尾上の駅跡を過ぎると、高砂線は山陽電車としばらく併走していた。廃線跡を拡張した道路が途切れると、レールや枕木は撤去されているものの、明らかな線路敷跡が姿を現すようになる(D地点)。そして、山陽電鉄と同じように、徐々に築堤が盛り上がっていって左にカーブすると、ごく小さな橋梁の西側にさらに大きな煉瓦積みの橋台、橋脚を持った樋ノ口橋梁が残っている(E地点)。
すぐ北隣に並ぶ山陽電鉄の鳩里川橋梁と、建設時期が十年と違っていないせいか、まったく同じような構造をした煉瓦積みの橋台、橋脚が並んでいるのが目をひく。
そして面白いことに、両橋梁とも橋脚の北側、つまり川の上流側だけが尖った形、つまり橋脚の断面が五角形をしている。現在橋梁の下を流れるのは小さなドブ川と狭い生活道路だけであるが、その昔は流量の多い、川幅も今よりは太い川であって、橋脚にかかる抵抗を減らすためにこのような構造になったのであろうか。
樋ノ口橋梁跡の先の、パッと視界が広がったところは、すでに河口も近くなって相当川幅が広くなっている加古川の左岸である。ここに架けられていた長大橋梁は、完全に撤去が完了している。
そして、加古川を渡った先の廃線跡は遊歩道となっている。高砂北口駅の跡地は、電鉄高砂といういかにもその地域で2番目にできましたという名前から、「電鉄」の字が取れて、晴れて堂々と「高砂駅」の名をかたっている山陽電鉄駅に通う人たちの放置自転車の洪水に埋もれて、哀れな姿となっている。
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本線(右)と専用線(左)が分かれていた F地点にて。ここには本線の場内信号として 使われた腕木信号機が残されている。
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この先も、高砂駅跡を越えてさらに高砂港駅跡付近まで、線路跡が遊歩道として整備されている。山陽電鉄と分かれて左カーブをし終える、国鉄高砂工場や諸工場に至る専用線が分かれていたあたり(F地点)には、腕木の場内信号機、それに転轍テコ(っていうの?)が集められている。
旅客営業的には終点であった高砂駅は、一面一線の旅客ホームの他に、五本ほどの側線があった。しかし、旅客扱いをする職員は、線内の大幅な合理化が図られた昭和45年という早い時期にいなくなっており、実質は貨物駅のようであった。廃止4年前の職員数は、旅客関係の人員はひとりもいないのに51人もおり、貨物輸送がかなりの規模であったことが伺える。
そんな特徴のあった駅跡は、バス転回用のロータリーをメインとした使われ方がなされている。ロータリーの中には、記念碑と、またまた機関車の車輪が一軸だけひっそりと置かれている。
遊歩道は、この先も高砂港方向へと延びている。これを辿っていくと、次第に人家が少なくなって、臨海工業地帯に近づきつつあることを実感する。
どん詰まりの高砂港駅跡は、何も整備がなされずに放置されていた。柵の向こうに、プラットホーム跡にも見える構造物が残っていた。
高砂線は、線路が敷かれたルートが、周囲の人の主だった流れとは異なっていたとはいえ、沿線人口は決して少なくないだけに、列車運行頻度がある程度多くて、さらに山陽本線と有機的な接続がなされていたら、運命は多少なりとも異なっていただろうにと思う。
播州鉄道が敷設した加古川線グループのうち、結局JRとして残ったのは本線格の加古川線だけであったが、いまだに大型非力の気動車が低規格の軌道をのそりのそり走るという、旧態依然の状態であることに変わりはない。沿線に驚くほどの大規模な工業団地を持つ三木鉄道や、人口5万を擁する加西市を終点に持つ北条鉄道が苦戦しているのも、幹である加古川線が非力であるからに他ならない。
それに対して、加古川線の並行国道である国道175号線は、片側二車線化がかなり進行しているほど良く整備されている道路で、加古川線は沿線住民にとって、すでにライバルにもなっていない状態といえる。ダイヤは加古川口でそこそこの改善が見られるものの、乗客が時刻表を気にせず駅に行って列車に乗れる程度にまでならないと、特に都市近郊の住民には見向きもされない。
それほど諸条件の悪くなかった高砂線が廃止の憂き目にあった分、残った加古川線グループには奮闘を期待したいと思ってしまうのが人情である。加古川口については発展の可能性は小さくないと思うので、沿線自治体が希望している電化をするなりして、活性化が図られることを期待したい・・・と思っていたら、このほど加古川線の電化が決定し、平成17年春の開業を目指して工事が始まった。久しぶりに、加古川線はクルマとの勝負ができる環境に置かれることになったのである。所要時間の予定短縮時分が思ったほどではないのが気にかからないでもないが、これからが楽しみである。
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