■ガイド 岡野〜篠山町間

 篠山川を渡ってからの線路は、開通当時はそのまま東進し、古くからの市街地の西端に終着駅(正確にはこちらが起点)の篠山町駅が置かれていた。市街の中心から少し距離のある場所に篠山町駅が置かれたのは、明治41年に付近に設置された、歩兵第70連隊(D地点)関連の輸送を狙ってのことある。実は、この歩兵連隊関連の輸送は、篠山軽便鉄道の設立目的の一つにもなったほど、期待されていた。


 しかし、鉄道側の思惑とは裏腹に、連隊長以下の高官は馬で、そして兵士はほとんどが徒歩で弁天まで往復し、篠山軽便鉄道の業績が低迷する一因となった。そのため会社は、旧多紀郡畑村や福住村から産出される珪石の輸送に目を付け、福住までの延長を計画したのである。後に、篠山軽便鉄道の息の根を止めることとなる国鉄篠山線とまったく同じ主旨であったのが興味深いところであるが、その第一段階として大正10年に篠山町を城跡脇の東新町に移転し、全長が1キロほど延びたのである。

 開通当時のルート跡は、さすがに今となっては痕跡は認められないが、川を渡ったところから初代の篠山町駅のあった地点までは、ほんの少しだけ標高差があるのが分かる。これがなんと、軌間762ミリの非力な軽便鉄道の蒸気機関車にとっては難所だったそうで、乗客に後押ししてもらったことも度々であったというのはいかにもな話である。初代の篠山町駅の跡地は、ササヤマサービスという自動車修理工場になっている。

 一方、路線付け替え後の線路は、並行する県道の東岡屋交差点付近を通っていたはずである。そして事実、今でもほぼ交差点上を北西〜南東の方向にクロスしていた線路跡の雰囲気を、交差点南東側の畑の中に認めることができる(E地点)。

畑の路盤跡
東岡屋交差点から南東方を望むと、畑の中に  
線路敷の名残が感じられる。(E地点)  
白い建物と竹薮の間の空間が線路敷の跡  
築堤跡
民家の裏にひっそりと残る、篠山  
軽便鉄道の築いた築堤跡(F地点)  
  

 この線路跡は、やがて築堤の形をなすようになり、民家の裏庭のようなところにひっそりと跡を残している。しかし、これも藤岡川の手前で途切れてしまう(F地点)。

 ここから東側の廃線跡は、完全に篠山の市街地に埋没している。全線で唯一の列車行き違い可能駅であった西町駅跡は、現在の吉田自動車工業のあるところになるが、開通当初の篠山町駅のあったところから300メートルと離れていない。この駅跡周りを探索していると、近くにある芦森工業の篠山工場北側の小川に、見方によっては橋台のようにも見える、怪しい石積みがあるが、まわりの変化が激しすぎて、これが篠山軽便鉄道の跡なのかどうかは判然としない(G地点)。

 路線廃止まで使われた2代目の篠山町駅跡は、現在でいう丹波杜氏酒造記念館の北東付近にあたる。残念ながら、駅跡の敷地の名残も感じられないし、西町から篠山町の駅跡に至る1キロにもわたる間も、何も鉄路の残照は見受けられなかった。



■篠山軽便鉄道あとがき

 国鉄篠山線の項でも詳述しているように、太平洋戦争中に軍需路線として建設された篠山線も、市街地を避けて建設したことなどが響いて、結局、開通後30年もたずして廃止という憂き目にあった。篠山の町の人たちにとっては、市街の中心を貫いていたこともあって、篠山軽便鉄道が近代化されて生き残った方が結果的にはよかったと、騙されたような気分であろう。ここに、篠山の町が国策に翻弄された歴史が見てとれるのである。

 ただ、篠山線の項でも述べているように鉄道に恵まれなかったことは、必ずしも篠山の町にとって悪いことばかりではなかったように思う。というのも、山形・甲府・静岡・福山のように鉄道が城郭内や城跡に近接して敷かれたために、せっかくの由緒ある城下町が破壊されて、どこにでもあるような街並みになってしまった例は数知れない。それらに比すると、篠山の町は城郭に接した鉄道が軽便鉄道級で、しかも早い時期に消滅したためか、街全体が今なお城下町の風情を色濃く残しているのである。

 鉄道が通っていたはずである城祉の北西側も完全に復元(?)されていて、そのおかげで廃線跡はまったく分からなくなってしまっている。

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