■沿革

 中央線は、言うまでもなく主要幹線のうちのひとつにあげられるが、山岳地帯の麓を行くということと、開通年次が明治の終わりと比較的早かったのが逆に災いして、しばらくは線形のあまり良くない単線非電化勾配路線であった。

 しかし輸送量の増大に対応してまず電化が、続いて複線化が図られることとなる。この両近代化と線形改良のために各地で線路の付け替えを行った結果、旧線跡が散在している。今回取りあげたのは、その数ある中央線の旧線跡のうち、一番東京方である鳥沢〜猿橋間である。

 数多くの勾配とトンネルを有する八王子〜甲府間の電化は、昭和6年と比較的早かった。設計年次が古いために断面が狭くなっているトンネルに電車を通すため、特別に屋根の低い仕様の電車がこの区間で活躍した。ただ、その後も輸送需要が増大し複線化の必要がでてきたため、昭和38年からこの付近の複線化工事が始まった。大半の区間は、単線時代の線路にもう1本線路を付け足す腹付線増により複線化が図られた(そのため現在でも線形はそれほどよくない)が、鳥沢〜猿橋間だけは複線トンネルである猿橋トンネルによって一直線に短絡する新線を経由することとなった。

 用地買収に若干手間取ったため、この区間だけ工事が他に比べ多少遅れたものの、「ヨンサントオ」改正と言われた昭和43年10月に新線切り換えをおこない、旧線は放棄された。



■ガイド 鳥沢〜猿橋間

 鳥沢駅の甲府方の、跨線橋が架かっている付近から右方へ分かれていく旧線の跡は、少しの間、細い道路となって残っているが、間もなく住宅の中に埋没してしまう。やがて国道20号線にぶつかるが、旧線は現在の大月総合体育館入口交差点にあたる場所で、大きなトラス橋により国道をオーバーハングしていた。この橋梁は、その猿橋方の橋台が残っていることによって、今でも痕跡を認めることができる(A地点)。

 残念ながら、その先は住宅が建っていることもあって、一部の築堤らしき跡を除いては、鉄道跡を感じさせるものはないが、B地点に僅かながらの路盤と、鉄道時代に築かれた茶褐色の石垣を見ることができる。

 このB地点からは、線路が国道のすぐ山側を並行するようにして進んでいた区間であるが、路盤の跡には住宅が立ち並んでいる。ただ、一部の民家の山側には、例の茶褐色の石垣が残されている。

第二富浜坑門
一見アーチ橋のように見える 
第二富浜トンネルの鳥沢方坑門(D地点) 

 国道横に並んでいた住宅がいったん途切れ、小さな公園のようになっているところから山側に登っていくと、旧線の路盤がそのまま残っているところに出ることができる(C地点)。ここから緩やかな左カーブを描く切通しを進んでいくと、今回探索している区間の最初のトンネルである第一富浜トンネルの坑門が見えてくる。

 残念ながらトンネル内部に立ち入ることはできないが、石積みを主とする風格ある構造は、この付近の中央線の現在線の複線のうちのいずれかに残っていることの多い単線時代のトンネルと、多くの共通項を見いだすことができる。

 トンネルを通り抜けられないために再び国道に戻って、第一富浜トンネルの猿橋方に迂回すると、切通しに続いて、すぐさま第二富浜トンネルが、その口を開けているのが見える(D地点)。残念ながら、坑門付近は土砂に埋もれ、上部から1メートルほどしかトンネル口が見えていないがために、あたかも坑門のすぐ上を通る道路のために作られたアーチ橋のように見える。

橋脚跡
宮谷川の深い峡谷に 
すっくと立つ橋脚(E地点) 

 第二富浜トンネルの猿橋口は、宮谷川の峡谷にぽっかりと口を開けている。そして、トンネル口と一体化している細長い橋台で少し距離を稼いでから、一気に宮谷川を越えていた橋梁は、橋桁がはずされているだけで、橋台に加えて高い橋脚までもが木立の中に突っ立っているのが見える(E地点)。

 ただ、甲府方の橋台、およびその先に続いていたと思われる宮谷トンネルは、木々に阻まれて認めることはできないし、対岸側には道もないので近づくこともできない。

 ところで本題からはずれるが、この廃線跡の国道側に、東京電力の水路橋がある。これは碓井峠の廃線跡のような、趣のある煉瓦積みのアーチ構造をしており、一見の価値がある代物である。

 宮谷トンネルの猿橋口は、現在この付近で行われている巨大な崖の防災および造成(?)工事によって、土砂に埋もれつつあるが、この先で国道を越えてから再び国道に出会うまでの約500mに渡って築かれていた、まっすぐな高い築堤は、今なおそのままの姿で残されている(F地点)。そして、この築堤の甲府方には国道を越えていた橋梁の橋台が双方とも残され、さらには大原トンネルが口を開けている。

 この大原トンネルの猿橋口は、一見わかりにくいところにある。それは、現在の国道から名勝猿橋の方に向けて分岐し、川に沿うような形になっている旧道の真下に、川へ向かって口を開けているからである。(G地点)

大原坑門
旧道から見ると一見石積みの柵のように見える 
大原トンネル猿橋方坑門(の裏側・G地点) 

 旧道からは坑門上部構造の裏側があたかも柵のように道路に接していることにより、トンネルの存在はつかむことはできるが、トンネル口を覗くためには民家の敷地に入って行かなくてはならないような状況になっているため、ここは諦めて対岸の甲府方の線路跡を探してみることにする。

 すると、先ほどの宮谷川の鳥沢方と同様に、川岸からできるだけせり出すような形で細長くなっている橋台が残っているのが分かる。これは現国道からみるとよく分かるのだが、驚くことにその細長い橋台の上に、一軒の家屋がぴったしと建っているのである(H地点)。

 私だったらとても恐ろしくて住むことはできないように思うが、考え方を変えてみると、もともと橋台は重い蒸機牽引の長大貨物列車が通り過ぎるのに充分耐える設計になっていたのだから、家一軒支えるのには十二分すぎて不相応なくらい、そんじょそこらの地盤より強固で安定しているのかもしれない。

 ただ、橋台以外の鉄道の痕跡は、家屋が立ち並んでいるために、ほとんどないに等しくなる。猿橋の集落の裏手を通って現在線に合流するような形になっていた跡は、一部の家屋の並びや空き地の形を除いては残っていない。



■中央線猿橋付近旧線あとがき

 前述のように中央線は至るところで改良されているために、名古屋方に至るまで多くの旧線跡があるが、その他にも今回取りあげた区間からそう遠くない初狩・笹子の両駅にスイッチバック跡が残されている。このスイッチバックは基本的には複線化完成時に解消されたのだが、山岳路線である中央線の生い立ちを物語る駅として、是非とも途中下車してみたい駅である。

 余談であるが、この付近の中央線の複線化がもう15年ほど遅かったなら、この鳥沢〜猿橋間のような別ルートのトンネルによる複線化が大半を占めて、全体的に線形が今よりかなりよくなっていただろうと思われる。それは、その15年ほどの間に、新線建設や路線改良の際のルート決定の仕方が、コスト重視から線形重視に大きく変わったからである。

 
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