鬼志別を過ぎると、いよいよ宗谷丘陵を越える峠越えにかかる。沿線は無人地帯であるうえに、土地利用もなされていないため、撤去や整地の必要のない廃線跡は、線路が撤去された以外は、ほとんど手をつけられていないに等しい。そのため、線路敷だけでなく、98キロなどの距離標や小さな橋梁跡といったアクセントも端々に見受けられる。

久しぶりに小さな集落が現れると、そこが小石である。ここには、峠越えを控えるだけでなく、宗谷炭田の中では3本の指に入った藤田炭鉱を従えた駅が設けられていた。近郊では最大規模であった豊富の日曹炭鉱に比べると小じんまりとしていたとはいえ、駅からは少々距離のある引込線も敷かれて、町にも活気がみなぎっていた。
現在の駅跡は、会館が建っているうえに周りも閑散としていて、石炭積出駅があった名残がほとんど感じられないのは寂しい限りであるが、駅跡の脇に置かれている「小石驛」という木製の看板が目につく。私はこれに見覚えがあるなあと思い、後日、鉄道現役時代の写真と見比べると、これは間違いなく改札口の上の線路側に掛けられていた看板であった。
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| 小石駅跡。「望郷」の碑が侘びしさを感じさせる |
この駅は、炭鉱が閉山となって列車行き違い設備が撤去された後も、次の曲淵までの駅間距離が長いためか、あるいは廃止の少し前まで小石止まりの区間列車が設定されていたからなのか、永らくここで閉塞区間が区切られていて、このために駅員が配置されていた。
小石から次の曲淵までは、実に17.7キロもあり、昭和52年に宗谷本線の神路駅が廃されて筬島〜佐久間が18キロとなるまでは、在来線における最長駅間距離を誇っていた区間である。
この間は全くの無人地帯であり、老年期の山地である宗谷丘陵の峠越えらしく、トンネルをまったく要さずに、1000分の12.5の勾配を主体に登り下りする、天北線2つ目の分水嶺越えであった。線路敷はバラストの跡も生々しく残り、途中には保線小屋の残骸らしきものも見受けられる。そして、並行道路である道道138号線が離れていくあたりからは勾配が1000分の25に強められ、列車の速度は落ち込んで、標高131メートルのサミットへ向け、最後の力を振り絞っていた。ただ、現在のこの区間はそれこそ熊に出くわすかもしれないところであり、踏み込まない方がよい。
それにしても、並行道道に行き交う車の少なさから、小石〜曲淵間の交通の流れはほとんどないようである。鉄道廃止時でも、一部未舗装の箇所があったほどである。現に、天北線全体でもこの区間が一番輸送密度が低く、末期にはわずか300人台しかなかった。急行「天北」の上下列車の通過分を含んでの数値だから、いかに少なかったかが窺えよう。
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| 曲淵駅跡付近に残る道路標識 |
峠を越えた曲淵の駅跡は、小規模な公園となっていて風情は失われているが、駅前通りだった道を東進すると、踏切跡の近くに「曲淵駅0.4km」とかかれている道路標識が残っている。ここにも炭鉱があって昔は栄えたという事実は、今となってはまったく夢のかなたの出来事のようだ。
そして、しばらく西進してきた線路跡は、沼川の集落が載っかっている丘陵の麓をなぞるように右に回って、針路を北にとるようになる。ブレーキをかけるよう指示する標識や、除雪車の羽根の上げ下ろしのためと思われる表示など、バラエティに富んだ標識類を目にしながら、カーブを曲がりきると、沼川の駅跡が現れる。ここには、ホーム跡の土盛りに赤錆びた駅名標がぽつねんと建っている。
このあたりからあたりの視界がパッと開ける。左手には利尻富士を望むことができるとともに、明らかにあたりの植生が変わり、牧草地、あるいは不毛の地のような荒涼とした風景が広がって、いかにも最果てにやってきたという感を強く受ける。天北線の列車も、線形が良くなることもあって、ラストスパートをかけていた区間である。

樺岡駅跡には、駅前を横断する道路のバス停脇に、駅名標がぽつんと置いてあるだけだが、その次の恵北は、晩年は列車行き違いをしていなかったにもかかわらず、駅舎があった方とは反対側の、いわゆる2番線側のバラストが生々しく残っているのが印象的である。
やがて、広大な大地の先に大小さまざまな建物のシルエットが大きくなってくると、とたんに潮の香りが漂いはじめ、いよいよ宗谷湾に近づいたことが実感できる。まったく余談ながら、夏至の前後数カ月は、このあたりの海岸から見ると、夕陽が海にどっぷりと落ちる。天北線からみて海は北東にあるものという固定観念が染みついた私には全く意外で、思わず見とれてしまった。
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