■沿革

 長野県上田市に本拠を置く上田交通は、以前は上田丸子電鉄といい、最盛期には丸子線・青木線・別所線・西丸子線・真田傍陽線と、上田からあらゆる方面に伸びる鉄道路線を擁していた会社である。これらの線区のうち、丸子線のみが元丸子鉄道であって、他線とは多少素性が異なるので、ここでは丸子線を単独で取り上げる。また、この丸子線にとって、丸子の製糸業は切っても切れない関係があるので、話は鉄道創業期からさらに遡って、丸子の製糸業の勃興期から始めることとする。

 江戸時代末期に日本が開国して以来、この国の外貨稼ぎの筆頭は、生糸業であった。特に、諏訪・岡谷といった地域の製糸業は、群馬県の富岡が国主導で発展したのに対し、民間主導で隆盛を誇るようになっていた。

 その諏訪地方の製糸業は、原料の繭を北関東や長野県の東北部から調達し、製品の大半は輸出のために横浜へ送っていた。しかし、明治中期までは、諏訪地方を通る中央本線が未開通であったため、原料と製品の大量輸送のためには、諏訪地方から中山道のルートで和田峠越えをして、千曲川が切り開いた谷に早くから敷設された信越本線に頼らざるを得なかった。

 ところが、信越本線に辿り着いても、まだ困ったことがあった。というのは、明治21年のこの付近の信越本線の開通時には、峠越えの道が千曲川にぶち当たる大屋地区に、駅が設定されていなかったのである。そのため、地元の要請を受けて明治29年に開設されたのが大屋駅で、これは全国の駅の中で、請願によってできた第一号であったとされている。

 明治26年に信越本線の横川〜軽井沢間が開通していたこともあり、大屋駅は駅開設直後から、生糸原料と製品の輸送によって、隆盛を誇るようになる。駅周辺には8軒の運送業者が立ち並び、馬車の往来は一日700台を数えたという。この隆盛は、明治35年の篠ノ井線、そして38年の中央本線の開通によって、いったん沈静化するに至るのだが、この物資の往来を見ていた丸子の人たちが、丸子で製糸業を営むことができれば、諏訪地方より輸送効率があがると思うのは当然の流れであった。

 そんなきっかけで始まった丸子の製糸業は、明治30年代には早くも興隆期を迎える。そして、丸子は岡谷に次ぐ我が国第2位の生糸の町として、海外にまでその名を広めるようになる。そのために大屋駅は、今度は丸子の製糸関連輸送で賑わうようになった。そして、この大屋〜丸子間の原料および製品の輸送のために、丸子の製糸業者が中心となって大正5年に設立されたのが、丸子鉄道である。

 大正7年に、大屋〜丸子(のちの丸子町)間が蒸機牽引によって開業した丸子鉄道は、貨客とも輸送成績は順調であった。大正13年に電化されたのに引き続き、同14年には、この地域の中心地である上田に乗り換えなしで行きたいというニーズに応えて、上田東までの延伸を果たした。

 昭和18年に、戦時統合によって上田電鉄と合併し、上田丸子電鉄の丸子線となった。この上田丸子電鉄となってからの経緯の詳細は、真田傍陽・西丸子線の項に譲ることとするが、昭和33年に会社が東急傘下に入ったのを受けて、東急の中古車両を導入するため、丸子線もそれまでの660ボルトから750ボルトに昇圧している。

 戦後、丸子の生糸業が衰退したのにあわせ、丸子線の貨物輸送も減少した。しかし、旅客輸送はそこそこのものがあって、昭和40年代になっても2〜30分毎に1本の頻度で電車が運転されていた。しかし、昭和44年、乗客の減少を理由に、全線があっさりと廃止された。これは、八日堂〜大屋間で線路が並行していた信越本線の複線化の絡みもあったといわれるが、廃止直前の段階でも、一日30往復を越えるほどの列車の運行があった廃止路線は、珍しいかもしれない。

 会社は、丸子線の廃止翌年に上田交通と改称した。しかし、関連のバスやタクシー会社はそれぞれ上電バス、上田電鉄タクシーと、未だに古い会社の名を引きずったままであるのも興味深い。



■ガイド 上田東〜大屋間

 上田東駅があったのは、開設当時の上田の街の、まさに東端にあたるところであった。この駅の開設とともに、この付近に街が開かれ、駅の西方にある願行寺の四脚門にちなんで、あたりは大門町と名づけられたという。

 駅開設から80年もの時を経て、平成の世となった今、付近は完全な市街地の中となっている。丸子線の起点であった駅跡地は、駐車場やコンビニエンスストア、ガソリンスタンドになっているが、その敷地が行き止まり駅跡らしい形を保っているだけでなく、跡地の所有が未だに上田交通のままのようである。

 ここから東方に出ていた線路跡は、歩道や街路樹のある、市街道路となっているが、右カーブが始まっていたところからは、どこにでもあるような、生活道路になっている(A地点)。線路跡の道路に接しているわりには、鉄道の施設の跡とは直接関係ないところにある上田電鉄タクシーの車庫を右にやり過ごすと、廃線跡の道路は南北方向に走る道路にぶち当たる。その先に名残を残す廃線敷は柵で閉じられて、歯科医院の敷地となっているが、最初の駅、染屋があったのは、このあたりになる。

 この先は、病院の駐車場や、信州大学繊維学部(上田に繊維学部が立地しているのは、まことに興味深い・・)の敷地、あるいは道路の一部などに少なからず跡を残していて、このような市街地の中で出色である。

駐車場
上田交通不動産の経営する廃線敷の駐車場。
敷地は奥に向かってわずかに右カーブしている(B地点) 

 ただ、上堀駅のあったあたりは、区画整理がなされたのか、まったく痕跡はない。しかし、駅跡を過ぎて国道とぶつかるあたりから、鉄道が刻んだラインが敷地の形などに現れるようになる。そして、B地点ではわずかにカーブしていた線路敷が、舗装もされないまま、上田交通関連会社の経営する国分駐車場として使われている。

 その先は、地形的に大きな段差がある。旧版地形図によると、丸子線はここから築堤を築き、そのまま信越本線を乗り越えていたように描いてある。しかし築堤の面影はすっかりなく、残っている痕跡は、ただただひとつだけである。それは、信越本線を乗り越えていたところの橋台跡である(C地点)。

 ここでは石積みの橋台の一部が、上田東方のみながら、未だにしなの鉄道の複線の線路脇にしっかりと残っている。国鉄の本線を跨いでいたわりに、橋台跡の高さが低いのは、その上部が削られているためであろうが、この遺物を信越線の車窓からはじめて見つけたときには、予期していなかっただけに、ひとり盛り上がってしまった。

橋台跡1
丸子線が信越本線を乗り越えていたところ。
線路左側のみ、石積みの橋台がみえる(C地点) 
橋台跡2
その橋台は鉄道を跨ぐにしては高さが低い。
上部を削られたものと思われる 

 この立体交差があった頃、つまり丸子線が走っていた頃には、信越本線は単線であった。このあたりの信越線は、複線化の際に、丸子線跡地を使った流れで、南側に腹付線増されているから、北側、つまり上田東方の橋台跡のみ残っているのは合点がいく。

 信越本線を越えてから、左カーブを描いて信越本線に並行するようになっていた区間については、集落のところどころにそれらしき跡があるかなあという程度でしかないが、まもなく重要史跡である信濃国分寺跡に突き当たる。

 よく見ると、信越本線、ひいては丸子線もということになるのだが、線路が柱の跡の並ぶ遺跡のかなり真ん中を、堂々と突き抜けている。それは、あたかも平城京址の大内裏跡を突き抜ける近鉄奈良線のごとくで、昔は古代遺跡の保存などどうでもよかったのか、それとも信越線建設当時は、遺跡の存在に気づいていなかったのか・・・。

大屋駅
しなの鉄道大屋駅構内から、丸子線ホームが 
あったあたりを見たところ。あまり跡は感じられない 

 ここからは、幹線に並行するローカル鉄道らしく、短い駅間距離で駅が連続し、信越本線が取りこぼした乗客を拾おうとしていた。この付近では、同じく信越本線に並行していた旧佐久鉄道→現JR小海線の駅と同様である。もっとも小海線は、幹線の信越本線が第三セクターであるしなの鉄道となった関係で、本線格のほうが運賃水準が高くなってしまったのは運命のいたずらではある。

 八日堂駅は、第三セクター化されてから開設されたしなの鉄道の信濃国分寺駅よりも、少し西方にあったと思われるが、跡はない。基本的に、信越線の複線化の際に丸子線の跡地が使われているので、これからは丸子線の名残は期待できない。

 唯一、何かある可能性を秘めている神川を越えていた地点も、橋台跡のカケラでもあるかと思って、下を覗いてみたけれども、どうも橋梁の架け替えがなされたらしく、何もなかった(D地点)。さらに都合の悪いことに、その橋梁架け替え工事の関係であろうが、線路はもとより一線分南側に移動しているようで、橋梁の西側にあった神川駅の跡も全くない。念のため、近所のお年寄りに尋ねてみると、確かに神川小学校の北側に停留所があったということである。

 線形的に、すべての列車が方向転換を伴った大屋駅は、国鉄駅の南西側に島式のプラットホームを持っていた。その跡地は、道路となっている。

  つづき

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