■沿革

 もともとこの付近の鉄道網を張りめぐらせた播州鉄道によって敷かれた路線のひとつで、そのために施設のつくりや駅間距離に、私鉄時代の匂いを強く残していた路線であった。播州鉄道グループのなかでも早いほうの、大正2年末に加古川〜高砂口(のちの尾上)間が、翌年に高砂口〜高砂浦(のちの高砂港)間が開通した。

 播州鉄道が運営していた路線すべては、昭和12年に播丹鉄道に譲渡された後、戦時中の昭和18年に国有化された。そのことにより、この区間は国鉄高砂線となった。

 一帯は播磨臨海工業地帯であるため、高砂や高砂港からは8つもの工場に引込線が敷かれたほか、戦後、造兵工廠の跡地にできた客貨車専用の国鉄高砂工場の連絡線にもなるなど、貨物輸送は賑わいを見せたものの、旅客輸送はそれほどでもなかった。というのも神戸・大阪方面、あるいは姫路方面に出るには山陽電車が、加古川に出るにはフリークェント性に富むバス路線が充実していたからである。

 そのため沿線人口は少なくないのに、ここだけは時代に取り残されたかのような静けさを保っていた。それがゆえに、昭和55年に成立した、いわゆる国鉄再建法によって第1次特定地方交通線の選定を受け、同じ播州鉄道出身の三木・北条線は第3セクターとして存続したのに対して、当線は廃止・バス転換の方向へと対照的な動きを見せた。

 昭和59年2月の貨物列車大削減のダイヤ改正の折に、高砂〜高砂港間の貨物線部分が廃止となった。次いで同6月に高い技術力を誇った高砂工場が、最後の工場出場車を送り出した後、12月1日付けで残る加古川〜高砂間が廃された。



■ガイド 加古川〜高砂港間

 現在高架化工事の進む加古川を東へ出ると、加古川線と同じように、いったん山陽線と分かれるようにして左にカーブした後、今度はその加古川線と分かれるような形で右に大きくカーブしていた。

 余談ながら、加古川線から高砂線が分かれる少し先に、同じく右に分岐していたような跡があるが、これは加古川刑務所に至っていた全長3.5キロの専用線の分岐の跡で、この廃線跡は道路として今でもほぼ完全に辿ることができる。

 山陽線を越えるために高さを稼いでいた跡は、今でも緩やかな上り勾配をもった築堤として残っている(A地点)。そして、山陽線をオーバーハングする手前で、線路跡は道路になるものの、山陽線を越える橋梁だけは、高砂線の廃止後16年間もの長きにわたって、鉄道時代のものを流用していた(B地点)。そのため、ここでは道路幅が車がすれ違えないほど狭くなっていて、対向車がいないことを確認してからしか、橋を渡ることはできなかった。

 これは、平成11年から工事が始まった山陽線加古川駅付近の立体交差化に伴い、いずれにしろこの幅の狭い鉄道橋梁は撤去されることになっていたため、たまたま改修や架け替えなどの手にかからずに、運良く残されていたのである。そして、平成13年の秋をもって、山陽線をオーバーハングしていた道路は通行止めの措置がとられ、橋梁部分を中心とする高砂線の名残は撤去されてしまった。

築堤跡
加古川線から分かれて、右カーブしな  
がら高度を稼いでいた築堤跡(A地点) 
山陽線跨線橋跡
山陽線を越えていた橋梁跡は、廃止後16年にわたって残さ  
れ、道路橋として使われていた(B地点、平成13年9月撮影) 

 この先しばらくの廃線跡は、線路敷を拡張した「鶴林新道」という市街地の中の道路となって、鉄道跡らしい趣を微塵も感させぬまま、しかしルート自体は廃線跡に忠実に進んでいく。そして、道路の東側の歩道部分がパッと拡がった、バス停でいうと「市役所東口」の付近にあたるところが、最初の中間駅、野口があったところである。

 ここは私鉄の別府鉄道が分岐する駅であったし、周辺には加古川市関係の諸施設が建ち並ぶなど、立地は悪くなかったのだが、利用者はそれほど多くなく、晩年は無人駅と化していた(もっともそれでも乗降客数は、高砂北口と並んで線内では多かったが)。駅跡自体も敷地は跡形もなく消え失せて、今は記念碑とレール、鉄道台車、駅名標にキロポスト(7.5kmのものだからこれが高砂線のものだとすると、高砂〜高砂港間にあったものということになる)が、申し訳程度に置いてあるのみである。

 次の鶴林寺の駅跡にいたっては何も残されていないが、ここを過ぎると、線路跡の道は国道250号線の高架の下をくぐり、続いて山陽電鉄の下をくぐる(C地点)。この山電との交差地点は、山陽電鉄の橋梁が高砂線が下を通っていた当時の全長が短いままのため、線路跡の道路がここだけ狭くなっている。そして、右カーブを描いた道路の右側に、尾上駅跡の碑と機関車(SLのものではないが)の動輪がひっそりと置かれている。

山電交差跡
山陽電鉄との交差跡は、高砂線の現役時代  
から変わっていないために、線路跡の道路  
が狭くなっている(C地点、南側から撮影)  
橋梁跡
加古川を渡るすぐ手前に、山陽電鉄と  
並んでいた樋ノ口橋梁の橋脚は、川の  
上流側だけ何故か尖っている(E地点)  

 尾上の駅跡を過ぎると、高砂線は山陽電車としばらく併走していた。廃線跡を拡張した道路が途切れると、レールや枕木は撤去されているものの、明らかな線路敷跡が姿を現すようになる(D地点)。そして、山陽電鉄と同じように、徐々に築堤が盛り上がっていって左にカーブすると、ごく小さな橋梁の西側にさらに大きな煉瓦積みの橋台、橋脚を持った樋ノ口橋梁が残っている(E地点)。

 すぐ北隣に並ぶ山陽電鉄の鳩里川橋梁と、建設時期が十年と違っていないせいか、まったく同じような構造をした煉瓦積みの橋台、橋脚が並んでいるのが目をひく。

 そして面白いことに、両橋梁とも橋脚の北側、つまり川の上流側だけが尖った形、つまり橋脚の断面が五角形をしている。現在橋梁の下を流れるのは小さなドブ川と狭い生活道路だけであるが、その昔は流量の多い、川幅も今よりは太い川であって、橋脚にかかる抵抗を減らすためにこのような構造になったのであろうか。

 樋ノ口橋梁跡の先の、パッと視界が広がったところは、すでに河口も近くなって相当川幅が広くなっている加古川の左岸である。ここに架けられていた長大橋梁は、完全に撤去が完了している。

 そして、加古川を渡った先の廃線跡は遊歩道となっている。高砂北口駅の跡地は、電鉄高砂といういかにもその地域で2番目にできましたという名前から、「電鉄」の字が取れて、晴れて堂々と「高砂駅」の名をかたっている山陽電鉄駅に通う人たちの放置自転車の洪水に埋もれて、哀れな姿となっている。

場内信号機跡
本線(右)と専用線(左)が分かれていた  
F地点にて。ここには本線の場内信号として  
使われた腕木信号機が残されている。

 この先も、高砂駅跡を越えてさらに高砂港駅跡付近まで、線路跡が遊歩道として整備されている。山陽電鉄と分かれて左カーブをし終える、国鉄高砂工場や諸工場に至る専用線が分かれていたあたり(F地点)には、腕木の場内信号機、それに転轍テコ(っていうの?)が集められている。

 旅客営業的には終点であった高砂駅は、一面一線の旅客ホームの他に、五本ほどの側線があった。しかし、旅客扱いをする職員は、線内の大幅な合理化が図られた昭和45年という早い時期にいなくなっており、実質は貨物駅のようであった。廃止4年前の職員数は、旅客関係の人員はひとりもいないのに51人もおり、貨物輸送がかなりの規模であったことが伺える。

 そんな特徴のあった駅跡は、バス転回用のロータリーをメインとした使われ方がなされている。ロータリーの中には、記念碑と、またまた機関車の車輪が一軸だけひっそりと置かれている。

 遊歩道は、この先も高砂港方向へと延びている。これを辿っていくと、次第に人家が少なくなって、臨海工業地帯に近づきつつあることを実感する。

 どん詰まりの高砂港駅跡は、何も整備がなされずに放置されていた。柵の向こうに、プラットホーム跡にも見える構造物が残っていた。



■国鉄高砂線あとがき

 高砂線は、線路が敷かれたルートが、周囲の人の主だった流れとは異なっていたとはいえ、沿線人口は決して少なくないだけに、列車運行頻度がある程度多くて、さらに山陽本線と有機的な接続がなされていたら、運命は多少なりとも異なっていただろうにと思う。

 播州鉄道が敷設した加古川線グループのうち、結局JRとして残ったのは本線格の加古川線だけであったが、いまだに大型非力の気動車が低規格の軌道をのそりのそり走るという、旧態依然の状態であることに変わりはない。沿線に驚くほどの大規模な工業団地を持つ三木鉄道や、人口5万を擁する加西市を終点に持つ北条鉄道が苦戦しているのも、幹である加古川線が非力であるからに他ならない。

 それに対して、加古川線の並行国道である国道175号線は、片側二車線化がかなり進行しているほど良く整備されている道路で、加古川線は沿線住民にとって、すでにライバルにもなっていない状態といえる。ダイヤは加古川口でそこそこの改善が見られるものの、乗客が時刻表を気にせず駅に行って列車に乗れる程度にまでならないと、特に都市近郊の住民には見向きもされない。

 それほど諸条件の悪くなかった高砂線が廃止の憂き目にあった分、残った加古川線グループには奮闘を期待したいと思ってしまうのが人情である。加古川口については発展の可能性は小さくないと思うので、沿線自治体が希望している電化をするなりして、活性化が図られることを期待したい・・・と思っていたら、このほど加古川線の電化が決定し、平成17年春の開業を目指して工事が始まった。久しぶりに、加古川線はクルマとの勝負ができる環境に置かれることになったのである。所要時間の予定短縮時分が思ったほどではないのが気にかからないでもないが、これからが楽しみである。

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