玉生駅跡の北方にある、塩谷町役場の駐車場の先にも、ほぼ完全な形の築堤が田園地帯の中に残されていて、途中には小さな橋台を見ることもできる(E地点)。
右カーブが終わるところで、築堤は崩されているが、そのまま線路跡である荒れ道は続いている。そして、この道を直進していくとぶつかる荒川を越えていた橋梁こそ、河川改修の影響もあって跡形もないものの、その先の廃線跡は、再び舗装道となっている。
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E地点での橋台跡。見えにくいが、左手前 (かなり大きい)と右奥に橋台があり、 そこから左奥方向へと築堤が伸びている |
ここからの廃線跡の道路は上り勾配となって、趣も豊かに森の中を進んでいく。
こんなのどかな風景ではあるが、非力な古典機関車にとって、この勾配は相当苦労したらしい。坂を上れなくなって、荒川付近までバックして勢いをつけなおしたり、線路脇でレールに金属片をのせて列車の通過によってこれを変形させて遊んでいる子供に、その行為を許すのと引き替えに線路上に滑りどめのために砂をまいてもらったりもしたという。
柄堀駅は、そんな峠越えのサミットの近くにあった駅で、駅舎があったであろうところが平地となっていたり、駅前にあたるところに現在でもちっぽけな商店があったりして、今も当時の雰囲気を偲ぶことができる。桜(?)並木の美しい駅跡の敷地内には、駅で使われていたのか、あるいは蒸気機関車の給水に使われていたのか、いわくありげな井戸の跡も認められる。
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無残に蓋がされ通行不能となった柄堀トンネル |
だが、駅跡から先の廃線跡の道を進もうとすると、突然行く手を無骨な柵によって塞がれてしまう。これは峠越えの柄堀トンネルが、崩壊の危険があるため全面通行禁止となったからである(F地点)。
矢板線廃止後も、地元の人々の近道として約40年にわたって使用されてきたこのトンネルも、通行止めを伝える看板によれば、平成10年2月10日から、蓋がされてしまったようである。
このため現在では大廻りしないとその先に行くことはできなくなってしまったが、柄堀トンネルの先からの廃線跡も、峠越えの雰囲気をたっぷりと盛り込んだ簡易舗装の道として、今でも趣を充分に残している。
この、幸岡駅から柄堀トンネルにかけての登りでも、あまりに列車のスピードが出なかったため、食糧事情の悪い頃には、腹を空かした機関士が脇の畑に飛び降りて、とうもろこしを失敬し、全力疾走で機関車に追いついて飛び乗れたほどであったという。因みに、そのとうもろこしは機関車の釜で焼いて食べたというから、よくできている話ではある。
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一面の平野の中にポツンと残る橋台跡(G地点) |
やがて、廃線跡は太い道路に吸収されてしまうが、その先にあった幸岡駅跡には、ホーム跡が認められる。そして、これまた脇は製材所となっている。
廃線跡に造られた道は、東北自動車道をくぐる付近で左に曲がっているが、線路はほぼ直進していたことが、このすぐ先の宮川に残されている橋台の位置と向きによって判別できる(G地点)。ただ、この橋台以外は区画整理のため、橋梁の前後にあった築堤を含め、鉄道の痕跡はまったく残されておらず、逆にこの橋台だけが残されたことが不思議なほどである。(もっとも、現在はこの橋台も失われているらしい)
再び廃線跡は一般道となり、左に大きくカーブしていくと、右手に東北本線の線路が見えてくる。これとしばらく併走して矢板の駅に入ってゆくが、その手前に鉄道時代の小さな作業小屋が残されているという。だが、私がその事実を知ったのは、ここの探訪直後であったため、確認はできなかった。
矢板の駅跡は、JR矢板駅の広い駅前広場のあたりだと思われる。天頂鉱山や日光鉱山から産出された銅鉱石が、ここを経由して茨城県の日立に送られ、精錬されていたという事実は、もはや想像でしかない。
大手私鉄でも、多くの小私鉄を吸収合併した会社には、意外なローカル線が少なからず存在した。これら大手私鉄のローカル線は、大手傘下になったことにより、そうでなければ廃止になったであろう路線が存続しているケースがある一方で、努力むなしく廃止になったり、逆にそれほど近代化されないまま消え去った路線もある。これら魅力あるローカル線を数多く持っていた大手私鉄の代表格は、大手私鉄がそれしかない中部圏の名鉄、九州の西鉄に加えて、関西圏では近鉄や南海、そして首都圏では東武が代表格ということになろうか。
その東武の知られざるローカル線であった矢板線の2大柱は、旅客輸送というよりはむしろ鉱石輸送と木材輸送にあった。さすがに今では、鉱石輸送をしていた痕跡は、付近の鉱山跡を含めて殆ど認めることはできないものの、数ある駅跡のほとんどに木材関係の施設が残されていることは、この鉄道の生業のひとつを無言のうちに物語っているといえよう。
この鉄道の代表的な遺跡のひとつであった柄堀トンネルが、通行不能になってしまったのは寂しい限りであるが、廃線後40年を経た現在でも、予想以上に痕跡が残されているのは、驚きというほかない。日本でも有数の規模を誇る大手私鉄の忘れ去られたローカル線の一つとして、記憶に留めるがてら、探訪することをお薦めできる路線である。
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