沙留駅を過ぎると、沙留川橋梁を渡っていたが、平成10年の秋から撤去工事が始まり、第3次調査時には桁と築堤の一部が撤去されていた。工事標識によれば、工期は11月までとなっていたので、今では完全に姿を消したものと思われる。
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さて、森の間を一直線に抜けて、坂を登ると、元仮乗降場の富丘駅があった。現在は、階段位しか残っていない。富丘駅を過ぎると、かつてはオムシャリ沼に架けられた円野川橋梁を渡っていた。この円野川橋梁は、名寄本線の名撮影地のひとつであった。今のところは残っているが、潮風を長年受けていた為か、桁と橋脚等の風化が著しい。
円野川橋梁を渡ると、まもなく紋別市に入っていた。かつては渚滑線が分岐していた渚滑駅があったが、取り壊されてしまい、国道の交通信号機に名を残すだけだ。
線路はかつて海岸線沿いの丘陵地帯を迂回し、紋別の市街地に入っていた。階段だけが空しく残る潮見町駅を見ながら1キロばかり進むと、そこにはかつて紋別駅があった。もちろん、今では何も残っていない。
紋別を過ぎると、かつて列車はオホーツク海から離れ、海岸沿いの丘陵地帯をしながら進んでいた。一つ丘を越えて藻鼈川橋梁を渡るとまもなく、元紋別駅があった。100キロ地点を過ぎて、ヤソシ沼を山側に迂回したところに元仮乗降場の一本松駅があったが、確認していない。元仮乗降場だった弘道駅の待合室は、現在、別の場所で倉庫として転用されている。
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元々は海だったコムケ沼を迂回すると、ホームの一部と鉄道官舎だけが残る沼ノ上駅があった。近くにはシブノツナイ湖があり、その奥には紋別空港がある。
川西駅(待合室?の一部が残る)の先で森を抜けると、列車は湧別川に架けられた第3湧別川橋梁を渡っていた。名寄線建設概要に掲載されている写真を見る限り、とても壮観であったが、今ではその雄姿を見る事が出来ない。
左カーブを曲がって、中湧別の市街地に入ると、かつては中湧別駅があった。中湧別駅は湧別へ向かう支線と湧網線の分岐駅であったが、今はホームの一部などを残すのみである。
中湧別から遠軽を結ぶこの区間は、元々湧別軽便線として開業した区間である。中湧別駅を出ると、列車は中土場川(旧称ヌッポコマナイ川)に架けられた中土場川橋梁(プレストレストコンクリート桁×2)を渡りながら坂を一直線に登っていた。ヌッポコマナイ川の流域変更工事に伴って昭和55年秋に架けられたこの橋梁は、第3次調査時には残っていたが、上湧別町役場の方によれば、線路跡地を道路として転用する為、平成11年春以降に取り壊すそうである。
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125キロ地点の辺りには、元仮乗降場であった北湧駅があった。この駅が開業する以前には、別の場所に厚生病院仮乗降場があったそうだが、北湧駅と入れ替わりに廃止となった。ちなみに、厚生病院は厚生病院仮乗降場が廃止された後に移転しており、かつての厚生病院の跡地は特養ホームとなっている。
北湧駅をなおも直進すると、上湧別駅が右手にあったが、撤去された。共進駅の先で、列車は湧別川に架けられた第2湧別川橋梁(撤去済)を渡っていた。かつて社名渕駅と呼ばれていた開成駅は完全に姿を消し、国道の「開成跨線橋」からそれとなく線路の位置が推測できるだけである。
社名渕川橋梁を渡り、北遠軽駅を見ながら進むと、列車は山腹を迂回していた。まもなく終点の遠軽駅が列車の左手前方に見えていた。名寄本線のうち、名寄〜遠軽間の全長138km093mの道のりは、ここで終わっていた。
中湧別から湧別を結ぶこの区間は、元々湧別軽便線として開業した区間である。列車はただひたすらまっすぐにオホーツク海へ下っていった。この跡地は、「リラ街道」なる奇妙な名称の道路の路盤に転用された。
元仮乗降場だった四号線駅をながめながら進むと、まもなく下湧別駅と呼ばれていた終点の湧別駅が左手にあったが、共に姿を消してしまい、何も残っていない。4km690mの支線の短い道のりはここで終わっていた。
最後に、一個人の趣味に協力して下さった方々に感謝の意を込めて、ここに名前を挙げさせていただきます。
下川町の皆様,字上興部在住の何某様・字中興部在住の何某様を始めとする西興部村の皆様,
コインランドリー店店主 塩野様を始めとする紋別市の皆様,字南兵村一区在住の何某様を始めとする上湧別町の皆様,その他多数