■沿革

 現在の山陰線は、もともと松江から宍道湖の北を通り、大社を経由する、現在の一畑電鉄のルートの形で西へ延びる計画であった。ところが、沿線の平田の人々の、蒸気機関車の火の粉で火事になるという反対運動(この手の話はよく聞くが、実際に火事も少なからずあったらしい)や、大社の人々の終点でなければお客が通過してしまうという反対もあって、山陰線は宍道湖の南側を通って出雲市に達する、大社を通らないルートとされた。

 ただ、神々の里である出雲大社の参拝のための鉄道建設自体は要請されていて、明治43年に当時の鉄道院総裁であった後藤新平がここに参拝した折に、途中の悪路に悩まされたこともあって建設が本決まりとなったという。開通は明治45年のことであったが、出雲大社の参詣客がそれまでの3倍になったというから、当時の鉄道の威力は現代に生きる我々の想像をはるかに超えるものがある。

大社駅舎
今なお威風堂々、大社駅舎  

 この路線を特に際だたせていたのは、黒を基調とした瓦屋根をもった白壁木造大社造りの終点大社駅舎であった。明治後期から昭和初めにかけて、全国の寺社仏閣の最寄り駅によく見られた社殿風のつくりの駅舎の一つで、狭くて不便と不評だった初代駅舎を大正13年に建て替えたものである。一般的には、明治神宮や東京国立博物館を手がけた伊東忠太の設計といわれているが、実際は鉄道省工務局建築家の技師、曽田甚蔵が設計し、伊東は助言者であったという説が今では有力である。平屋建築の堂々とした駅舎は、建築学上から見ても貴重なものである。

 最盛期には東京からも直通列車が入りこみ、団体臨時列車も年間280本を数えるほどであったが、ここもモータリゼーションの進展とは無縁でなかった。出雲大社の参詣客の足がマイカーや観光バスになるにつれ、年々乗客は減少し、どこにでもあるようなローカル線と化していった。ただ、末期でも初詣客の輸送のある1、2月で1年の収入の半分を稼ぎ出していたというから、出雲大社の参詣客輸送が大きな要素であったことは相違なかった。

 昭和40年代の輸送密度こそ、4000人/キロ・日を越えることも多かったのだが、国鉄再建法の基準期間であった昭和52年〜54年度の平均輸送密度は2661、昭和60年度に至っては1435となるほどの凋落ぶりで、昭和60年3月改正からは、急行だいせんの大社入り込みもなくなり、単行気動車が往復するだけの寂しい路線と化した。

 そして、特定地方交通線の第3次廃止対象線区に指定されたのを受けて、JR移行後の平成2年に廃止された。昭和58年10月の白糠線(北海道)から始まった特定地方交通線の廃止としては、鍛冶屋線、宮津線とともに最後の廃止線であった。



■ガイド 出雲市〜大社間

 この路線は、特別景色の良いところがあったり、トンネルがあったりするわけでなく、出雲平野の中をただただ進むだけであるが、特筆されるのは今でも駅跡がすべて残っていることであろう。もっとも、かえって現役である起点の出雲市駅の方が、大社線があった当時の姿をとどめぬほどに変貌してしまった。

 というのは、もともとの駅構内の南側に広大な敷地を占めていた客貨車区、そしてクラシックな機関庫のあった機関支区等、多くの留置線があったスペースがまるごと撤去され、その跡地を使って駅が高架化されたのである。駅本屋やプラットホームがあったあたりは、とりあえずといった形で広大な駐車場になっており、昔の姿を知る者(急行だいせんの停車時間に、ホーム中ほどの出雲そばの立ち食いに走ったことが懐かしい・・)にとっては、まさに目を疑うほどの変わりようである。こんなに土地があるのだから、もう少しホームの幅を広くとったら良かったのにと思うほどの、狭いホームの2面4線の新しい駅からは、堂々たる陣容を誇った駅の名残は微塵もない。

 大社線跡のスペースはこの高架化工事の折に、仮線の線路が一時復活したものの、今では道路拡幅に使われたり、空き地になっていたりしている。基本的には隣に高架橋が建っているために、すぐ南側に並行していた一畑電気鉄道立久恵線(旧出雲鉄道、昭和39年休止、翌年廃止)跡もろとも、当時の面影はないといえる。

 山陰線を左に見送っていたあたりから、ようやく廃線跡らしくなってくる(A地点)。どちらかというと山陰線の方が左に分岐しているように見えるが、出雲市以西の山陰線(当時の名称は浜田線)の開通は、大社線開通の翌年のことである。

 最初にゆるく右にカーブしてからは、築地松(ついじまつ)とよばれるこの地方特有の屋敷森をもつ家々が散見される中を、まっすぐ進んでいく。線路跡は、レールや枕木が撤去されても道床は残る箇所が多かったのだが、近年舗装された区間がどんどん伸長し、今ではこの山陰線から分かれるところからいきなり味気ない舗装路と化している。

出雲高松駅跡
プラットホーム跡の長い出雲高松駅跡  

 国道9号線の跨線橋をくぐって、黄色地に斜めの黒線の入った「停車場接近標」という標識が見えてくると、最初の中間駅であった出雲高松の駅はまもなくである。

 今でも旧駅前にはタクシーの車庫があって、それらしい雰囲気を漲らせているとおり、もともとは列車の行き違いができた停車場であるが、この駅の開業は大社線の開通から半年近く遅れている。というのも、地元の高松村では、大社線に途中駅が設けられる予定がないことを建設途中に知り、停車場敷地の寄付を村会で決議をしたうえで鉄道院と交渉して、ようやく開設されたのである。

 当初の駅名は朝山であったが、昭和7年の5月に地元念願の改名がなり、出雲高松となった。これは、同年12月に出雲今市(現出雲市)〜出雲須佐が開業した大社宮島鉄道(のちの一畑電気鉄道立久恵線)に、上朝山という停車場が置かれたことと無縁ではなかろう。ちなみに、上朝山はのちに朝山を名乗ることとなる。

 この出雲高松の駅跡には、いまだに島式のホームと駅名標の枠、そしてホーム上の待合い小屋が残っているが、ホームの長さがこの線の特徴を示すかのように、ただの中間駅にしては驚くほど長い。廃線跡探訪をする私たちが見るホームは全体的に短いものが多いなか、異彩を放っている。

 右側に浜山中学校が見えると、再び道床が顔を出すようになる(B地点)。廃線敷はこの中学校の運動場の外側を削るように右にカーブするが、このカーブが大社線に乗車していて唯一、曲線区間を実感できたカーブであった。ここを曲がりながら築堤をのぼると川に突き当たるが、河川改修の影響もあってか、架かっていた新内藤川橋梁は完全に撤去されているために、ここだけは迂回をしなければならない(C地点)。しかし、対岸に目をこらすと、停車場接近標が見えている。すでに、荒茅の駅の近くまで来ているのである。

荒茅駅跡
駅名標までそのままで、生々しい荒茅駅跡  

 その荒茅駅は、昭和29年に付近にできた陸上自衛隊の駐屯地の連絡駅の意味あいも込めて、昭和33年に開設された、当初からホームだけの無人駅であった。ここはホームのみならず、待合室に2枚の駅名標までほぼ完全に現役当時の姿をとどめており、のどかな田園風景の中、あまりにもそのままの姿で黙然と佇んでいるのは衝撃的ですらある。

 それまで田圃が多くて分かりづらかったこともあるが、この荒茅駅跡のあたりから、いつのまにかまわりの畑の土が砂地になっていて、もともと付近一帯は砂丘地帯であったことがうかがえる。そして、6kmの距離標を過ぎたあたりの浜根踏切跡からは、廃線跡は新しい広い道路になっているが(D地点)、その道路が左右に分かれるともうすでに大社駅の構内跡である。

 建設当時、あまり出雲大社に駅が近いと門前町が寂れるという理由で、少し離れたところに駅が置かれることとなったのであるが、それを何処にするかで各町の誘致が激しく、大変もめたそうである。これが、参道の勢溜(せいだまり)から見下ろした、またまた後藤新平の、「ここがよい」という一言で、出雲大社から1.6km離れたこの位置に決定されたといわれる。まあいずれにしろ、後藤新平が大社線の形成に多大な影響を及ぼしたことだけは間違いなさそうである。

 あの駅舎は、現在もそのままの姿で威風堂々と建っている。しかも昼間は待合室の中に立ち入って、古き良き時代を充分に感じることができる。等別に分かれていたといわれる待合室や、遠く九州の駅名が読みとれる旧出札口の切符ケースなど、間違いなくすべてが貴重な文化財である。そして、ここは駅舎だけでなく2面のホームの長さのぶんだけの構内がそのまま残されており、近所の子供たちの遊び場や犬の散歩場になっている。

大社駅跡1
大社駅跡。構内跡の中心部は駅舎のみならず、レール  
からホームその他の施設まで、そのまま残されている  
大社駅跡2
思わず襟を正してしまう駅舎の内部。 
平屋構造であるため、吹き抜けが心地よい  

 JR化後に廃止されたにもかかわらず、民営化前に廃止の方針が決まっていたせいか、構内の施設はすべて国鉄時代のままである。駅の規模も主要駅のそれでどっしりしており、すべてがなつかしく、なぜかゆったりと落ちつく。特に、自光式の駅名標はあのなつかしいモノトーンのそれで、カラフルで現代的なJR各社の駅名標を見慣れた目には、かえって新鮮に映る。

 大社線はどうしても旅客輸送の面に目が行ってしまうが、昭和30年代中盤の全盛期には、貨物輸送も活発であった。短い専用線を敷設した東洋膏板の耐火ボード輸送が一ヶ月に2000トンの取扱いがあったり、構内に集荷所を建て、臨時列車を仕立てて出荷したブドウ輸送も、20〜25両、多い日には30両もの貨車が、いっぺんに北九州に向かっていたという。



■国鉄大社線(JR西日本)あとがき

 私は所用で大社の町に泊まったことがあるが、町を探索していて気づいたことがある。それは、町の規模に比べて異様に理髪店が多いことである。お参りの前に髪を整える人が多いからなのかどうかは定かではないが、こんな発見があるから街歩きは楽しい。

 そんな大社の町のシンボルの一つである大社駅舎は、いまだに訪れる人が少なくない。駅舎の中の旧待合室には来訪者名簿があって、全国各地の人がそれぞれの思いを綴っている。

 それにしても、大社駅跡が現役当時そのままの姿であるのは称賛に値する。現在の姿が最終的な保存の姿かどうかは分からないが、普通なら駅舎を奉りあげて付近を公園化したりしそうなところを、駅舎とともにあった構内もろともそのまま「おいておく」のは、お金をかけない消極的な無策の放置では決してない。積極的なまことに意義のある保存方法である。

 大金をかけて整備して、公園にしたり立派な碑を建てたりするよりは、このように「そのままの姿でおいておく」方がよっぽど地域の近代史や交通史の記録になる。時代が時代だけに、安全面などの問題もあるのかもしれないが、このようなやり方が多くなることを願ってやまない。ただ大社駅跡の場合、できることなら構内の端の分岐器のあたりまでそのまま残しておいたら完璧であったが、まあ贅沢を言うときりがないというところであろうか。

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