■富内線:鵡川〜穂別〜日高町




 調査区間:鵡川〜日高町
 調査年月:1995年8月下旬


1997年4月下旬に、頭川氏から最新情報(1997年4月上旬現在)を入手しましたので、一部訂正します。

鵡川駅構内は、かなり広い。日高本線の線路を下り方向に向かって歩いていくと、鵡川大踏切という踏切がある。この付近は、日高本線と住宅との間に空地がある。そこが富内線との分岐点だったようだ。

一部線路跡が住宅となっているが、概ね砂利道となっている。市街地を抜けると、やっと築堤が出現した。草が多くてとても歩ける状態ではなかった。しばらく行くと、線路跡が突如道路になった。県だと県道にあたる道道983号である。道道のルート変更工事で、道道は線路際から線路上に移動した。そのあたりに豊城駅があったが、全て撤去して地面を更地にしてしまったため、元の道道から駅へ入る小道とその脇の木しか残っていない。道道はほんの数kmでもとの線路跡に戻った。

路盤は水田の中を抜けていくが、水路を渡る橋(カルバート)に大正時代に作られた桁が架かっていた。勾配標まで残っていた。

隣駅の春日駅には未だホームがあり、駅名標まで残っていた。

この先は、土木作業所の専用道となっているが、キロポストなどが残っている。だがすぐに草だらけになる。草の中からキロポストらしきものが見えた。この先に行きたいが川が行く手を阻んでいる。(この先不明)

旭岡駅は、農道にするとかで全てなくなっていた。農道は穂別町の方から鵡川の方まで作るとか。すでに、駅から見える範囲内では路盤は掘り起こされていた。線路沿いには道路がないため、線路跡の様子が確認できないので、栄駅へと急いだ。いったん鵡川を渡って川の対岸の道道を走る。栄駅は、二面のホームだけが残っていた。Z氏によると、鵡川方に橋が残っているそうだ。線路沿いの道がないので、土手から線路跡を追うことにする。土手を走っているとエゾジカが岸辺にいた。

線路は崖っぷちを走っていて、トンネルが多く見える。新しい道路が川の土手に並走していたので、進路を変更する。

しばらくすると、川の対岸にわたる大きな橋が見えた。

その先の左側に、100m程のトンネルがあった。柵が壊れていたので中に入る事にした。某大学工学部の頭川氏によれば、トンネル内部は亀裂が走り、部分的に膨らんでいて、崩落の危険があるそうだ。出口付近には横穴があった。

トンネルを抜けると、路盤は高い築堤となる。まもなく、豊田駅があった集落が見える。豊田駅は更地にされて、豊田郵便局の先の駅前広場と思しき場所には、消防団の建物があった。頭川氏によれば、その先の橋が農道の橋になっており、車が走れるそうだ。橋は塗り替えていないようなので、橋梁の表記でもチェックしてみるのはいかがだろうか?

穂別駅跡は、ただの公園となっていたので、先を急いで富内駅に向かう。

富内駅は、施設がそのまま残されており、鉄道公園となっている。

銀河ステーションとして地元の人達がいろいろとしている。待合室には多くの旅人がつづったノートがある。ホームには富内駅の駅名標の他に栄・豊田・穂別駅の駅名標まであった。また、構内には、晩年は札幌近辺で活躍した客車と、これまた晩年は北見近辺で活躍していた客車が、共に眠っている。色が褪せているのが気になる。

昼下がりの午後に駅についた時、そよ風が涼しく、空がとても青かった。雰囲気がよかったので、ついつい長居する。

さて、隣駅の幌毛志駅までの区間は、長いトンネルで、峠を越える。

この路線を調査した後に読んだ文献によれば、このトンネルは、いくら掘っても土圧ですぐに崩れるので、戦後に新技術を導入して、やっと貫通したということだった。

富内駅を出て、○○川を渡る。橋梁は残っていなかった。

踏切があった事を示す道路標識を撮影して、いよいよ、山越えに入る。

途中、工事現場の人に線路のあった場所を聞いて、道道の脇から突入する。埋設ケーブルの所在を示す立て看板などがあった。草がぼうぼうだったので、思うように進めない。車の音も聞こえなくなった。16時を回っていたので、あたりは薄暗い。だんだん不安になってくる。こんな時に熊でも出てきたら・・・などと思ったその時、がさがさっと物音がした。

「!!」

さっと振り返ってみると、何か影が見えた。

「これはいかん!!」とばかりに、慌ててトンネルに急いで、写真を急いで撮影して一目散に引き上げた。もちろん、ブレていたのは言うまでもない。柵は、厳重にしてあった。

トンネルの出口らしいものが、道道の右手の工事用車両が多数停車している広場の辺りに見えたような気がする。

もう撮影は不可能だったので、その日は、振内駅構内の客車を改造したライダーハウスに宿泊する。一泊580円だったと思う。

シャワー(1回200円)があって、布団がある。

先客と話しているうちに私は疲れていたのか、眠ってしまった。


翌日、峠のふもとから調査を再開する。幌毛志駅付近は高い築堤となっていた。だが肝心の駅の場所が分からないので、水田で作業をしていた農家の人に聞いてみたところ、一人がスーパーカブにさっそうとまたがって、ついて来いと言わんばかりに線路の跡を走り出した。

駅は、バス停の目の前の細道(国道の右手に折れる道)を行ったところにあったらしい。跡形もなく、道とわずかな空地がそれはかとなく駅である事を示していた。農家の人は、いろいろと駅の事を説明してくれて頑張れと言い残して走り去っていった。

振内駅は鉄道記念館となっており、ホームには幌毛志・振内・仁世宇・岩知志駅の駅名標がある。構内には、晩年には室蘭近辺で活躍していた客車2両と樺太で活躍していたD51がある。客車の方は、ライダーハウスとして使用されている。

沙流川を渡るまで路盤が残っているのを確認した。線路はかつて川を渡って(頭川氏の情報から、橋梁の名称は第一沙流川橋梁と推定される。)国道の右側に移っていたが、確認できなかった。

仁世宇駅は撤去されて、草だらけになっている。もはや、駅があった事はわからない。

この先で、再び沙流川を渡るが、ちょうど撤去工事が国鉄清算事業団の手で行われており、桁は7月に撤去したらしい。(Z氏の情報から、橋梁の名称は第二沙流川橋梁と推測される。だが一度工事名称で橋梁の名称を見たにも関わらず私の記憶にない。)

再び国道に戻って坂を登る。岩知志駅に行く途中に樺太のD51が存在するという情報があるが、詳細は不明。

岩知志駅は、見た感じでは列車交換できたらしい。

国道をずーっと進んでいくと、また沙流川を渡るが、国道の右側に橋梁が架かっている。橋梁の名称が大きく書かれていたように思う。(頭川氏によれば、橋梁の名称は第三沙流川橋梁であるそうだ。この橋梁は今年撤去されるそうだ。もう足場は完成しているので、夏までには撤去されるだろう。デックガーダーと上路式トラスの組み合わせというこの橋梁を見たいという方は、お早めにどうぞ。)

レストハウス竜門パークというみやげもの屋を過ぎて、岩知志ダムの辺りで、国道の左側に橋梁が見える。橋梁の名称が大きく書かれている。(頭川氏の情報から、橋梁の名称は第四沙流川橋梁と推測される。この橋梁は、1996年頃に撤去されたようだ。)

日高岩内駅は、近くで作業をしていた工事現場の人によれば、国道の左側の日高町営バスの停留所(名称は失念)の近くの脇道を進んでいくと、あったらしい。そのバス停には待合室があって、裏手にやぶがあった。脇道からやぶがなくなっていて、ビニールハウスがあったので、わかるとおもうが・・・。

日高三岡駅までの区間は、短いトンネルが国道の左手の林の中からわずかに見える。

日高三岡駅は、件の工事現場の人に教えてもらった。信号があるところ(道道847号との分岐点)から少し後退すると、左手に杉の木を育てている場所がある。そこが駅の場所だといっていたが、実際に見ても、本当に駅があったのかと思うくらい、手がかりがない。

1kmも進むと、もう林が途切れて、市街地が見える。

市街地直前に、コンクリートの橋梁がある。もう、日高町駅だ。

日高町駅の駅舎は、農協が使用していたが、取り壊してしまい、もはや水飲み場くらいしか残っていない。


この調査は、資金と道具と食糧不足に悩まされ、かつ、住民がいない地域もあって、情報不足にも悩まされたが、何とか無事に終了した。


SPECIAL THANKS TO:

    中央学院大学旅行研究部の面々(全てにおいて)
    旭岡郵便局局員
    豊田郵便局局長(情報提供)
    日高郵便局局員
    穂別町豊田の横山様(資料提供)
    平取町振内の農家の方(情報提供)
    振内鉄道記念館館長(情報提供)
    工事現場の方(情報提供)
    頭川氏(最新情報提供)

この文章は、中央学院大学旅行研究部機関紙に掲載したものを加筆修正したものです。

富内線跡地の構造物は、1997年に第三沙流川橋梁などが解体される事になりました。
国鉄清算事業団は、今後も跡地の構造物を破壊して、跡地の更地化を大規模に行なうので、この本文に書いた事とは一致しない部分が多くなってきます。早めの調査をお勧めします。