第1次調査(1995年09月05日)

  名寄駅その他


第2次調査(1995年12月06日)

  中名寄駅・下川駅


第3次調査(1998年10月09日〜11日・10月31日)

  名寄駅〜中名寄駅・下川駅・一ノ橋駅・上興部駅〜開盛駅


※本文中に登場する橋梁の名称は、極力部内の名称で統一した為、例えば河川を渡る橋梁の名称は実際の河川の名称と異なる場合がございます。予めご注意ください。
ただし、部内での名称が判明しなかった橋梁については、例えば「○○」橋梁とか「○○跨線橋」といった具合に区別をつけてあります。




1:名寄〜下川

 名寄本線は、宗谷本線の名寄駅3番乗り場から発着していた。列車はかつて、旭川方向に宗谷本線の線路と並走しつつ、左に進路をとって宗谷本線と別れ、赤煉瓦の工場の脇を抜けて丘陵地帯を超えていた。現在、丘陵の所に名寄公園があり、かつてのルート上にキマロキと呼ばれていた除雪列車の編成が置かれている。この場所は、深名線湖畔駅と同様、多くの思い出が眠っている。

 丘陵地帯を抜けると、線路は左に曲がって、名寄川と国道239号沿いに走っていた。中名寄駅はホームなどは残っていないが、駅舎が残っている。

 下川駅の駅舎は、一時期バス待合所として使われていたが、取り壊された。現在、駅の跡地は下川町役場の出張所を兼ねたバスターミナルの建物とロータリーになっている。バスターミナルの一階には、名寄本線で使用された道具・切符とか、写真やパネルが展示してあった。外には名寄本線で使用されたタイプの車両や、踏切の警報機とかあって、名寄本線の記念碑がある。




2:下川〜上興部

 さて、下川の市街地を抜けると、かつて列車はペンケ川に架けられた下糠川橋梁を渡っていた。かつてこの川の上流の谷間には銅山があった。何でも、学校や病院・郵便局とか、神社や寺がある市街地を形成していたそうだが、今はない。時の流れはとてもむごいものだ。一ノ橋駅を過ぎると、列車は名寄川に架けられた名寄川橋梁を渡っていたが、すでに撤去された。

天北國境附近ノ線路
名寄線建設概要写真説明「天北國境附近ノ線路」
※画面に大きく写っている白っぽい小屋が、問題の小屋である

 さて、名寄川を渡ると、列車は天北峠の急坂を登っていた。国道239号と並走しつつ、右や左へカーブしながらしばらくすると、列車は32.8キロ地点で峠の頂上に至っていた。まもなく列車は坂を下り始め、紋別郡西興部村に入っていた。

 坂を下り始めてから3キロのところで、興部川に架けられた興部川橋梁を渡っていたが、すでに撤去されていた。かつては、興部川の谷間をたどりながら9回興部川を渡り、オホーツク海を目指していた。

 さて、この路線の建設工事ではタコ部屋労働が行われたとの記述が西興部村上興部の部落の郷土史にある。また、同書には名寄線建設概要の写真説明「天北國境附近ノ線路」の写真が転載されており、写真に写っている小屋はタコ部屋労働者の居住施設であったらしいとの記述がある。

上興部駅
上興部駅 全景(第3次調査時)

 さてさて、上興部駅は現在鉄道資料館になっており、ホームの一部と駅舎が残っている。事務室を改造した展示室は小規模ながら、展示物が非常に充実している。




3:上興部〜興部〜沙留

 列車は国道239号と興部川を右手に見ながら、坂を下っていた。はるか右手にはウェンシリ岳が見える。列車はかつて、興部川に架けられた第9興部川橋梁(撤去済)を渡り、西興部の市街地に入る直前で忍路子川に架けられた瀬戸牛川橋梁を渡っていた。この橋梁は、下水道管用の橋梁として再利用され、桁の脇に下水道管が布設された。

 忍路子川を渡ると、かつて瀬戸牛停車場と呼ばれた西興部駅があった。西興部駅跡は再開発されて、何も残っていない。路盤は道路に転用された。

中興部駅
中興部駅 全景(第3次調査時)

 中興部駅は、駅舎とホーム2面が現存している。駅舎は近くの住人が保存している。何でも、始めからこの駅舎を保存するつもりでこの辺りの土地と建物を一式購入したそうだ。

 第5・第4興部川橋梁(共に撤去済)を渡ると、元仮乗降場の班渓駅があったが、一見した限りでは痕跡らしいものは見受けられなかった。班渓駅の先で班渓川に架けられた橋梁を渡り、谷を避けながら第3興部川橋梁(撤去済)と第2興部川橋梁(撤去済)を渡ると、宇津駅があった。

 宇津駅跡は、一見すると藪だが、ホームはかろうじて残っている。宇津駅の先で、国道239号の左手から右手に移っていた。この先で、宇津川に架けられた橋梁を渡っていたが、今のところは前後の築堤が撤去されただけで、まだ残っている。

 60キロ地点にさしかかると、谷は一度狭くなる。第1興部川橋梁(撤去済)を渡って国道239号の下をくぐる(撤去済)と、やっと谷間は開けて、のどかな牧草地帯を進んでいた。興部川と国道239号に挟まれながら3キロばかり進むと、北興駅があった。オホーツク海はもうすぐである。

 北興駅跡にはコンクリートブロックの待合室が残っている。内部には発車時刻表の一部が残っているが、特定の鉄道会社を非難する内容の落書きが見受けられる。

 鉄道跡地にこの手の落書きをして回っているこの御仁は、本当に鉄道が好きなのだろうか。
本当に好きだったら、鉄道にゆかりのある建物や構造物にこの手の落書きをせずに、雑誌や新聞などで意見を主張すると思うのだが、いかがだろうか。反論を聞きたい。


藻興部川橋梁
藻興部川橋梁 全景(第3次調査時)
 
 
逆川橋梁
逆川橋梁 全景(第3次調査時)

 さてさて、北興駅を過ぎると、あとは一気にオホーツク海へなだれ込むように列車は下っていた。目前に興部の市街地が見えてくる。列車が国道239号の下をくぐって国道の右側に出ると、興部駅が右手にあった。現在は、道の駅として跡地が転用されている。かつて、興浜南線がこの駅から分岐していた。本来は興部と浜頓別を結ぶ興浜線として着工されたものの、全通する事なく、興浜北線と共に廃止となってしまった。網走からオホーツク海を北上して稚内に至る一大ルートは夢のまま終わってしまい、一度も使われる事のなかったコンクリート製の橋梁などが未だに国道238号沿いに見受けられる。

 興部駅を離れ、右に曲がりながら国道238号の下をくぐると、元仮乗降場の旭ヶ丘駅があった。まもなく坂にさしかかるが、この辺りから右手にオホーツク海が間近に見える。坂を一つ越えると、藻興部川に架けられた藻興部川橋梁を渡っていた。この橋梁は昭和52年に架け替えられ、今でも残っている。

 続いて逆川橋梁を渡ってしばらくすると、豊野駅が右手にあった。豊野駅には土留めにレールを使ったホームが残っている。ここから一度国道238号と別れて、線路は海沿いを走っていた。左前方には、沙留岬が見えていた。列車が沙留の市街地の丘陵地帯を海側に迂回するとまもなく、右手に沙留駅があった。

  つづき