この線路跡は、やがて築堤の形をなすようになり、民家の裏庭のようなところにひっそりと跡を残している。しかし、これも藤岡川の手前で途切れてしまう(F地点)。
ここから東側の廃線跡は、完全に篠山の市街地に埋没している。全線で唯一の列車行き違い可能駅であった西町駅跡は、現在の吉田自動車工業のあるところになるが、開通当初の篠山町駅のあったところから300メートルと離れていない。この駅跡周りを探索していると、近くにある芦森工業の篠山工場北側の小川に、見方によっては橋台のようにも見える、怪しい石積みがあるが、まわりの変化が激しすぎて、これが篠山軽便鉄道の跡なのかどうかは判然としない(G地点)。
路線廃止まで使われた2代目の篠山町駅跡は、現在でいう丹波杜氏酒造記念館の北東付近にあたる。残念ながら、駅跡の敷地の名残も感じられないし、西町から篠山町の駅跡に至る1キロにもわたる間も、何も鉄路の残照は見受けられなかった。
国鉄篠山線の項でも詳述しているように、太平洋戦争中に軍需路線として建設された篠山線も、市街地を避けて建設したことなどが響いて、結局、開通後30年もたずして廃止という憂き目にあった。篠山の町の人たちにとっては、市街の中心を貫いていたこともあって、篠山軽便鉄道が近代化されて生き残った方が結果的にはよかったと、騙されたような気分であろう。ここに、篠山の町が国策に翻弄された歴史が見てとれるのである。
ただ、篠山線の項でも述べているように鉄道に恵まれなかったことは、必ずしも篠山の町にとって悪いことばかりではなかったように思う。というのも、山形・甲府・静岡・福山のように鉄道が城郭内や城跡に近接して敷かれたために、せっかくの由緒ある城下町が破壊されて、どこにでもあるような街並みになってしまった例は数知れない。それらに比すると、篠山の町は城郭に接した鉄道が軽便鉄道級で、しかも早い時期に消滅したためか、街全体が今なお城下町の風情を色濃く残しているのである。
鉄道が通っていたはずである城祉の北西側も完全に復元(?)されていて、そのおかげで廃線跡はまったく分からなくなってしまっている。
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