■ガイド 大屋〜丸子町間

 大屋を西方に出ると、高架道路をくぐったあたりから信越本線、および当線の上田東方面へ向かう線路と分かれ、左にカーブして千曲川を渡っていた。

 この全長190メートル余の千曲川橋梁は、当初は5つあった桁すべてが、トラス高の低いクラシックな形の平行弦トラスであったのだが、昭和3年8月に洪水による被害を受けて、丸子町方の2連のみ、九州鉄道で使われていた、これまた古い曲弦トラスに架け替えられた。英国製とドイツ製のトラスの競演が象徴的であった橋梁は、丸子線廃止の翌々年から、大屋と石井の頭文字から取った大石橋という名の道路橋としてそのまま再利用され、いわば丸子線跡のランドマークであった(E地点)。

大石橋
丸子線の名残を残していた大石橋は 
架け換え工事中であった(E地点) 

 さらには、この橋梁は土木史上も貴重であったらしく、土木学会の日本の橋2000選に選ばれてもいた。

 ところが、平成13年の夏の調査で、一部の橋脚の基部に空洞が見つかり、通行止めの措置がとられていたところへ、9月の台風15号に伴う千曲川の増水によって、橋脚が倒壊、橋桁も落橋してしまい、結果すべてが撤去されてしまった。

 実は、それまでにも、部分的にに被害を受けたことがあって、一部の橋脚はコンクリート製のものに交換されながらも、橋桁は鉄道時代のものが使われつづけていたのだが、平成13年の水害の被害は、とうとう橋梁すべてを根本的に架け替えさせてしまったのである。

 平成15年秋の探訪時には、新しい大石橋のための橋台および橋脚が、目にも眩いほどの新しいコンクリートの姿を見せているだけであった。それにしても、平常時は穏やかな流れに見える千曲川であるが、大石橋から10キロほど上流にある、旧布引電気鉄道の橋脚を倒したり痛めつけたりしていることからも、増水時の破壊力には計り知れないものがあるようだ。

 この先の丸子線跡は、結論から言うと、線路跡がそのまま道路化されている。そのため、線路跡のルートを類推する楽しみはなく、廃線跡歩きの魅力のひとつは確実に失われているのだが、所々に鉄道時代の置き土産を見つけることができる。

 下長瀬を過ぎ、長瀬駅跡あたりまでは、廃線跡の道路が拡幅されているため、面白みはない。長瀬駅跡のそばにJAがあることくらいが、名残といえるだろうか。

 少々退屈だった廃線跡の道路歩きが少し面白くなるのが、下丸子→信濃丸子→丸子鐘紡前と2度もの駅名の変遷をみた駅跡のあたりに来てからである。ここでは、右カーブを切りながら駅跡に進入するところで、道路の右側の水田が、道路の幅より余計に後退していく。つまり、おぼろげながら線路が分岐していた敷地の形の名残を感じることができる。

丸子鐘紡前跡
右カーブの途中にあった丸子鐘紡前跡を大屋方 
から望む。道路の右側にわずかに敷地が広がって 
いくのがわかる。右側の家屋のあたりが駅跡になる 
分岐跡
鐘紡丸子工場に向けて線路を分岐していた地点にて。
水田との境界にかろうじて分岐の名残を見出すことが 
できる。左奥への道路が丸子町への本線跡(F地点) 

 道路化された部分を除く駅の跡地は、豆腐店を営む店舗兼民家が建っているが、ここは鐘紡の丸子工場に向け、800メートルほどの専用線を右に分岐していた駅でもあった。その専用線跡は、センターラインのある道路になって、廃線敷の道路と交差している。ただ、廃線跡の道路と専用線跡の道路が交差するあたりで、両者を滑らかに結ぶ敷地の形の跡が、水田の縁に残っているのが興味深い(F地点)。なお、鐘紡工場は平成8年に閉鎖され、現在は他企業の工場、および広大な公園となっている。

橋台跡
道路の下にひっそり橋台が残っている(G地点) 

 さらに、専用線を分けたすぐ先の、小さな川を渡るところで、道路橋の下を覗き込むと、丸子線の石積みの橋台がひっそりと隠れているのが面白いところである(G地点)。

 それにしても、廃線跡の道路はひたすら上り勾配を続けている。丸子鉄道開通当時の、勾配に弱い蒸機牽引では、かなり苦労したであろうと思わせる。

 忠実に廃線跡をなぞる道路を進む道中は続く。中丸子駅跡では、廃線跡の道路の東側に、赤い小さな掘っ立て小屋のようなものがあって、これが当時のトイレの跡だというが、そう言われてもどうもピンとこない。

 また、上丸子駅があったところでは、ここだけ道路が廃線跡から外れて、跡地がゲートボール場や駐車場になっている。しかし、駅跡周辺には、映画館まであったほどの繁華街が形成されていたというのは、今では全く信じられないことである。

 なお、戦後、同一会社の路線となった丸子線と西丸子線を結ぼうとしたのであろう、上田丸子電鉄は、西丸子線の寿町からこの上丸子までの間の0.8kmの免許を、昭和26年に得ている。しかし、この計画は実現することがないまま、昭和31年に失効した。

中丸子駅跡
中丸子駅があったところ。右側の小屋がトイレ跡だという 

 上丸子駅跡を過ぎ、丸子の住宅街を進む廃線跡の道路は、春には美しい桜並木となる小学校の敷地を回りこむように、最後の坂を登りきると、マツヤというスーパーがあるところに突き当たる。ここが終点の丸子町の駅があったところである。

 車庫をも擁した広大な駅敷地の跡には、このスーパーのほかにも2つほどの店舗が建ち、さらに「丸子駅前」という名のバスターミナルとなっている。

 丸子線のものである証拠は何もないのだが、バスターミナルのレーンの境界線代わりに、レールが使われていることに思わずハッとしてしまう。さらに、駅正面にあたる道路が、今でも駅前通りの雰囲気を損なっていないなあと思っていたら、国道と交わる交差点の名前が、ズバリ「駅前通り」であった。

 さらに、「駅前通り」交差点の脇には「駅前郵便局」もある。この郵便局は、もともとは旧丸子町駅前の、現況で言うと上田観光自動車の車庫の隣にある、草の絡まった建物に入居していたのが移転したものである。

丸子駅跡1
丸子駅跡のバス乗り場 
には一本のレールが・・ 
丸子駅跡2
郵便局に商工会、交差点まで・・ 
いまだに「駅前」を名乗るものが多い 

 それにしても、その移転時に名前を変えなかったところ、そして郵便局前のプランターに「駅前商工会」の文字が焼き付けられているところを見ても、この丸子町内には、西丸子線のものを含め、10を越える駅があったのに、町内で「駅」といえば、ここのことを指したのであろうことがうかがえる。さらに、鉄道廃止後実に30年を経た今でも、丸子町内ではこのあたりは「駅前」で充分通用するのであろう。

 なお、旧版地形図を開くと、この駅のなまえは「まりこ」、そして西丸子線の西丸子は「にしまりこ」と記載されている。これは誤記ではなく、丸子の読み方は「まるこ」、「まりこ」が混在しているのである。しかし昭和36年に、町制施行50周年記念として町歌を制定した際に、歌詞的に呼称を統一する必要に迫られ、オフィシャル的には「まるこ」に呼び方を統一したそうである。



■上田丸子電鉄丸子線あとがき

 周知の通り、国内製糸業はグローバルな価格競争の波に押され、現在は衰退した。ここ丸子で繁栄を誇った大企業といえば、鐘紡(現カネボウ)と信濃絹糸(現シナノケンシ)の2社が代表的であるが、このうち丸子鐘紡前駅から専用線を延ばしていたカネボウの丸子工場(のちにカネボウシルクエレガンスの丸子工場)は、平成に入って閉鎖され、丸子から撤退している。

 一方、今でも丸子に本社を置いているシナノケンシはどうかというと、同社は最盛期に全国で15社・32工場を数えた絹糸紡績界で、国内に工場を残している唯一の企業である。ただ、あまり社名も耳にしないので、もう衰退一方なのかなあと思う方もおられるかもしれない。しかし、それは大きな間違いである。現在のシナノケンシにとって、繊維関連の売上は、全体のわずか3パーセントほどでしかない。

 それではどうなっているのかというと、精密モーター・電子機器メーカーに変身しているのである。我々のような、インターネットでコンピュータを触ることの多い人間に一番身近なのは、CD−RやDVDドライブの製品で非常に高い評価を得ているプレクスターブランドであろう。これは、実はシナノケンシのブランドでなのである。

 このように、時代に合わせて変貌している丸子の町に伸びていた鉄道の跡は、千曲川に架かっていた大石橋が失われたことで、大きなアクセントを失った形である。しかし、今回廃線跡をたどってみて、上田市内など、意外に痕跡があるところがあったりして、思いのほか楽しく歩くことができた。

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