■ガイド 山中越え 敦賀〜今庄間

 現北陸線の北陸トンネル南口のすぐ手前から左方向にカーブしていく国道476号線が、旧線を改修・拡幅した道路である。現在線と分かれてすぐの所にあった深山信号場跡こそ何も残っていないが、北陸自動車道と絡むように進んで行くと、並行する木の芽川に架かる少し幅の狭い橋が現れる(F地点)。下を覗くと、これは鉄道時代の橋桁の上に、その2倍ほどの幅を持った2車線道路を載せた、少々危なっかしい橋であることがわかる。

橋梁跡
深山信号場跡の北方の木ノ芽川にかかる国道の橋は、  
鉄道橋梁の上に2車線分の道路が載っている(F地点)  
2本のトンネル
突然姿を現す2本の旧鉄道トンネル(G地点)。 
トンネルは北行一方通行で、南行は右に迂回する  

 そしていかにも鉄道跡らしいゆったりとした右カーブを曲がった先に、樫曲・獺河内の両トンネルが連続して現存しているのが見えてくる(G地点)。道路としてはトンネルは北行き一方通行になっていて、そばに土砂作業場があるせいかポータルの汚れが激しいが、突然目に入ってくるそのものズバリの遺物は、印象的な光景として我々の前に迫ってくる。

 そのまま北陸道に沿って北上すると、やがてその北陸道をアンダークロスするが、このあたりが新保駅のあった場所である。ここは当初は信号所として開設され、後に昇格した駅であった。アンダークロスしてすぐ右手の所に駅跡を示す石碑があり、これにはスイッチバックしていた構内配線図も詳しく記してあるので、現在の地形(木ノ芽川にかかる複線分の橋梁橋桁や、敦賀方向に残っている1番線に相当する線路敷跡等)と見比べて当時の様子を想像することができる。

 また今庄方の引上線は、北陸トンネルの工事期間中は線路が延長されて、葉原竪坑への資材運搬のための拠点となっていたという。

 さらにぐんぐん登り、葉原の集落をすぎると無人地帯に入り、道が狭くなって廃線跡の趣が増してくる。SLの撮影名所であった葉原の大カーブ(H地点)を左に曲がると、北陸道が寄り添うようになり、やがて正面に葉原トンネルが見えてくる。

 トンネルの手前には、これまたスイッチバック構造を持っていた葉原信号場があったはずだが、本線の左手今庄方の引上線跡は埋められ、敦賀方にあった信号場跡もすぐとなりに迫る北陸道に浸食されてしまったようである。

 さて、葉原トンネルであるが、長いうえに途中でカーブしているために、信号機がついている。このトンネルは、平成8年2月に起きた北海道豊浜トンネル岩盤崩落事故の直後から通行止めの措置がとられ、管理者の敦賀市によるトンネルの形態・動態調査がなされた。その結果、改修工事が必要であることが分かったために、引き続き通行止めの上、改修工事を行って、平成9年12月にようやく再開通したという経緯がある。敦賀市によると、歴史のあるトンネルであるので、出来るだけ形状を変えない施工方法を心がけたとのことである。

トンネル
このようなトンネルが連続して現れるようになる(I地点)  

 鉄道現役時代には、葉原トンネルを抜けたところが、突然左手に海を望む絶景が広がる印象的なポイントであったのだが、現在では憎き北陸道が今度は景色の邪魔をしていて、廃線跡から海は見えにくくなっている。

 さらにごく短いトンネルと、少し長い曲線トンネルを続けざまにくぐると、杉津駅のあった地点にさしかかるが、駅跡は北陸道上り線の杉津パーキングエリアになっているため、優美な曲線を描いていた構内の雰囲気はない。パーキングエリアに景色の良いところを奪われて、すみに追いやられた格好になった廃線跡の道路からは、俯瞰で海を見下ろす絶景も見えにくくなっているが、ここからの景色は何度見ても飽きることはない。

 今も昔もここからの景色は変わらない、と言いたいところであるが、対岸の半島に原子力発電所のドームが見えるのが、現代であるということをいやがおうにも呼び覚まさせる。

 杉津から先は北陸道と別れることにより、人工的な音が周りから消えて、鳥のさえずりが急に耳に入るようになる。道の通行量は杉津までと変わらないのに、音が静かになるだけで、落ちついてトンネルの中なども観ることができるようになるのは、不思議なものである。

 特に草の少ない春先などは、トンネルの合間の景色も思う存分楽しむこともできて、申し分ない。ここが、山中越えで現役当時の雰囲気を最もそのままに残す区間であり、山あいの無人地帯を数々のトンネルでつらぬいて進んでいく。

 実はこのトンネル群も、先ほどの葉原トンネルと同様な理由により、平成10年の4月末まで通行することができなかった。こちらは県による施工だが、オリジナルの姿を極力変えないよう留意した上で改修工事が行われた点は、葉原トンネルと同様である。

 この区間のサミットは最後の山中トンネルになる。ここは1キロ以上と相当長いわりには、完全な一直線のトンネルであるためか入口に信号はなく、対向車がないことを充分確認してからトンネルに入らなけらばならない。

橋梁跡
通行禁止の頃の山中トンネル今庄口(J地点)。  
左のスペースは、山中信号場の引上線跡  
落石覆い跡
山中信号場今庄方にある落石覆い跡。左上にも  
信号場引上線にかかっていた落石覆いが見える  

 山中トンネルを抜けたとたん、右側に引上線跡のスペースが並行し、下りになった道を右にカーブすると、誰の目にも明らかなスイッチバックの跡が見えてくる。ここがその名の通りの山中信号場跡である。左斜め方向に伸びる引上線の奥には二線分の落石覆いが残っており、このすぐ下にある本線にもつながるような形で落石覆いがかぶさっている。

 引き続き下り勾配の中、緩やかな美しい右カーブを曲がると大桐の集落があるが、線路は集落のど真ん中を素知らぬ顔で通り過ぎ、下り勾配が収まる町はずれになって、ようやく駅が置かれていた。ここには道路の右手に、ホームの一部と碑が残っている。

 ほぼまっすぐな道を下っていくうちに、右手に現在線が見えてきて、南今庄駅の横をすぎる。この駅は旧線が廃止されたときに、地元の請願によって開業した無人駅である。しかし廃線跡はここで現在線と合流せずに、現在線がトンネルでくぐっている山を迂回してから、今庄駅のすぐ手前で現在線と合流する。

湯尾旧線
今庄〜湯尾間旧線にある小さな橋梁跡(L地点)  
趣のある、煉瓦積みの橋台が残っている  

 余談ながら、これで終わりと帰ってしまうのはもったいない。このすぐ近くにもう一つ、明治期に建設された歴史あるトンネルが残っている。

 それは、今庄〜湯尾間の湯尾峠をくぐる旧湯尾トンネルである。ここへの行き方は、国道365号線を今庄から北上すると、日野川を渡る橋の手前に左に分岐する道がある(K地点)。そこに入って土木作業場を抜けると、入口に信号機が付き、内部照明も完備されたトンネルが口を開けている。

 これが湯尾トンネルであるが、実はこのトンネルの手前でも、昭和11年1月に雪崩のために除雪人夫80名が生き埋めとなり、うち11名が死亡したという悲しい歴史が秘められている。

 そしてトンネルを出て、道なりに進むと小さな川を渡って(L地点)現在線に合流する形となるが、これが開通当時の線路跡のルートなのである。



■北陸本線敦賀旧線あとがき

 本文中何度もふれたように、この廃線跡は北陸道の建設でかなり破壊されてしまった。駅跡などのまとまったフラットな土地が、山あいを走る高速道路の格好の餌食になるのは容易に想像できるが、私たちにとっては大変残念なことである。旧版地図を見る限り、北陸道ができる前には、廃線跡は路線バスの専用道路等として、鉄道時代のままに近い形で残っていたようだ。しかし、現在では柳ヶ瀬線、山中越えのいずれも、需要が少なかったのか、バスによってでは完走できなくなってしまった。

 また、葉原・芦谷・伊良谷・山中等のトンネル群は、たまたま管理者がトンネルの歴史的意義・価値を充分に理解して改修したのが幸いだったものの、トンネル管理者の責任が問われかねない事故が起きた以上、痛んでいるケースの多い廃線トンネルの将来が明るくないことは確かなようだ。北海道豊浜トンネル岩盤崩落事故以来、通れなくなったままの廃線トンネルは少なくない。

 トンネルが通れなかった頃、通行止を伝える看板には、開通してから103年が経過して云々と書かれていた。考えてみれば、柳ヶ瀬線より後に完成した山中越えでさえ、開通してからもはや一世紀を越す年月を経ているという、大変歴史的にも価値の重い廃線跡といえる。

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