弱気の虫が幅を利かせてくる。いや、もし抜けても、もう左脚は壊死してしまっていて、切断という結果が待っているのかな・・・とも思う。ああ、もう自由に歩くことは、二度とできなくなってしまうのか───普段の自由に動けていた日常を、今更ながらうらやましく思う。

 それでも、ごくわずかながら進展はあって、それとともに、作業をするレスキュー隊員の足場を確保するためにも、自由に動ける上半身を何回か動かして、スペースを作る。実はアバラが4本折れており、後に病院に搬送されてからは、体が全く動かなくなってしまうのであるが───

 それにしても、蒸し暑いせいもあって、強烈にのどが渇く。レスキューの人にお願いして、ペットボトルの水を飲ませてもらう。一瞬、内臓がやられていたら危ないなとも思ったが、この際、そんなことに構ってはいられない。上から豪快に口に流し込んでもらう。美味しいとか不味いとか、そういう評価の次元を超えている。ただただありがたかった。続いて水を頭にかけて冷やしてもらう。こういうことは何度も続いた。

 やはり皆が心配しているだろうなと気になって、これもレスキューの人にお願いして、携帯電話を借りようかとも考えた。しかし、今のところ、レスキューの方が何時間も作業をしてくれているのに、挟まれている左脚が抜ける気配はまったくない。もし電話して生声を聞かせたのに、結局助からなかったでは、電話を受けた相手が後で気持ち悪くなるだけだ───と妙な思考が働いて、救出されたらすぐ連絡をお願いすることにしようと思い直した。

 それでも、時折右後方から携帯の着信音が鳴り響き、これが自分のものであるような気がして、すまんがこれを取って出てくれないかとお願いしたりもした。しかし、レスキューの人によると、携帯は見えないという。そりゃそうだ。瓦礫の中に入ってしまっているのだろう。結果的には、事故後出てきた私の折りたたみ式の携帯電話は、折りたたみ部分がバリっと真っぷたつに割れていて、電源さえ入らなかった。鳴っていた電話は、やはり他人のものであったということになるが、電話をかけ続けていた携帯電話の持ち主の肉親、あるいは友人の心情を思うと、今でも心が痛む。

 改めて下の方を見ると、私の左脚は、亡くなっている男の人の右腕とともに、挟まれているのが判る。その人の右腕が抜けると、私の脚も少しは抜けやすくなるのかなとも思い、レスキューの人に、私の左脚を抜く前に、この下の人を助けてあげてくれと、訴えたこともあった。言葉遣いでその人が亡くなっていることを決め付けたくなくて、自然に助けてあげてくれという表現になっていた。

 その人の頭は、ちょうど私の左脚太ももあたりに来ていた。見た感じはまだ30代の、若いサラリーマンに見えた。その男性の頭部が、レスキューの人が格闘している隙間の入り口にちょうど来ている格好になっており、表現のしかたが不謹慎で誠に申し訳ないが、救出作業の妨げになっているのが私にもわかる。

 もし仮に、その人から右腕を切り離してしまえば、この先の作業はしやすくなるだろうが、この人にも家族や友人が待っている。いくら亡くなっているからといっても、できるだけ傷の少ない状態で、家族にお返ししたい気持ちは私とて変わらないし、私もそんなことをしてまで、早く救出されたいとは思わない。仮にこの人の右腕の犠牲の上に私が助かったとしたら、私にとって一生ひきずる心の傷にもなってしまう。

 しかし、いったい何時まで我慢せねばならないのだろう。14時くらいには、もう楽になっているだろうか。その時には解放されていることを夢見る。だから時間が早く過ぎてほしいと思う。何度も腕時計を見るが、あたりまえだがさっき見てから分針が少し進んだだけだ。時間の進むスピードが、いつもと同じであることがいくら判っていても、やはり進みが遅い。

 そういえば、左腕にはめた腕時計の、金属製のバックルを何度締めようとしても締まらない。見た目はおかしくないのに、どうも壊れているようだ。やはりここにも衝撃がかかったのか。腕時計がぶらんぶらんするのが、なんとなく気持ち悪い。

 かなり切羽詰まってきていた。あまりにもの痛みのために、わざとウトウトしたことが何度もあった。こういう時には、寝ると危ないのかもしれないが、寝ることによって、痛さを忘れることができ、時間も稼ぐことができる。必然が生み出した、痛みへの最大の自衛策であった。

 また、あまりにもの痛みのために、もう脚がずたずたになってもいいから、力づくで体を引っ張り出してほしいとお願いし、事実引っ張ってもらったこともあった。しかし、こんなに神経が麻痺してよくわからないくらいになっているのに、引っ張ってもらうと、やはり言葉に言い表せないほど痛い。それでも我慢せねばと、しばらく我慢したが、やはりダメであった。この引っ張ってもらうことをしなかったら、欠けたり裂けたりしたのを含めると、13箇所ほど損傷した骨のうちの1本くらいは、折らずに済んだかもしれない。

 ところで、レスキューの隊員たちの中にも、当然上下関係があって、皆からシンヤと呼ばれている隊員が、どうも新人のようであった。だから、「おいシンヤ!」とか「シンヤ! ○○持ってこい!」とかいろんな人から言われ、なにかとイジられる、いいキャラの好青年であった。

 やがて、上半身の体勢がしんどくなってきて、これもレスキューの人にお願いし、上半身を支えてもらう。当然のように、シンヤ君が担当となった。そのおかげで、私も直接彼に、「シンヤ君、しんどくなってきたからもうちょっと上に持ち上げてくれるか?」とか、「シンヤ君、悪いけど水ちょうだい」とか、あまり遠慮なくお願いすることができた。

 しかしシンヤ君は、私の体を支えながらも、狭い空間において、作業現場に一番近い隊員の一人でもある。そのため、本来の作業もせねばならず、大変な役回りとなった。彼が本来の作業に集中すると、私の体をささえるのがおろそかになってくる。「ちょっとシンヤ君、体が落ちてきた、もうちょっとささえてくれんか」などとお願いしたことも、一度や二度ではなかった。しかし、シンヤ君は体を支えたり、水をくれたりだけでなく、至近距離からしばしば励ましの声をかけてくれるなど、一番身近で世話になった隊員である。どこのレスキュー隊員かは確認できなかったけれど、今でも感謝している。

 このように、今だけはレスキューの隊員は、何でも私の言うことを聞いてくれるし、何人もの人たちが、今は私一人のために一生懸命やってくれている。ただただありがたい。そして、少しでも時間が過ぎていくことを祈る。

 やがて、レスキューの隊長のような人が、「このままのやり方ではだめだ。座席を取り外して周りから攻めよう」と判断した。私も、素人目ながら、間近で何時間も作業を見ていて、スプレッダーでいくらやっても、もうダメかもしれないと思っていた。途中から、同じ試行錯誤の繰り返しにもなっていた。結果的に、この作戦変更は功を奏することとなる。

 作業の進展とともに、私の下の方にいた、右手が挟まれている男の人が私の左脚の上に、そして私の左でもう一人亡くなっている人が左胸の上に、それぞれもたれかかるような形になってきて、その重みに耐えるのがだんだん辛くなってきた。レスキューの人にそのことを訴えると、上の座席シートの端にあるメッキ仕上げの手すりに、赤いロープを引っ掛けて、亡くなっている方を少し吊り上げてくれ、楽になった。

 後日、尼崎市消防局から発表された写真の中に、赤いロープが結ばれたこの手すり部分の写真があって、「まさに私の上の光景だ!」とドキッとしたことがある。確かに私が挟まれている間に、写真を撮られたことは覚えている。なんとやく嫌な気持ちもあったけれど、腹は立たなかった。むしろ、どうぞ資料に残してくれという気持ちになった。

 しかし、いったん設定した目標の14時が近づいているのに、いっこうに脚は抜けそうにない。我慢の個人的な目標を、再設定しなければならない。何時まで我慢せねばならないのだろうか・・・

  つづき
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