■沿革

 和歌山県北部には古くから数々の山間部と海岸部を結ぶ鉄道があるが、野上電気鉄道は貴志川の上流域である野上谷で産出されるシュロ製品(一時期は全国の8割を生産していた)や番傘、たわしおよび沿線の旅客の輸送を目的に、大正5年に紀伊野上まで開業した軽便鉄道に緒をなす。

 その後昭和3年には生石口(のちの登山口)まで開通し、神野市場までの路線延長こそ戦争のためならなかったが、他社のお古の電車がほとんど改造もされずに元気に走っていた。ちなみに通常の鉄道の場合は都会方向に向かうのを”上り”というが、この鉄道の場合は山の上り下りにあわせてか、登山口に向かう方を”上り”、日方に向かうのを”下り”と呼んでいたことも何か偏屈じみていて痛快な鉄道であった。

 ところがこの鉄道もご多分に漏れず、昭和40年代にモータリゼーションの波をもろにかぶり、乗客の激減をうけて2期に分けて廃止すべく昭和48年、沖野々から先の区間の部分廃止の申請をおこなうに至った。このとき地元もほぼ同意しかかっていたのだが、同年12月にあのオイルショックが勃発して乗客も少し増加したこともあり、土壇場のうっちゃり状態で鉄道は補助金による存続へと変更された。

 しかしその後も乗客の減少には歯止めがかからず、昭和61年には昼間のみ電車内への自転車の持ち込みを認めるという、ウルトラC的施策を打ち出した。これは大変便利で画期的なシステムであるが、裏を返せばそれだけ電車がすいているということでもあった。

未成線跡
神野市場までは工事はいったん着工されたので、
橋台や橋脚が多く残されている。写真は登山口 
駅跡の1.3kmほど先にある、貴志川に倒れてい 
る橋脚(たもとにいくと橋台も残されている) 

 毎年赤字を重ねながらも、国からの欠損補助を頼みになんとか存続していたが、平成3年9月8日、運輸省は会社に対して助成金打ち切りの通告を行った。これは、まず助成金の支給基準のうち、ラッシュ時の輸送人員が一時間当たり1000人以上というのと(野鉄は平成3年度で156人)、道路事情等によりバス転換が困難という条項にあてはまらなくなったことによる。

 もっとも、以前からこの状態は続いていたのだが、JRから転換した第三セクター鉄道のうち初期に転換した会社の助成(5カ年)が打ち切られているものが出ていることや、国が財政難であることもこの決定に影響したと思われる。

 いずれにしても、野鉄は平成3年度の営業費は2億5400万円であったのに対し、営業収入は1億6100万円しかなく、欠損補助に全てを頼った経営をしていたため、この打ち切りは生命線を絶たれたことを意味した。

 1戸に2台という自動車の普及も影響したのか、それほど大きな反対運動も起こらず、平成6年3月31日限りで全線が廃止された。と同時に、ほかに大きな兼営事業を持っていなかったことから、十数路線持っていたバス部門を含めて会社は解散になり、悲しい末路をたどることとなってしまった。バス路線は、廃止と同時に設立された、地元運輸会社資本の大十オレンジバスに移譲された。



■ガイド 日方〜沖野々間

 日方駅跡はJR海南駅が高架化されたこともあり、構内のはずれにあったJR連絡口のホームを含めて、何もかもがなくなっている。野鉄廃止後もしばらくの間は、日方駅があった西方の道路に「野上電車前」というバス停がそのまま使われていたが、現在はそのバス停も「日方南」と改称されてしまった。

 ところが、連絡口の南にあった小さな橋梁から先は、路盤に砂利がかいま見えるほどの、なまめかしい廃線跡が残されている。

 ただ、沖野々〜野上中間にある貴志川橋梁までの海南市域にあたる廃線跡では、私の訪問当時、海南市による歩行者・自転車道路化工事が行われており、平成12年春頃を完成目標として至る所で工事が行われていた。訪問当時でも、重根から沖野々までは完成して一般供用されていたので、現在はこのあたりは整備工事が完成していると思われる。

路盤跡
重根駅跡西側に残っていた橋梁跡も今はない
(A地点。平成8年4月撮影) 

 民家の軒裏をかすめるようにして進んでいくと、やがて右手に桜の古木と少し小高い盛り土のある場所に着く。これが春日前駅跡であり、プラットホームは失われているものの、ホームに上っていたスロープが残っている。

 そして阪和道をくぐり、国道370号に寄り添うようになると、右手に幅がドア一枚分ほどしかない奇妙な建物が現れるが、そのすぐ先が次の幡川駅跡でここにも桜の木、そして周辺地図の看板が残っている。この先も壊されていない駅跡の大半には桜の木が植わっており、春先にはそれぞれの駅で美しい情景を演出していたことであろうことが想像できるし、現に今でもこの時期が一番気持ちの良い探訪ができる。

 やがて廃線跡は上り勾配にさしかかり、畑やミカンの木の横をのどかに進んでいくが、ごく最近にこの付近は舗装されて、情緒はかなり失われてしまった。最期まで列車行き違いをしていた重根駅跡も、休憩所とトイレのある小綺麗な公園に整備されていて、駅前であったところの雰囲気にのみ往時の面影を残している。

 廃線跡を整備した道は左にカーブしながら切通しの中を進む。このあたりは、道の上に小さな橋が架かっていたりして、歩行者・自転車道路に整備された今でも鉄道跡を実感させるところである。そして、踏切跡を越えて右にカーブしながら阪井の集落を突っ切り、集落のはずれにあった紀伊阪井の駅跡に着く。

 ここは野鉄の主要駅のひとつであったが、廃線後しばらくの間残されていたプラットホームは跡形もなく撤去され、そのスペースを使って歩行者道が二股に分かれてまた合流しているのが私たちを不愉快にさせる。

 この先もただの小綺麗な道路は愛想もなく進んでいき、国道370号線に接するところからは、予想していた通りというべきか、すぐ横の国道370号線の拡幅のためにも線路跡が削り取られている。そのため、沖野々駅のカーブしたプラットホームがあったところの特定もできない。

  つづき

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