■ガイド 鳳来寺〜三河海老間

 鳳来寺駅跡からの廃線跡は県道に吸収されているが、駅跡から400mほど進んだところで、県道から左側に分岐する小道に短いトンネル穴が開いていることからも明らかなように、ここからはこの小道が廃線跡となる。そのまま進むと、キャンプ場の敷地の中で、橋桁ごと鉄道時代のものを利用した橋梁があり、さらに奥には再びトンネルが口を開けている。だが、少々長かったこのトンネルには残念ながら通行禁止の札が架けてあるので、この先に歩を進めるためにはキャンプ場の脇から再び県道に戻らなくてはならない。

 県道の峠を越え、S字カーブを下っていくと左手に鳳来寺小学校が見えてくる。この小学校への入り口が交差点になっていて、大栗平バス停があるが、このバス停の本長篠方面行きの待合小屋の裏側に、明らかな廃線跡の路盤がある(E地点)。

 ここから本長篠方向に遡っていくと、今通ってきた県道の旧道、そして現県道を続けざまにくぐる。廃線後かなり経ってから築かれたこの現県道が、もう人さえも通らないであろう廃線跡に律儀に穴を開けてくれていることには感銘するが、逆にこの穴から先の路盤が自然に還っているため、先ほど通れなかったトンネルの田口口まで行き着くのは困難である。

 大栗平バス停(先ほどのE地点)からの廃線跡は歩行者・自転車専用道となっている。道にはアスファルトが敷きつめられていて面白味には欠けるが、木立の中に描かれた緩やかな右カーブは間違いなく鉄道跡のそれである。

 左手に集落を見下ろしていたこの道の高度が少しずつ下がり、鉄道時代の橋桁をそのまま利用した橋梁を過ぎると、玖老勢(くろぜ)の駅跡である。駅舎があった位置は消防団の詰所になっているが、農業倉庫や小広い広場がある周りのレイアウトはまさに駅跡を実感させる。脇にある敷地には、今も豊鉄の子会社の所有である旨の看板が建っている。

 ところで、玖老勢の手前の廃線跡から見える景色を眺めても、あるいは付近の地形図を見ていても、飯田線沿線からこの玖老勢まで線路を敷くのは、今まで辿ったような幾つものトンネルでやっかいな山越えをするよりは、大海あたりから豊川〜海老川沿いを北上するルートのほうが明らかに楽で、建設費用も節約できたはずという印象を受ける。実際、当初の計画では、豊川鉄道の長篠(現大海)から海老川沿いに玖老勢に達するルートが念頭に置かれていたという。

 しかし、会社設立時に株主になる予定だった人の中に、払い込み不能になる例が少なからずあり、資金が不足する懸念がもちあがった。そこで、名刹鳳来寺の門前を通ることによって鳳来寺の、そして鳳来寺鉄道の鳳来寺口(現本長篠)を接続駅にすることによって鳳来寺鉄道の出資を取り付けることを主目的に、この区間のルートを変更、同時に動力も当初の蒸気の予定を電気に変えたという。

 玖老勢の駅跡を過ぎ、右カーブを切ってからの廃線跡は、基本的に県道に吸収されている。途中、三河大石駅跡付近の県道右脇に大きな岩があるが、これは付近の山から転がり落ちてきた「大石」という名の転石であり、これが現在のバス停の名のもとになった旨の看板が建っている(F地点)。言うまでもなく鉄道駅の名の由来でもある。また、この大石の南側の旧道との交差部は、全線で3カ所あった有人踏切の跡でもある。

双瀬トンネル
玄武岩状(?)の模様が美しい双瀬トンネル跡 

 三河大石駅跡を過ぎて間もなく、左に分岐していく舗装道がある。海老川を渡っていた橋梁は掛け替えられているものの、ここからはこの道が廃線跡となる。

 趣のあるカーブや切通しをくぐりながら快適に進んでいくと、次の三河海老までの間にあった2本のトンネルもそのままの姿で残されている。特に最初にある双瀬(ならぜ)トンネル(G地点)は、トンネルの田口方が大きな玄武岩状(?)の一枚岩になっていることもあって、鉄道現役時代には多くの写真が残された場所であったが、今でも雰囲気は当時と変わっていない。

 もう一本短いトンネルをくぐり、築堤の上を進んで橋梁跡を過ぎると、廃線跡の道は新しい建物に遮られてしまうが、ここはすでに三河海老駅の構内跡である。この駅は2面3線のホームに加えて貨物の側線までもっていた本格的な「停車場」であり、車庫や変電所もあった。そしてポツンとバス停の看板のある付近の地面をよく見ると、駅舎の土台跡が柱の跡もなまなましく残っており、駅前だったあたりの道や町並みの風情も当時を彷彿とさせる。



■ガイド 三河海老〜三河田口間

 三河海老駅跡を過ぎ、再び上りがきつくなってくると、ホームとトイレ小屋がひっそりと残る滝上の駅跡に着く。駅跡の奥にはトンネルもあるが、通行は不可能であるため、やむなく廃線跡を呑み込んだ県道に廻ると、両側に山が迫ってきていよいよ峠越えの雰囲気が増してくる。

 すると、行く手に立派なトンネルが見えてくる。これが田口線中で最長であった稲目トンネルの跡で、田口線の廃線の翌年から、しばらく豊鉄バス専用道として使われていたが、その後、地元の要望もあって県が買い取り、改修拡幅した上で昭和54年に歩道付き2車線の県道トンネルとして再開通したものである。

 稲目トンネルは、愛知県下での鉄道トンネルとしても最長を誇ったトンネルで、長さは1510mにも及んだ。当時としては最高の技術を要した測量は宮内省が担当し、ドイツ製の測量機械を使用、また工事にも最新鋭のコンプレッサーが持ち込まれたといわれる。

 この稲目トンネルを出てすぐのところにあった短いトンネルは開削・切通し化されており、続く第一寒狭川橋梁も立派な道路橋に生まれ変わっている。この橋梁を渡ったところが、西側の谷に分け入る森林鉄道の分岐駅でもあった田峰(田峯)駅の跡であるが、残念ながら往時の面影は殆ど留めていない。

 ただ面白いことに、ここにある豊鉄バスのバス停の看板には「田峰」、町営バスは「田峯」、そしてそばにあるJAや郵便局は「段嶺」という字が使用されており、同じ地名に3種の文字の割り振りがある。同一地名に2種類の漢字があてがわれている例はしばしば目にするが、3種類も使われるのは珍しい。

 なお、この付近には2本の古びたトンネルがあり、悪い癖で「ドキッ」としてしまうが、駅跡の北方にある穴の大きい1本は旧国道のトンネル、そして駅跡の西側にある廃トンネルはここから分岐していた森林鉄道のものである。この田峯鰻沢および田峯栃洞線と呼ばれた森林鉄道跡は小原輝昭さんが詳しい調査をされているので、興味のある方はそちらを参照していただきたい

 田峯駅跡の先にあった第二寒狭川橋梁もまったく跡は認められないが、その先の廃線跡は、近くにある小さな橋を渡った先の、細い未舗装道路として残っている。ただし、この道はすでに廃道となっており、途中で行き止まりとなるため通り抜けることはできない。

 私は試しにこの道の出口にあたる長原前駅跡付近から逆行し、なんとかこの区間にあった2本のトンネルのうちの北側の方(名称は第二清崎トンネル?)にたどり着いたが、トンネルの田口方も本長篠方も脇からの土砂崩れにより半分埋もれていて、そこから本長篠方面はすでに自然と帰していた。もっとも、トンネルの中は人が殆ど立ち入っていないこともあってか、この鉄道の数あるトンネル跡の中で一番道床跡も生々しく、現役当時の匂いを強く残していたが・・・。

 長原前駅跡から先の廃線跡は国道となっているが、現在鉄道跡のルートを辿る豊鉄バスは、この付近から国道を離れ、旧集落を通っているため、清崎駅跡は現在のバス停からは遠く離れた場所に位置する。ここには廃線後腕木信号機と駅名標が並んで建てられていたが、残念ながら今では撤去されてしまっている。しかし、駅前通りであった道が、斜めに接する敷地の形は駅跡であることを彷彿とさせる。

 清崎バス停付近で国道は右斜め方向に曲がるのに対し、誰が見ても明らかな廃線跡の橋梁が真っ直ぐ伸びている(H地点)。ここから終点の三河田口駅跡までの田口線は主に寒狭川沿いすれすれを走っていたが、現在でもその雰囲気はそのままの設楽町道となっている。

 この寒狭川はかなり透明度が高くて美しく、この付近で予定されているダム工事の関連なのか、いくつかの巨岩に赤ペンキで数字が殴り書きされていることを除けば、気持ち良く散歩することができる。

 この廃線跡の数十kmほど北方にある、田口線と同じような性格を持った北恵那鉄道の廃線跡が、これまた同じような風光明媚な渓谷美の中をトンネルなしで通っているのに対し、こちらは多くのトンネルによって終点三河田口を目指していた。ただ、この区間は前述のように、昭和40年秋の台風による被害のため、復旧されることなく一足先に休止された区間でもある。

第四寒狭川橋梁
通称「高鉄橋」と呼ばれた第四寒狭川橋梁は 
当時の姿のまま今も利用されている 

 まず鉄道時代の雰囲気を残す第三寒狭川橋梁跡を過ぎると、すぐに右カーブを曲がりながらトンネルとなる。このトンネルはかなり涌水が激しく、トンネルの中に簡易の屋根を付けて通行する人や車両の便を図っているのだが、それに水があたることによって薄気味悪い音を立てている。

 トンネルを抜けると、だんだんと旧伊那街道でもある国道257号線を走るクルマやトラックの音が遠のく。そして、第一入道ヶ嶋トンネルをくぐると天空に突き出すかの如く高い橋梁の上になる(I地点)。これが通称高鉄橋とも呼ばれた第四寒狭川橋梁の跡で、第三橋梁と同様、こちらも鉄道時代の橋梁をそのまま利用している。

 橋梁を渡り終え、すぐさま第二入道ヶ嶋トンネルをくぐると、ここからは寒狭川を左に見ながらの行程となる。この付近はシーズンには鮎釣り客で賑わうところで、至る所に釣り場名の表示とそこへの取り付け道が見られる。

 現に田口線も鮎釣りシーズンには釣り客のために、鮎淵という臨時乗降場を設けていた。町道に入ってから四番目の大久賀多第一トンネルをくぐった付近に同名の釣り場があり(J地点)、この付近に臨時乗降場があったのではないかと思われる。

三河田口駅舎跡
廃屋と化した三河田口駅舎跡、
左側に旅客用ホームがあった 

 まったくの無人地帯をいくつものトンネルをくぐりながら進んでいくと、やがて広い敷地のある場所があり、その先に一軒の廃屋が道路に埋もれるようにして眠っている。これが終点三河田口の駅舎そのものである。脇には電柱が一本だけ残っているが、近くにある家屋にも人が住んでいる気配は感じられない寂しいところである。

 ここから田口の集落へは、徒歩だと30分近くも要するため、鉄道があった頃には全便に対してではなかったものの接続バスの便があったという。そのため、乗客の多い朝の電車では、のどかな終着駅を前にして、乗客が早々と出口に並んでバスの座席を確保するための「闘い」が繰り広げられていたという。

 ここからもさらに山奥に向かって田口椹尾および田口本谷線という2本の森林鉄道が出ていたが、これも小原輝昭さんが探索をされているので御参照いただきたい。

 田口の町は盆地状の地形に位置するが、この集落を見下ろすようなところに奥三河郷土館がある(K地点)。ここには田口線の廃線後、しばらくの間田峯駅跡に置かれていた田口線の電車モ14が移設保存され、車内には様々な資料も展示されている。探索の最後を締めくくるにふさわしい場所である。



■豊橋鉄道田口線あとがき

 現役当時、「3フィート6インチ(1067mm)軌間の森林鉄道」との異名をとったこの鉄道は、24本のトンネルを遺した。そのうち20ものトンネル跡が、現役当時の風情を強く残しながら現存しているというのは、全国に廃線跡多しといえども珍しく、非常に貴重な存在の廃線跡といえる。

 これらのトンネル跡の大半は、付近の情勢から見てもこの先も安泰であると思われるが、行く末が案じられるのは、清崎以遠の設楽ダム建設予定区間である。現在はダム建設に向けての調査や測量が行われ、事業の妥当性が社会的に議論されている段階であるが、建設が本決まりになると、この区間の廃線跡は決定的な打撃を受けると思われる。というのは、ダムによる水没が仮に北半分にしかなかったにしても、残りの区間のダム建設車両通行道路が廃線跡そのままの1車線道路でよいはずはないわけだからである。

 思いのほか廃線跡が舗装道化されている区間が多かったため、私は全線踏破後かなりくたびれてしまったが、数多くの素堀りのトンネル跡を見ることができることもあり、是非とも徒歩でじっくりと訪れてほしい廃線跡である。ただ、並行道路を走る路線バスは、田口の集落にあるバスセンターを基地としている関係からか、本長篠方面行きの終バスが早いので注意を要する。

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