■沿革

 宮之城線は、川内線(せんだいせん・現鹿児島本線)の川内町(現川内)から分かれる軽便規格の国鉄線として、大正13年に川内町〜樋脇間を開業したことに始まる。川内線は、この支線を抱えた時点で川内「本線」に昇格したが、いずれにしてもこの聞きなれない名前であるのは、「鹿児島本線」が別場所にあったからにほかならない。

 つまり、その当時は現在の鹿児島本線のルートが全通しておらず、鹿児島へのメインルートは現在の肥薩線であり、その結果、こちらが鹿児島本線と称していたのである。細かな話をすると、八代〜鹿児島間は、現在でも鹿児島本線経由より肥薩線経由のほうが、 キロほど距離が短いし、また九州自動車道も距離の面や宮崎への枝分かれを考慮して、肥薩線に沿うようなルートになっているなど、肥薩線ルートが鹿児島への近道であることには変わりはない。ただ、この肥薩線が鹿児島本線の名を返上したのは、周知のように途中の大畑(おこば)越えのためであった。

 宮之城線の川内町〜樋脇間の開業が大正末期と、ローカル線にしては比較的早かったのも、宮之城線のルートが鹿児島本線のルート候補のひとつであったためともいわれている。ただ、ほかに比べて需要見込みが少なく、残念ながら本線ルート招致レースからは脱落してしまった。

 宮之城線はその後、川内方から順次部分開業を繰り返した結果、昭和12年12月12日、水俣〜栗野間の山野線と同時に、栄えある全線開通の日を迎えた。ただ、沿線にさしたる産業や観光資源があるわけでもなく、ひたすらローカル輸送に徹していた路線であったため、モータリゼーションの進展による輸送量の減退は早かった。貨物列車は昭和40年代に早々と不定期化されたうえ、旅客輸送についても乗客減に呼応するように列車本数を削減し続けた。

 60キロを越えた路線長が幸いして、国鉄再建法による第一次廃止対象こそ免れることができたものの、続く第二次廃止対象路線に選定された。輸送密度が第一次廃止対象線区並みにまで低下したのに加え、将来的にも乗客が増加するような見込みもまったくなかったために、地元も半ばあきらめムードで、廃止・バス転換へ向けた協議は淡々と進み、国鉄分割民営化へのカウントダウンが始まった昭和62年1月に廃止された。



■ガイド 川内〜樋脇間

 起点の川内駅は、九州新幹線の建設により、昔日の面影が急速に消えつつある。訪問当時、宮之城線の線路跡地も、しばらくは工事の柵の中に消えていた。この柵が消えた今は、以前とは見違えるほど整備され、昭和に消えた鉄道の跡など、全くなくなっているに違いない。しかし、高架道路の下をくぐってから、未舗装の道となっている廃線跡を辿ってゆくと、鉄道時代のものをそのまま使った小さな橋梁が残っている(A地点)。

 橋梁の先の線路跡も、幅が拡げられて一般道路になっているのに、この橋梁部分だけ道幅が狭くなっている。そのため、早晩橋は架け替えがなされてしまうと思われるが、まずはいきなりの宮之城線の遺物の出現である。ただ、この先の廃線跡の道路を辿っても、まもまく工事中のところにぶちあたってしまい、立ち入りができなくなってしまう。

 やがて、廃線跡は線路と並行していた道の拡幅に使われるようになる。線内で最初の駅であった薩摩白浜は、山野線の西山野と同様、終戦間近に燃料節約などのために営業休止され、その後復活したという経緯をもった駅であるが、目立った跡はないようである。ただ、その先のB地点のあたりには、鉄道時代の用地の境界標がいまだ散在している。

川内市内橋梁跡
川内市街にかろうじて残っていた橋梁跡。 
ここだけ道路が狭くなっていた(A地点) 
楠元駅跡
楠元駅跡。名ばかりの記念館となっている。
右奥には旧駅名標も放置されている。左側が線路敷跡 

 川内川対岸の集落とを結ぶ、東郷橋のたもとにあった楠元駅の跡には、いささか古い、木造の鉄道記念館が建っている。もっとも、記念館とは名ばかりで、館内に立ち入りができないばかりか、中をのぞくと、なぜか運動会で使うようなテントの部品が収納されて、実質記念館の体をなしていない。ただ屋外には、機関車の動輪や信号てこをはじめとする遺物が展示されている。このような展示は、この先の駅跡にも通じる典型的なパターンである。

 ところで、勾配に弱い鉄道のルートは、必然的に川の流路に沿うことが多い。しかし、川内川の下流域は、河岸にそれほど平野部を発達させていないこともあってか、宮之城線は、しばしば川内川から「浮気」を繰り返すルートをとっていた。というよりもむしろ、ほとんど川内川に沿うことなく、近傍の集落を結んでいたといったほうが正しいくらいであった。

 最初の大きな「浮気」は、古くから開けた町である、樋脇と入来への立ち寄りである。そして、このあたりから、鉄道の痕跡も随所に見られるようになる。

越線橋
切通しが埋められた「越線橋」付近。
橋の下をくぐった線路は、道路に沿って 
右に曲がり、樋脇を目指していた(C地点) 
戸田川橋梁
戸田川と道路をまとめて渡っていた橋梁跡。
この付近は、田園風景の中、趣ゆたかな 
築堤が続いている区間である(D地点) 

 まず、廃線跡を利用した道路が終わってすぐのところ(C地点)で、その名も「越線橋」という名の跨線橋が、その下の列車が通っていた空間が土砂で埋められて、意味のない橋になりながらも残っているのが面白い。さらにその先には、現役時代の情緒を豊かに残す築堤などがふんだんに残るようになり、ようやく廃線跡歩きが楽しくなってくる。なかでもD地点の戸田川と細い道路を同時に跨いでいたところでは、今でも橋梁跡のガーダーが載ったままで趣深い。

樋脇駅跡
樋脇駅跡には、駅舎とプラットホームが残る。
いいムードであるが、線路は再敷設されたもの 

 川内川や樋脇川の氾濫に備えて、ボートが常備されていたという吉野山駅の跡には、記念碑などがあるのみである。しかし、その先も廃線跡はダート道や簡易舗装の道路となったり、あるいは橋梁跡で小さな石積みの橋台を見せたり(E地点)と、様々な表情を見せている。

 そして樋脇の駅跡には、旧駅舎をそのまま利用した鉄道記念館の裏に、相対式のプラットホームの一部が残されている。両ホームの間に敷いてある線路は、いったん撤去された後に再敷設されたもののようであるが、まわりに農業倉庫などがある駅跡はかなりだだっ広く、付近一帯の物資の集散地であったであろう昔の繁栄を今に伝える。

  つづき

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