■ガイド 樋脇〜宮之城間

 樋脇の駅跡の手前から、次の上樋脇までの間の廃線跡は、最近整備されたらしい道路となっているために、一見退屈な道中となるが、そんななかでも、竣工年月である「1958-9」との表記がある、鉄道時代そのままの擁壁が残っていたりする(F地点)から、私たちを飽きさせない。

上樋脇駅跡
上樋脇駅跡を川内方から望む。手前左に 
見えるのが、開設記念の石碑。奥に2カ所 
が削り取られたプラットホーム跡が見える 

 上樋脇駅は、昭和34年に開設された請願駅であった。ここには、待合小屋を載せたままのプラットホームが残っている。ホームのうち2箇所ほど、隣接する民家への通路をこじ開けるために削られてはいるものの、その手前の踏切跡の脇には、「上樋脇駅開設記念碑」と彫られた石碑も建っている。昭和52年度当時でも一日の乗降客が120人ほどのちっぽけな駅ではあったのだが、地域の人たちが、この駅の誘致のためにかけた情熱が、ひしひしと伝わってくる。

 この駅を過ぎると、宮之城線は山岳地帯に分け入っていた。勾配こそ最急で1000分の16.7と、それほど難所というわけでもなかったのだが、人家のまったくない山中を進んでいた。廃線敷は、入来川橋梁が撤去されているほかは手付かずのままであるものの、気合を入れて立ち入っても、草木が生い茂るばかりで、難渋する結末が待つだけである。

 G地点からは、新しく整備された道路となっている。この道はくねくね曲がるし、山中でのアップダウンがあるので、鉄道の廃線跡にはあまり見えないが、この区間にひとつあったトンネルが解消されているために、このような形状になったのであろう。などと思っているうちに、突然、パッと人間の生活の匂いのする集落の横に飛び出る。

 入来の駅はここにあった。昭和26年には、台風により駅舎が崩壊したこともあるこの駅跡には、蒸気機関車をモチーフにデザインされたものらしい、鉄道記念館が建っている。駅前のバス停は、今なお「入来駅」を名乗っている。これはすでに通った樋脇をはじめとして、薩摩山崎や薩摩鶴田、宮之城、さらに「駅前」という名ではあるが、佐志や薩摩求名でも同様である。

 駅跡の薩摩大口側は、すでに家屋が立ち並んでいて、線路跡の雰囲気は失われているが、H地点から先の廃線跡は、はたまた道路となっている。赤に塗られた頭がスパッと斜めに切り取られた、鉄道時代の木製の用地境界標が所々に残っているのを脇に見ながら、山中を進む道路をしばらく進んでいくと、平地に下りたところで、交差点に停止表示の腕木信号機が建っている(I地点)。

薩摩山崎駅跡手前
薩摩山崎駅跡手前、I地点に建てられている腕木信号機。
奥には橋台からはじまる大築堤が見える(赤矢印) 

 次の薩摩山崎駅の場内信号にしては、駅から距離がありすぎるので、どこからか移設してきたものであろうが、何も知らない人は突然現れる腕木信号機に驚くかもしれない。

 そして、廃線跡の道路が昔からあった道路に合流する地点の先には、宮之城線が遺した、左カーブを描く雄大な築堤が横たわっている(J地点)。

 久富木川橋梁は、橋台を残すのみであるが、その先も停車場接近標という、黄色地に斜めの黒線が入った標識を載せたままの築堤は、402メートルという、インチ・フィート単位で設計していた時代を物語る半径をもった優美なカーブを描いて、薩摩山崎の駅跡に入る。もっとも、ここの駅跡は、敷地こそそのまま残っているものの、遺物としては記念碑があるだけである。

歩行者道の表示
2本のレールが頭を出す廃線敷は、
趣も豊かにカーブを描いている(K地点) 

 薩摩山崎駅跡の先で、道路を跨いでいた橋梁が撤去されているのを見た先も、なお築堤が続いているが、ここでこの築堤に登ってみると、なんとなんと、2本のレールが頭を出している(K地点)。

 おそらく車が通れるようにとのことであろう、レールの頭以外はコンクリートや土で埋められているので、枕木などほかの構造物は一切隠れてしまっているが、鈍く光る2本の筋は、趣のある美しい曲線を描きながら、竹林を通り抜けてゆく。

 ちょっとした林を抜けて、線路が国道と並行するようになる手前では、わずかの間ながら、枕木や道床までもがそのまま残っており(L地点)、思わず心躍ってしまう。

 そして、その先の廃線跡は、比較的簡易な整備がなされた道路となっている。これは、結局は宮之城駅跡の先まで続くことになる道路なのであるが、クルマの通行量も少なく、のどかな廃線跡歩きが楽しめる。この中ではM地点の道端で、川内起点から25キロ地点であることを示すキロポストが建ったままであるのが目をひく。

25キロポスト
25キロポストが廃線跡の道路を見守る(M地点) 
宮之城駅跡
宮之城駅跡の一角に保存されている宮之城線の遺物群 

 長らく川内川から浮気を続けた線路跡は、竹のまち・宮之城で、ようやく本来の相棒であるべき川とヨリを戻す形となる。この路線の中核駅であった宮之城駅の駅跡は、立派なバスターミナルになっている。そして、この建物の中の一角には、鉄道記念館が設けられており、宮之城線の様々な遺物が展示されている。

 一方、建物の外は、日通の施設などに往時の面影を残しているほか、レールや腕木信号機、そして宮之城町内の各駅の駅名標が、雨ざらしのためにかなり傷んではいるものの、保存・展示されている。



■ガイド 宮之城〜薩摩永野間

 宮之城駅跡を過ぎた廃線跡の道路は、日本特殊陶業の工場の手前で、その行く手をいったん遮られてしまうが、その先は未舗装の道路になっている。そして、工場の横をかすめ、道路と交差するところに、路面の跡もあからさまに、踏切跡を残している(N地点)。さらに、穴川橋梁こそ撤去されているものの、それを過ぎると、廃線跡の路盤が、趣豊かに佐志の駅跡まで続いている。

佐志駅跡
佐志の駅跡にはカーブしたプラットホームが残る 

 半径600メートルという、緩やかなカーブの中途にあった佐志の駅跡には、曲線を描いたプラットホームが、その上に建植されていた木製の電柱とともに健在である。

 線路跡上には、丸太が山積みされているものの、駅前には相当な広さの敷地をもった農業関係の倉庫群があって、現在は大型トラックがここから出発している。付近は今も広大な田園地帯であるが、鉄道貨物の隆盛時も、ここから各地に向けて農産物が発送されていたことをうかがわせる。

 佐志駅跡北側の踏切跡からの廃線跡は、農免農道鶴宮線という名の道路と化した。そのため、薩摩湯田の駅のあったところも、ちっぽけな碑を残すのみである。そして、このあたりで、せっかく近づいていた川内川とはたまた別れて、低い山々に囲まれた中を進むようになる。

 薩摩鶴田の駅跡は、その名も「つるだ駅ニュータウン」という、同じようなデザインの新興住宅が立ち並ぶエリアに変貌した。そして、入居率も順調なニュータウンの中心には動輪が、それもディーゼルカーのものはいいとしても、なぜか電気機関車ものまでもが誇らしげに置かれているのには、思わず笑ってしまう。その後方には鉄道記念館が設けられていて、様々な遺物が展示されているが、この薩摩鶴田からは、川内川の水害防止と発電を目的として、昭和41年に完成した鶴田ダムの建設資材輸送のために、36年7月から39年12月まで、九州地方建設局の専用側線が延ばされていた。この時期の薩摩鶴田駅は、一日6本もの貨物列車が到着する活況を呈していたという。

 O地点で雑草が生い茂る切通しを見せた後は、廃線跡は鉄道時代の軌道敷の幅のままの道路になる。この状態は、時々途切れながらも、薩摩永野の手前まで続くこととなるが、苔むしたコンクリートの切通しなど、なかなかよい雰囲気をもった箇所を多く見せてくれる区間でもある。

 薩摩求名の駅跡には公民館が建っていて、その横には駅の沿革を記した看板が建っている。旧駅前に石造りの農業倉庫があるのは、この付近の駅跡の文法どおりである。

柵跡
鉄道施設であった黄色い柵がガード 
レール代わりに残されている(P地点) 
標識跡
広橋駅跡の川内方の道路脇には、曲線 
曲線半径を記した標識が残っている(S地点) 

 鉄道時代の柵をそのまま利用している箇所(P地点)を過ぎたところにあった、道路を越えていた橋梁はすっかり撤去されているが、その先の線路跡地に、敷地の右カーブにあわせて、果樹が綺麗に並んでいるのが面白い。そして、廃線跡は簡易な整備の道路に戻ると、背後の山が撤去されて孤高に残るコンクリートの擁壁(Q地点)や、枕木が山積みになっているところ(R地点)、あるいはカーブの半径である「R200」と記された標識が道路脇にそのまま残っているところ(S地点)など、雰囲気満点の痕跡をもった箇所が目白押しとなる。

 広橋駅のあったところは、薩摩町の給食センターになっていて跡はない。しかし、駅の薩摩大口方の広橋橋梁跡には、橋台が残っている。この橋梁跡の先からは、あまり廃線跡らしくない線形をした道路を進むことになる。この道路から外れたT地点では、南川に架かる小さな橋梁がそのまま水道管の橋として再利用されている一方で、U地点にあった永野橋梁は撤去されている。

薩摩永野駅跡1
薩摩永野駅跡を望む。スイッチバック駅の 
シンボルとも言えるシーサスクロッシング 
をはじめとした様々な遺物が保存されている 
 
薩摩永野駅跡2
鉄道記念館の内部。内部に人形が立って  
不気味なのは、志布志線伊崎田駅跡と同様。
駅名標もスイッチバックを象徴するもののひとつ 

 ひたすら東進を続けた廃線跡の道路は、小さな盆地に出る。長閑な田園風景のなか、右方に見える国道504号線の真新しいバイパスだけが近代的な構造物で、異彩を放っている。

 やがて、左方より薩摩大口からの線路跡の道路が合わさるころ、両脇を腕木信号機に挟まれた、シーサスクロッシングという複線の線路にX字型のクロスを持った転轍器が、その上に貨物列車用の車掌車を載せながら、保存されているのが見えてくる。

 ここが、スイッチバック線形であった薩摩永野の駅があったところである。実は、この駅のシンボルであったシーサスクロッシングや腕木信号機、転轍機標識などのたぐいは、もとの場所からすべて移設されているのだが、そのほかにもプラットホームや保線用車両、数枚の駅名標などが、旧駅舎を改装した鉄道記念館と一体となって保存されている。

 荒廃している保線用車両の側面には、永野保線区の文字がしっかりと残っているように、ここは線路保守においても、山越えのサミットを控えた拠点であった。

 この薩摩永野がスイッチバック線形になったのは、勾配のためというよりは、花輪線の十和田南と同様、線路選定の際の複雑な事情によるものだという。

 たしかに地形図を開いてみると、さきほどのR地点から南川に沿って南東方向に進み、池山という集落のあたりから左に曲がって500メートルほどのトンネルを掘れば、薩摩永野を運転上の障害となるスイッチバック駅にすることもなかったように見える。

 九州南部では、既存の軽便鉄道を改良して開通した日南線の飫肥付近や、旧大隅線の鹿屋付近が、総距離は長くなったものの、大きく回り込む線形によって、スイッチバックになることを避けている。特に、飫肥付近は薩摩永野と同じような時期の建設で、スイッチバック解消のためにトンネルまで掘っている。

 しかし、こうやって現地を訪れてみると、意外なほど川内方・薩摩大口方の両者の線路跡に高低差がある。特に、大口方の線路跡の道路の築堤は、これでも鉄道時代から削られているからなおさらである。勾配上の理由も相まって、スイッチバック線形を選択したような印象を受けた。

 この駅から南西方に分け入る谷を使って、肥薩線の薩摩横川まで、延伸構想が練られたこともあった。ちなみに、その方向には「鉱事場」、あるいは「金山」という地名があることからもわかるように、1640年(寛永17年)に発見され、昭和28年に閉山となるまで、およそ300年もの長きにわたって続いた永野金山(山ヶ野金山とも呼ばれる)があった。最盛期には、佐渡を抜いて日本一の産金高を誇ったほどで、1万もの人々がこの近辺に住みついていたというが、今は昔、繁栄は追憶のかなたである。

  つづき

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