内子線は、もともとは大正9年に五郎〜内子間が開通した、どこにでもあるような典型的な赤字ローカル盲腸線であった。朝夕の通勤・通学時間帯以外は1両の気動車が行き帰りするだけの、いつ廃止になってもおかしくないような路線であった。

しかし、国鉄末期に予讃本線の松山〜宇和島間の所要時間の短縮のため、向井原〜内子間を新線、そして内子線部分は路線改良したうえに接続駅を五郎から伊予大洲に変更して、向井原〜伊予大洲間の海岸沿いのルートを変更することとなった。これには距離的なメリットはそれほどないものの、海岸線の地滑り多発地帯を避けるという意味あいもあり、時期的にも国鉄から経営基盤の弱いJR四国への置きみやげの性格も併せもっていたようである。
そのため、内子線は昭和60年末から3ヶ月ほど列車を全面運休して大改修工事を行い、軌道改良・強化や新谷駅の列車行き違い設備の新設等を行った。そして、工事の完成とともに向井原〜内子間、および新谷〜伊予大洲間の新線と接続されて、今はこれらと一体化された本線の扱いとなった。この結果、五郎〜新谷間、および(現)五十崎の手前付近〜内子間の旧線は廃棄されたのである。
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右の高架上には現内子線の気動車が走る |
このうち五十崎付近からの旧線跡は、現五十崎駅の数百メートル伊予大洲側の、新旧線の切り替え地点付近からしばらくは、もうすでにこれといった痕跡はない。そして新線をくぐった先からは、松山自動車道の工事により、余りにも大きな築堤が築かれて地形そのものが変わっており、廃線跡がどうのこうのという状態ではない。
余談ではあるが、最近の山間部の高速道路は、騒音対策のためか比較的高度が高いところを、それも余り地形にこだわりなくトンネルや橋梁を贅沢に使って建設することが多いため、実際クルマで通っているとわからないものの、すべての施設の規模が巨大化する傾向にあり、廃線跡などはひとたまりもなく呑み込まれてしまうのである。
しかし唯一あった隧道の跡を越えたあたりから、雑草がかなり生い茂ってはいるものの、線路をいまだに載せたままの築堤が現れるようになる。この築堤は五十崎の集落のはずれの旧道を越えるところで橋台を残し、そのすぐ先で国道をくぐるが、そこはすでに五十崎の旧駅跡である。五十崎の集落のはずれにあったこの旧五十崎駅に対して、現駅は一番集落に近いところに置駅したものの、かなり集落とはかけ離れてしまっていることがよくわかる。
残念ながら余り痕跡の残っていない駅跡のはずれで、線路は再び松山自動車道の工事のため途切れているが、その先は雑草も少なく歩きやすい線路跡の築堤が緩やかなカーブを描いている。やがて左側に、現五十崎駅から長いトンネルで真っ直ぐ進んできた現在線の高架が寄り添ってくるが、これと接することなく現内子駅の駅前広場前でか細いレールは途切れる。
この駅前広場には、旧内子駅の駅舎横に鎮座していた蒸気機関車が移設されていて、脇には旧内子駅で使用されていた駅名標が額縁のようなものに入れられ、保存されている。旧線跡の路盤上には、旧内子駅に蒸気機関車が置かれていた当時使用されていたものなのか、このC12のプレートを形どった、コンクリート製の台が放置されている。
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ちなみに奥の歩道の奥の空き地が旧線跡である |
旧内子駅はさらに先の、家並みの間の路盤跡を抜けて、旧線跡を改修した真新しい道路が行き止まるところにあった。残念ながら周辺に木材の作業場などがある程度で、少し空き地があるほかには痕跡はないが、この内子駅も、現駅は旧駅に比べて街の中心から遠ざかってしまっている。しかし、その内子の街並は、過度に観光化されずに落ちついた佇まいをよく残しており、廃線跡を探訪した折には是非とも散策するとよい。
内子線はこのように近代化され、列車回数も増えて昔の面影を失いつつあるが、意外なところにローカル線時代の遺物がある。それは運賃である。内子〜新谷間の名称はいまだに内子線のままであるため、この区間だけはいまだに地方交通線扱いで、運賃は少し割増となっているのである。