■ガイド 鬼志別〜南稚内間

 鬼志別を過ぎると、いよいよ宗谷丘陵を越える峠越えにかかる。沿線は無人地帯であるうえに、土地利用もなされていないため、撤去や整地の必要のない廃線跡は、線路が撤去された以外は、ほとんど手をつけられていないに等しい。そのため、線路敷だけでなく、98キロなどの距離標や小さな橋梁跡といったアクセントも端々に見受けられる。


 久しぶりに小さな集落が現れると、そこが小石である。ここには、峠越えを控えるだけでなく、宗谷炭田の中では3本の指に入った藤田炭鉱を従えた駅が設けられていた。近郊では最大規模であった豊富の日曹炭鉱に比べると小じんまりとしていたとはいえ、駅からは少々距離のある引込線も敷かれて、町にも活気がみなぎっていた。

 現在の駅跡は、会館が建っているうえに周りも閑散としていて、石炭積出駅があった名残がほとんど感じられないのは寂しい限りであるが、駅跡の脇に置かれている「小石驛」という木製の看板が目につく。私はこれに見覚えがあるなあと思い、後日、鉄道現役時代の写真と見比べると、これは間違いなく改札口の上の線路側に掛けられていた看板であった。

 
小石駅跡
小石駅跡。「望郷」の碑が侘びしさを感じさせる  

 この駅は、炭鉱が閉山となって列車行き違い設備が撤去された後も、次の曲淵までの駅間距離が長いためか、あるいは廃止の少し前まで小石止まりの区間列車が設定されていたからなのか、永らくここで閉塞区間が区切られていて、このために駅員が配置されていた。

 小石から次の曲淵までは、実に17.7キロもあり、昭和52年に宗谷本線の神路駅が廃されて筬島〜佐久間が18キロとなるまでは、在来線における最長駅間距離を誇っていた区間である。

 この間は全くの無人地帯であり、老年期の山地である宗谷丘陵の峠越えらしく、トンネルをまったく要さずに、1000分の12.5の勾配を主体に登り下りする、天北線2つ目の分水嶺越えであった。線路敷はバラストの跡も生々しく残り、途中には保線小屋の残骸らしきものも見受けられる。そして、並行道路である道道138号線が離れていくあたりからは勾配が1000分の25に強められ、列車の速度は落ち込んで、標高131メートルのサミットへ向け、最後の力を振り絞っていた。ただ、現在のこの区間はそれこそ熊に出くわすかもしれないところであり、踏み込まない方がよい。

 それにしても、並行道道に行き交う車の少なさから、小石〜曲淵間の交通の流れはほとんどないようである。鉄道廃止時でも、一部未舗装の箇所があったほどである。現に、天北線全体でもこの区間が一番輸送密度が低く、末期にはわずか300人台しかなかった。急行「天北」の上下列車の通過分を含んでの数値だから、いかに少なかったかが窺えよう。

 
道路標識
曲淵駅跡付近に残る道路標識  

 峠を越えた曲淵の駅跡は、小規模な公園となっていて風情は失われているが、駅前通りだった道を東進すると、踏切跡の近くに「曲淵駅0.4km」とかかれている道路標識が残っている。ここにも炭鉱があって昔は栄えたという事実は、今となってはまったく夢のかなたの出来事のようだ。

 そして、しばらく西進してきた線路跡は、沼川の集落が載っかっている丘陵の麓をなぞるように右に回って、針路を北にとるようになる。ブレーキをかけるよう指示する標識や、除雪車の羽根の上げ下ろしのためと思われる表示など、バラエティに富んだ標識類を目にしながら、カーブを曲がりきると、沼川の駅跡が現れる。ここには、ホーム跡の土盛りに赤錆びた駅名標がぽつねんと建っている。

 このあたりからあたりの視界がパッと開ける。左手には利尻富士を望むことができるとともに、明らかにあたりの植生が変わり、牧草地、あるいは不毛の地のような荒涼とした風景が広がって、いかにも最果てにやってきたという感を強く受ける。天北線の列車も、線形が良くなることもあって、ラストスパートをかけていた区間である。


 樺岡駅跡には、駅前を横断する道路のバス停脇に、駅名標がぽつんと置いてあるだけだが、その次の恵北は、晩年は列車行き違いをしていなかったにもかかわらず、駅舎があった方とは反対側の、いわゆる2番線側のバラストが生々しく残っているのが印象的である。

 やがて、広大な大地の先に大小さまざまな建物のシルエットが大きくなってくると、とたんに潮の香りが漂いはじめ、いよいよ宗谷湾に近づいたことが実感できる。まったく余談ながら、夏至の前後数カ月は、このあたりの海岸から見ると、夕陽が海にどっぷりと落ちる。天北線からみて海は北東にあるものという固定観念が染みついた私には全く意外で、思わず見とれてしまった。

樺岡駅跡
バス停脇に移設された樺岡の駅名標  
夕陽
海に落ちる夕陽(あまり関係なくてごめんなさい) 

 ここで、行く手に海を目の当たりにした廃線跡は、大きく左にカーブし、声問の駅跡が現れる。ここにはホームの残骸が見受けられる。

 声問からの廃線跡は、稚内の市街地という、天北線らしからぬ光景の中を進む。宇遠内の仮乗降場の跡は残っていないが、一部道路化された区間をはさんで、廃線跡は市街地の中の細い裏道となっている。

 彼方に信号灯などの駅の灯が煌々と光っているのが見えてくる。終点の南稚内である。さすがに生きている駅を見るのは久しぶりで、新鮮な感慨があるが、宗谷本線が意外なほど急なカーブで廃線跡に寄り添ってきているのは、ここへと至る鉄道が形成された経緯を表している。

 普通列車で音威子府から3時間余りを要した旅路はさらに北を目指し、全ての列車は次の稚内まで乗り入れていた。



■国鉄天北線あとがき

 この廃線跡は、原生から余り手をつけられていない湖沼群や、北の果てらしい低木が目立つ植生、あるいは広大で長閑な牧草地など、一時的に現地を訪れる旅行者である私たちには、心が洗われるような光景が広がる。いわゆる「いい季節」に行くと、あまりに美しく、日々の日常から遊離した光景に、線路敷設時の悲劇や苦難、あるいは厳冬期の線路保守の苦労など、様々な逸話が幻に思えるほどである。

 しかし、鉄道に関する苦労は一応の終止符が打たれたものの、目の前の現実は今もなお厳しい。北海道は札幌圏への一極集中による都市膨張がますます進む中、反対にその他の地域は旭川でさえ人口減に悩むという構造的社会問題を抱えている。都市部でさえそうなのだから、農村部に至ると問題がさらに深刻であるのは言うまでもない。

 天北線沿線からは少し離れているが、士別市から少し山間部に入ったところの、酪農農家の出身である知己がいうには、付近ではやはり土地を捨てて札幌に出る人が少なくないのだという。冷害がある度に櫛の歯が抜けるように人々が去っていったところもあるといい、自然も厳しいし仕方がないことであると、半ばあきらめ顔である。

 都会の片隅で、のほほんとした生活を送りながら、偉そうなことを言って本当に申し訳ないが、会社の事業所を持ってきたり、地元酪農家と組んで事業を興したりする能力も財力もない、ただの市井の一市民である私たちがこの地域に貢献できることは、直接道北や道東を訪れて泊まるなり食うなりしておカネを落とすことだと思う。

 またいつか、ここを訪れようと思う。

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