
第1次調査(1995年09月05日)
第2次調査(1995年12月06・07日)
第3次調査(1996年09月01〜12日)
第4次調査(1998年10月23日・10月26日〜11月06日)
※本文中に登場する橋梁の名称は、極力部内の名称で統一した為、
例えば河川を渡る橋梁の名称は実際の河川の名称と異なる場合がございます。予めご注意ください。
ただし、部内での名称が判明しなかった橋梁については、例えば「○○」橋梁とか「○○跨線橋」といった具合に区別をつけてあります。
1:深川〜鷹泊※この区間のトンネルは崩落する恐れがございます
深名線の列車はかつて5番乗り場から発着していたが、現在はない。末期に留萠本線(※当時)と共用していた4番乗り場も、現在は留萌本線の列車が発着している。
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| 円山駅 遠景(第3次調査時) |
深川の駅を出ると、水田地帯を抜けながら堺川に架けられた第1一已川橋梁を渡っていたが、第4次調査時には水田地帯の路盤は撤去され、橋梁も撤去直前であった。水田の中を抜けて堺川の橋梁(第2一已川橋梁;第4次調査時には撤去済み)を再度渡ると、元仮乗降場の円山駅のホームがあったが、第4次調査時には石造りの土留めが破壊されていた。円山駅の待合室は、現在JRバス深名線円山バス停の待合室として移動し、転用されている。
多度志峠の途中には多度志トンネルがあったが、並行する道道857号が改良工事中だった為、調査不能であった。ただ、情報によると、道道の改良工事によって多度志トンネルの一部が道路トンネルとして流用され、多度志側の出口の部分が造り直されていたそうだ。なお、雨竜線建設概要によれば、トンネルは煉瓦を積み上げたりコンクリートを流して固めるのではなく、コンクリートブロックを積み上げて造られたそうだ。
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| 多度志駅 全景(第3次調査時) |
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| 宇摩駅 全景(第3次調査時) |
峠を下ると多度志川橋梁を渡っていたが、第4次調査直前の平成10年10月には撤去作業が完了していたそうだ。道道98号の踏切を渡って水田地帯を進むと上多度志駅があったが、平成07年09月03日の最終上り列車が通過した後に全て撤去され、翌日からバスの転回場となった。駅周辺には商店1軒と簡易郵便局1軒を中心とした集落がある。
多度志の市街地に突入すると多度志駅があったが、第4次調査時には撤去されていた。
平成07年08月に待合室が撤去された元仮乗降場の宇摩駅のホームは、平成10年春頃に完全に撤去された。また、右手にあった幌成駅の待合室は、個人が国道沿いに移動して使用している。なお、第4次調査前に構内を横切る道路が新設され、ホームなどは撤去されたようだ。
幌内川橋梁を渡ると右手に下幌成駅のホームがあったが、平成09年10月から平成10年春にかけて撤去された。幌内川橋梁は平成10年08月頃から撤去に着手し、第4次調査時には撤去作業も大詰めを迎え、橋脚の基礎部分を撤去しているところであった。鷹泊駅の駅舎は、第4次調査時には倉庫として使用されていたので、当分の間、駅舎の撤去はないと思われる。
2:鷹泊〜幌加内※この区間のトンネルは崩落する恐れがございます
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| チカップポツ川橋梁 全景(第4次調査時) |
沼牛駅までの区間はチカップポツ川橋梁を渡りつつ坂をだらだらと登り、幌加内トンネルをくぐって幌加内峠を越えていた。チカップポツ川橋梁は、JRバス鷹泊貯水池バス停の先に架かっている国道の知呂布橋の右手奥にあった。この橋梁は、深名線深川〜幌加内間に架けられていた橋梁の中で一番規模が大きかった。
その後、国道の「鷹泊跨線橋」が上を跨いで幌加内隧道に突入していた。幌加内トンネルは、第3次調査時には柵でふさがれているだけだったが、第4次調査時には入口(深川側坑口)だけが土嚢でふさがれていた。隧道は、建設概要によれば「本工区中最も難工事」で、導抗の貫通には、総実動日数で「五百九拾五日」かかったそうだ。
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| 幌加内トンネル 深川側坑口(第3次調査時) |
北海道新聞によれば、深川市は平成9年7月に、一括撤去を条件にして枕木・線路の公売を行ったそうです。
この公売に落札した株式会社カナモトは、再利用を目的として線路などを東南アジア方面に運ぶそうです。(※新聞掲載当時)
幌加内トンネルを抜けると、かつては小さい沼を右手に見ながら平地に下っていた。白樺の木を見つつふもとへ下り、国道の右側に出るとまもなく、沼牛駅が右手にあった。沼牛駅は、営業当時から駅舎が老朽化していたが、まだ残っており、第4次調査時には倉庫として使用されていた。
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| 幌加内駅 構内 名寄方(第3次調査時) |
沼牛駅があった下幌加内の辺りからは、水田に混じって幌加内町名産のそばの畑が目立ってくる。幌加内川橋梁を渡って道道72号を横切るとすぐ右手に元仮乗降場の新成生駅があったが、平成09年07月から08月にかけて撤去されたそうだ。
幌加内駅は現在、バスの待合所として使用されているが、町の有志達の手によって手入れされてデコレーションされており、何もなくて殺風景であった現役の頃より駅が生き生きとしている。なお、平成09年08月の第3週には、上りホームと便所も撤去されたそうだ。
北海道新聞によれば、幌加内駅舎は、平成12年03月に火災で焼失したそうです。
以前から撤去の危機に遭いながらも生き延びてきた駅舎が、このような最期を迎える事を、誰が予想し得たのだろうか。嗚呼・・・
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3:幌加内〜政和
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| 上幌加内駅(第3次調査時) |
元川橋梁、第2元川橋梁、第3元川橋梁を渡って水田の間をほぼ一直線に進むと、左手に元仮乗降場の上幌加内駅があった。上幌加内駅は、第3次調査時にはホームと待合室が残っていたが、その後、ホームの一部と待合室は撤去されて、停車場接近標と呼ばれる、駅名が書かれている黄色い標識がホームに設置された。
第1雨竜川橋梁と、雨煙別川橋梁(第3次調査後に撤去)を渡った先に雨煙別駅があったが、廃止になる前になくなった。雨煙別駅跡を過ぎ、国道の旧ルートの踏切を過ぎると第2雨竜川橋梁を渡っていたが、第2橋梁は、第4次調査時には桁の脇に設置されている歩道(橋側歩道)が破損していた。
この辺りから線路跡は国道からかなり離れて跡地の様子はうかがえなくなるが、列車はかつて、森の中へと突入していた。国道から再び跡地が見えるのは、国道の右手に雨竜川が寄り添う頃である。雨竜川の対岸に目を凝らせば、対岸の崖に落石防止用のコンクリート擁壁(落石止擁壁)や緑色に塗られたフェンス(落石防止柵)が見えるはずだ。かつて、列車が走っていた頃は、左手に雨竜川をちらちらと見ながら崖と雨竜川の間を縫う、スリリングな光景が展開された。
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| 慰霊碑(第4次調査時) |
建設概要によれば、「五二粁五四五米附近は地質極めて不良で」あったそうだが、実際、第4次調査時には平成10年の台風と長雨で法面が崩壊し、この一帯の地質が極めて不良である事を物語っていた。
かつて、列車はこの先で神居川橋梁(旧称 神居陸橋)と第3雨竜川橋梁を渡っていた。これらの橋梁は共に列車の名撮影地であった。この第3橋梁を渡った線路際(55.92km付近)に、開通を待たずして犠牲になった方の慰霊碑がある。建設概要の写真説明によれば、その人は主任監督者で、雪解けで増水している雨竜川に転落して殉職されたそうだ。
第3雨竜川橋梁の先で国道の旧ルートの踏切を渡ると、一線川に架けられたホロカウリベツ川橋梁を渡っていた。まもなく左手の奥の方に政和温泉ルオントの建物が見えるが、そこには元仮乗降場の政和温泉駅があった。駅は右手にあったが、跡方も無い。
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住宅に転用された政和駅の「番犬」(第3次調査時 ※当時の所有者の許可をいただいて撮影しております) |
浅瀬川橋梁(撤去済)を渡って政和の集落が見えてくると政和駅に至っていた。駅舎は農業をする為に東京方面から移住した方の住宅になっていたが、最近、町内の別の場所に転居されたそうだ。
一説によれば、住宅の周りをうろつく大勢の方々にうんざりして転居したとか。天につばを吐くような事かもしれないが、皆さんも常に跡地での行動に注意すべきである。
4:政和〜朱鞠内※この区間のトンネルは崩落する恐れがございます
さて、政和駅を出るとまもなく、五線川橋梁を渡っていた。60キロ地点を過ぎると、十三線川を渡るポプウナイ川橋梁があったが、平成07年末から翌年にかけて、雪で構造物が危険な状態となった為、平成08年の夏前に撤去された。現在も、ポプウナイ川橋梁の橋脚の跡が国道の13線橋から見える。
ポプウナイ川橋梁の先の左手には新富駅があったが、路線が廃止になる前になくなった。紅葉川橋梁、ソーウンナイ川橋梁を渡り、「添牛内跨線橋」という名称がある国道239号の跨線道路橋が上を跨ぐと、右手に添牛内駅があった。第4次調査時には、駅舎は倉庫として転用されていた。情報によれば、平成09年05月頃に倉庫に転用されたようだ。
添牛内駅を出ると、線路は国道の旧ルートの踏切を渡り、雨竜川に沿って左に大きく曲がっていた。72キロ地点手前の右手に大曲仮乗降場があったが、冬の乗降場の管理が困難などの理由でなくなった。国道の旧ルートの踏切を渡った後、国道が上を跨いでいた(国道名称「初瀬尾跨線橋」)。
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| 共栄駅 ホーム残骸(第3次調査時) |
第4雨竜川橋梁を渡った先の左手には、元仮乗降場の共栄駅があった。左カーブの途中にあった共栄駅は、第3次調査時にはホームは壊され、残骸が周辺にあったが、第4次調査時には撤去されていた。
かつて、共栄駅は仮乗降場時代に2回程移動をしていたようだ。開設当時は76.35km付近にあったようだ(後日に昭和40年代の地形図を見てわかった事であるので、詳細は不明である)。その後、大学林道踏切の手前に移動してから踏切の奥に移動したようだ。
共栄駅を過ぎて、第1雨竜トンネル(坑道に亀裂と大規模な修理箇所あり)を抜けるとすぐに第5雨竜川橋梁を渡っていた。
赤松川橋梁の先の左手に、運転の中心であった朱鞠内駅があった。かつては、どの列車もこの朱鞠内駅で打ち切りとなっていた。朱鞠内駅は幌加内駅とは対照的に駅舎の内外はさほど手入れされず、ホームは破損が目立ち始め、駅本屋側ホームの縁が崩れている。対向のホームも、駅名標の柱が倒壊してしまった。また、第4次調査時には線路と、機関支区の忘れ形見であった転車台が撤去されていた。
つづき