301.solanoさん

my旅BOXという鉄道旅行と旅行記のサイトの運営をしているそらのと申します。私は廃線跡を旅する事が好きで、貴サイトをいつも興味深く拝見しています。貴サイトは写真が良く、文章がしっかりしていて、さらに資料的な価値も非常に高くただ驚くばかりです。
つい先日、大社線跡を見てきました。出雲高松駅と荒茅駅の待合室や駅名票が無くなり更にホームが廃れたという以外、管理人様が行かれた時期と大きな変化は無かったと思います。その時の訪問記を作成中で、今月中の公開予定です。また、最近の廃線跡訪問記に名鉄谷汲線跡、竹鼻線末端部跡があります。気が向かれた時にでもどうぞご笑覧下さい。
これからも廃線跡の旅の記録を期待しています。
302.林 吉保さん
大変楽しく読ませていただきました。特に私はスイッチバック式停車場が好きなのですが、何分関西在住のため北宇智駅、滝山信号場および中在家信号場ぐらいしか実物を見ることはできません。
かつては北陸本線に刀根駅、山中信号場等があったのですが、それも夢の後です。特に私は刀根駅に思い入れがあります。
かつて鉄道雑誌に特色あるスノーシェッドが掲載されたことがありますし、石山付近の瀬田川橋梁を驀進するC62牽引のつばめ号の写真で有名な高橋氏の写真集に引き上げ線ポイント付近を走る蒸気機関車の写真があります。また荒本の大阪府立図書館の3階の鉄道図書コーナーで「昭和期の鉄道」という分厚い写真集がありますが、これに刀根駅の全容がわかる写真があります。スノーシェッドこそ写っていませんが、駅舎やプラットホーム、待避線、それに現存している擁壁等が写っており、スイッチバック式停車場の仕組みが分かるすばらしい写真です。
303.塚本 雅浩さん

私のサイトも、96年11月頃から廃線を始めて、5年を経過いたしました。この間、同志たちの影響で、廃線跡地の様子を、駅跡のみならず構造物中心に、可能な限り詳細で写真を多く使用した報告とするようなスタイルに変化してまいりました。
お陰で、かなり内容的にマニアックなサイトとなってしまいましたが、今後も北海道内の廃線跡地報告を、可能な限り詳細に、かつ新しいものを掲示するように努力してまいりますので、今後も時々ご訪問頂ければ幸いです。
304.映楽道さん

私は中高年向けの音楽映像ソフトを扱う通販ショップを担当しています。まだ21なのでジャンル自体についていけません。廃線跡を旅するビデオを紹介していて、興味が湧いてき、いろんなサイトを検索していてここに行きつきました。いい企画ですね。旅とか好きなので、今度こういった旅にも挑戦してみたいです。
ビデオのほうもよろしくお願いします!(笑)
305.アチザリットさん
いきなりですみませんが、天辺にカタカナの「テ」と記された土地境界標(?)のようなものが、東海道本線旧線跡沿い(深草谷口町バス停北側)に残っているのですが、これって旧線と何か関連性があるのでしょうか?(かなり風化しているうえ、最近故意に削られた形跡ありです)
また、それより一つ大津よりの、深草馬谷町バス停南側の竹薮に打ち棄てられたコンクリート製構造物も気になります。共に無関係、或いは既出でしたら申し訳ございません。
306.がしこさん
函館に転勤で引越ししてから、廃線等に浸れなかったのですが、今回超割使って名鉄三河線西中金駅から延伸予定だった足助方面を調査してきました。
西中金駅過ぎてすぐ豊田市道になっており、現在工事中の個所もありましたが、北海道より一足先の春の兆しを感じながら歩き、豊田市内はばっちりたどれたのですが、足助町域に入るとプッツリ消息が…
307.林 吉保さん
昔の鉄道ピクトリアルを見ると、曽田英夫さんが昭和49年頃、柳ヶ瀬線や杉津線の跡を尋ねられた記事がありました。疋田、雁ヶ谷、柳ヶ瀬、中之郷の各駅や、深山信号場、葉原の大カーブ、山中信号場、大桐駅等の貴重な写真が載っています。刀根駅についても北陸自動車道の建設前でスノーシェッドこそ撤去されたものの、曽田さんの文によるとプラットフォームや引き上げ線等がこの時期ではかなり残っていたようですね。逆に杉津駅は北陸自動車道の建設でこの時期に破壊されていたようです。なお刀根駅については鉄道ピクトリアルの2001/2号にて伊藤威信さんの撮影されたすばらしい写真(引き上げ線と本線の交差地点を驀進するD51牽引の貨物列車およびスノーシェッドあとの構内)が2枚ありました。
308.新保 正彦さん

新潟は小千谷出身の新保(しんぼ)と申します。(現在は横浜在住)貴殿のホームページを拝見し、地元の魚沼線が紹介されていたのでメールを差し上げました。
魚沼線の軽便時代からの歴史が綴られていたのには感動?いたしました。昨年11月に調査されたとのことですが、線路跡は道路に転用されているところが多くなってきましたね。特にパチンコ屋前の旧小千谷第1踏み切りから小粟田駅近くまで小粟田地区をバイパスする道路として車が頻繁に走っておりますね。(この道は国道17号から小千谷市街地への近道となったため最近ほんとに車の量が増えてきました。)
魚沼線の思い出といえば、子供のころ朝方にDCの走行音が聞こえていたのをよく覚えています。小粟田駅の駅名標が柏崎駅の使い古しだったのを見つけたこともありました。小学校の担任の先生が長岡の西地区(西長岡駅に近い)から魚沼線で通っていました。しかし、一度も乗ることもなく廃止のイベントにも参加もせず、今となっては後悔ばかりです。
貴殿のページに比べたら大変しょぼくて申し訳ないのですが、よろしかったら私の廃線跡のページをご覧いただけたら幸いです。
309.黒水 浩司さん
ショック!
油断をしていたら、佐世保線の日宇駅からの分岐線の跡が消滅していた。つい最近整備をしたらしく、分岐点に設けられていた諸々の施設もろとも無くなってしまっていた。
長崎本線旧線、本河内駅のスイッチバックも最近解消されたらしいし、なんだか、とても寂しいのです。(どっちも結局写真撮れなかったんだよねー...(i_i) )
310.林 吉保さん
先日取り寄せた鉄道ジャーナル社のビデオ「思い出の国鉄」の第1巻に「柳ヶ瀬線物語」が収録されておりました。昭和39年5月の同線の廃線前と廃線後の国鉄バス路線の状況が良く分かる優れものでした。竹島紀元氏が監修されており前半は北陸本線時代のD51牽引の急行(多分大阪発上野行の北陸と思われる)や柳ヶ瀬線時代の単行のキハ52、木之本駅、荒廃した中之郷駅(転車台、給水槽、駅舎)、雁ヶ谷駅、疋田駅の様子が大変良く分かります。後半の国鉄バス専用道路になってからの状況も、麻生口の国道8号線との分岐点、刀根付近、柳ヶ瀬トンネル手前の雪覆い、刀根トンネル等が良く写っており廃線参考資料として大変貴重な映像でした。
311.黒水 浩司さん
小倉に帰ってみると、JR日豊本線を越えていた西鉄戸畑線跡のレンガ橋台が築堤もろともきれいさっぱり無くなってた(T_T)。工事の告知はずいぶん前から出ていたけど、この年度末で片を付けられてしまったんでしょう。
また、そこと西小倉駅間にあった留置線跡は、きれいさっぱり整地され、駐車場と化していた。ちなみに、国労の牙城であった建物まできれいさっぱり無くなっていた。ここいらまとめてマンションか何かになるんだろう。
小倉駅近辺の変貌の速度は加速する一方です。
312.チャリ駄ぁさん

はじめまして。私は趣味の自転車を利用して、よく廃線探訪に出かけますが、範囲はまだ関西圏内にとどまっております。いずれは全国の廃線跡に足を伸ばしたいのですが、実現できるかどうか…。
貴HPは以前から拝見させて頂いております。私は昨年、福知山線(生瀬〜武田尾間)の旧線跡を探訪しました。その際には、貴HPが大変参考になりました。
勝手ながら、当方にて貴HPのリンクを張らせて頂きました。私のHPでも、ささやかながら廃線跡探訪記を掲載しておりますので、よろしければお立ち寄りください。
313.TAKE.Sさん

リンクの承諾ありがとうございます。”廃線跡を旅する”よく拝見させてもらっていますが内容やページの構成がとてもいいですね。私もHPを公開していますがここを見たらまだまだといった感があります。良かったら見に来てください。少々ですが廃線のページを載せています。
314.がしこさん
とりあえず悲しいお知らせを一つ
拓殖鉄道跡で容易にたどれた、新得町のR38の跨道橋が撤去されていました
話しは変りますが、客土用鉄道の記憶はあるのですが、父親に聞いても分からず…
土を取っていた場所は分かっているらしいのですが、もう少し具体的な話しが分かれば、またご報告したいと思います
315.TTSさん

こんにちは
旧北陸本線の杉津越えや、未成中津川線、バス転換の白棚線などを紹介しています。
杉津越えの部分は全体として見ると大きな地形にそって大きく迂回しているのですが、個別に見ていくとトンネルを量産して今日の新線建設に通じるところもあり、興味深い線区です。
途切れ途切れに遺構が残るのよりも、線として続いていると鉄道が走っていた往時を思い出すことが出来ていいです。
316.うにさん

東野鉄道廃線跡などのの写真を、うちのサイトにアップしました。本物かどうかあやしいものもあるのですが、よければ見てみてくださいね。
317.はたやんさん

はたやん@鉄道遺跡めぐり です。
ホームページのアドレスが変わりました。内容は殆ど従来から変わっていませんが、気長におつき合い下さい。一部調整中につき、まだ正常に動作していない所がありますが、ご了承下さい。
318.チャリ駄ぁさん

江若鉄道廃線跡について、ここ1ヶ月ほどのうちに変化がありましたのでご報告します。
湖西線北小松駅付近から北側に伸びる築堤、これが国道脇に寄り添う辺りまでがアスファルトで舗装され、ガードレールも取り付けられました(湖西線を走行する列車の車窓から確認)。江若鉄道跡探訪のハイライトとも思えたこの築堤も、とうとう完全に道路化され、廃線跡の臭いが薄れました。
話は変わりますが、当方HPの鉄道廃線跡探訪記事に、「近鉄奈良線 旧生駒トンネルと孔舎衛坂駅跡探訪」を追加しましたので、よろしければ覗きにいらして下さい。
319.EF6480さん

はじめまして。EF6480こと三浦です。
廃線跡探訪のページより辿りつきました。作者様のフットワークの良さで全国津々浦々の廃線跡のページには脱帽です。今後の発展を期待しております。
尚、当HPでも中央本線の廃線跡ページがありますのでよろしければご覧になって下さい。
320.EF6480さん

たびたびです。EF6480こと三浦です。
この度、当HP更新(潮沢信号所、東塩尻信号所跡のページ追加)しましたのでよろしければご覧になって下さい。上記2信号所は現役時代に事前に調べたわけでもなく、たまたま停車する列車に乗り合わせておりました。それこそ、今から思うと大吉に相当するものと思います。
321.EF6480さん

ひょっとして三重連(3連発)ですか?
さて、この度当HPに中央本線穴山ー日野春、羽越本線越後寒川ー桑川の廃線跡のページの追加>及び一部の廃線跡でフレームを分けて地図とリンクさせていますのでよろしければご覧になってみて下さい。
あと、このHPの中央本線鳥沢ー猿橋間旧線でのF地点の築堤ですが宅地開発により取り除き作業が始まっており、近いうち更地となります。
322.Take,Sさん

久しぶりの記帳になります。
旧内子線ですが今年に入ってから廃線跡が急激に消えてます。私のHPの宣伝みたいですみませんが現状を掲載しています。実際には現場を見ないと判りにくいかもしれませんが”何故こんなところまで”といったところまで消えています。もう半分以上の廃線跡が消えてしまったようです、これも時代の流れってやつでしょうか。
323.T_Ishidaさん
初めまして。前々からこちらのページ、私の旅のお供になっております。
お世話様です。益々のご繁栄をお祈りしております。
ところで#265を拝見致しまして、母校からの通知を思い出しました。
やっぱり同一人物でしたか。鉄研で一緒だった気がしていたもので。
324.中井 光さん
はじめまして、nakaiと申すものです。
貴重な資料ありがとうございます。8月の末にHPで紹介されている北恵那鉄道をハイクしてきました。
木曽川にかかる鉄橋みごとでした。自分は鉄道にはとんと無知なものですが、ひとつの時代を作っていたものが、さまざまな由で役割を終え、静かに立ち尽くす様には胸打つものを感じました。
以前よりこんな旅をしてみたいと結う願望が、あなたのこのページとの出会いにより一歩踏み出すことができました。
今後ともこの楽しい旅をサポートしつづけてください。
325.椎野吾一さん

はじめまして。
貴、サイトを大変興味深く拝見させていただきました。“廃線”も鉄道趣味の中で、一つのジャンルを確立した感があります。今後も、未踏破地域の発掘に期待しております。
小生も国鉄、JR、民鉄と数々の「さようなら」列車を撮影してきました。お時間がある時に是非、お立ち寄りくださいませ。
326.はたやんさん

はたやん@鉄道遺跡めぐり です。
久々にサイトを更新し、アドレスも変更となりました。
仕事の都合、メンテナンスはもとより調査に出る機会もなくなっていますが、運営は以前に近い形で、ぼちぼちやります。
327.T.Fさん

鉄道関係のHPをJUMPして辿り着きました。
僕は北海道にいて、道外の廃線跡も見たいのですが、なかなかその機会もなく、こうやってHPを見たり、廃線関係の書籍で見るばかりです。道内の廃線跡を数少ないながら回り、撮りためた写真を公開したくて、このたびHPを作る決心をしました。
とはいえ、パソコンの知識が貧弱なので、ここのような大したものは作れないのが現状(苦笑)。
328.T.Fさん
先日はご丁寧にメールをいただきましてどうもありがとうございました。
「北海道拓殖鉄道」の跡はなかなかだとの言葉を聞いて、来年の連休くらいに、ぜひ改めて拓鉄ツアーにでも出ようかと思います。
確かにすべてのルートを網羅したレポートって見ないですよね。なぜなんでしょうか(それほど痕跡が薄いのか)?そこのあたりも気になります。何とか道東へ見に行く時間を作りたいものです。あわせて士幌線も見てこれるし。
とにかく早く雪がなくなってほしい今日この頃です。
329.T.Eさん
はじめまして、鯖浦線を検索していてこのサイトにお邪魔させてもらいました。
僕は織田町出身(大阪在住)なのですが、僕が生まれたと同時に廃線になった鯖浦線のことでたまたま調べてみたくなり、ここのサイトの鯖浦線の記事を拝見させてもらいました。
記事の中にあるとおり、ほとんど軌道跡は残ってないですね、僕が中学生の頃までは織田の駅舎や鉄橋跡がけっこうあったんですけどね。
現存している軌道跡で、僕の知る限りでは陶の谷から樫津へ行く坂道があるのですが(多分記事に出てくる県道104)樫津に向かって左側に鉄橋の土台が数箇所残っています。記事に載ってなかったのでもしかして見逃されているかなと思ってメールをさせていただいた次第であります。あと、鯖浦線の読み方ですが、少なくとも自分の周りでは(セイホウセン)と呼ばれていました。
330.塚本 雅浩さん

当サイトでも、天北線の大幅更新を行いました。貴サイトの調査時点からも、その後さらに変化したぶぶんもありますので、よろしければご覧下さい。
331.EF6480さん

ごぶさたしておりました。
このHPの中央本線、鳥沢ー猿橋間旧線でのその後の変化ですが上がちょっと顔を出しているだけのD地点の第2富浜T東口は今では完全に埋められ、F地点の築堤は完全に更地となり宅地化されます。場所は前後しますが宮谷川の橋脚のあるE地点ですが今の時期は葉が落ちておるのではっきり見渡せます。この橋脚は彫りが深いので冬の日差しがあたると大変きれいです。
あと当HPですがその後、信濃境ー富士見、薮原ー奈良井、木曽平沢ー贄川ー日出塩間や三塩軌道をUPしていますのでよろしければご覧になって下さい。
332.小沢 佳憲さん
初めて拝見させていただきました。福岡県の両筑軌道のことを調べていて、西川さんのレポートを拝見いたしました。きわめて興味深く、ご教示いただきたいと思い投稿いたします。
私は福岡県内で発掘の仕事をしている者です。たまたま先日まで田主丸町内の県道34号線沿いを発掘しておりましたところ、50立米以上にもなろうかという石炭ガラが出てまいりました。場所はおそらく両筑軌道の板町駅の近辺と思われるところで、時期的にも昭和初期かそれ以前のものであることは確実であり、両筑軌道と何らかの関連がある可能性が考えられました。
そこで、両筑軌道についていろいろと調べていたのですが、小規模かつ短期間のみの運行ですぐに廃線となり、後身のバス会社も最終的に西鉄に吸収されるまでにいくつもの合併劇によって資料が散逸してしまったようで、なかなか両筑軌道の全容の解明に手間取っております。
西川さんがお歩きになったときの参考にされた地図(おそらく大正年間の2万分1か)を是非拝見させていただきたいと思い、またそのほかに詳しい資料をお持ちの方はいらっしゃらないかと思い、書き込みをいたしました。
何かご存じの方は、こちらでもメールでもかまいませんのでご教示いただければ幸いに存じます。また、当方の調査でも何か興味深い事実が出てきましたらこちらにてご報告させていただきたく思います。よろしくお願いいたします。
333.西川 英一さん
今朝の新聞のお悔やみ欄で宮脇俊三氏がご逝去されたことを知りました。氏の一連の著作がなければこの分野がこれだけの注目を浴びることはなかったでしょう。謹んで氏のご冥福をお祈り申し上げます。
334.野口 豊さん

初めまして野口と申します。下記ご案内させて頂きます。興味のある方はご覧下さい。(編者注:終了のため、一部略させていただいております)
まちの記憶 鉄道廃線跡 利・活用フォーラム 第1回札幌開催 のご案内
当研究会は2002年4月、「エコレール」の商品化に向けた改良研究、およびまちづくりなどへの応用調査研究を目的に発足した任意団体です。エコレールとはまちの記憶である鉄道廃線跡利・活用の「ツール」として開発された木製軌道遊具です。
現在の鉄道廃線跡の利・活用状況を見渡して見ますと、地域の歴史をいま、そして未来に伝えるかけがえのない貴重な遺構であることは理解されていても、それを「まちの記憶」として次の世代に伝える、あるいはまちの元気創りに活用する事がなかなか出来ずにいるのが現状です。
しかしながら、道内各地には廃線跡を「まちの記憶」としてとらえ、まちづくりに取り組んでいる元気な地域もございます。
今回、道の地域新産業創造活動補助金も受けまして、下記の通りフォーラムを開催し、先駆的な取り組みをされている町やこれから取り組もうとしている人たちが一堂に会して、お互いに情報交換する場を設けたいと思います。
つきましては、是非ともこの機会にご出席を賜りたくお願い申し上げます。フォーラムへの参加は無料となっておりますので、お気軽にお申込み下さい。
日 時 平成15年3月27日(木) 18:00〜20:30 受付 17:45より
会 場 かでる2.7 7F 710会議室 (札幌駅から徒歩10分)・・・(編者注 終了のため以下略します)
335.yamamoto benさん
はじめまして。廃線敷きにすごくロマンを感じる48才大阪在住です。私は福井鉄道と鯖浦線とその2線の連絡線で囲まれた三角地の中で生まれ18才まで過ごしました。「皆さんからの報告」の中で冬広さんが疑問だと思われている国鉄鯖江駅からどのようにして急斜面を駆け上がっていたかを今まとめています。出来次第報告しますね。ではでは。
(編者注・レポートをお寄せいただきました。
是非ご覧下さい。)
336.小沢 佳憲さん
両筑軌道に関して投稿いたしました小沢です。紀行を掲載されました西川さんより、ご丁寧なご返信をいただきました。もう少し調査を進めて、何かわかったらこちらにご報告させていただきたいと思います。これからもよろしくお願いいたします。
337.安斎 義人さん
今月の初め松江の方に行ってきました。まだ昭和だった頃国鉄で大社駅に降りて出雲大社に詣でたのを思い出して、旧大社駅まで足を伸ばしました。
このwebPageを初めいろんなところでこの駅が保存されていることを知っていたのですが、昔の駅そのままのたたずまいでした。(廃止当時の時刻表まで残っていたのにはびっくりしました)
で、そのときに3番線にSL(びっくりしたために形式までは覚えていません)の展示がしてあり、幼稚園児とおぼしき子供をつれたお母さんが写真を撮っていました。まだ搬入して間がないのか、「ペンキ塗りたて」の張り紙だけが妙に印象に残っています。展示場としてでも残すのでしょうか。
こんどはこの辺の廃線後にも言ってみようと思っています。
338.片貝 隆浩さん
群馬県の赤城山を登る時、途中までは普通の山道なのにいきなりコンクリートでできている道が有り、頂上まで行くとケーブルカーの駅のような場所があるのですが、いったいどこの会社がやっていた何と言う路線だったのでしょうか。
ご存知の方教えてください。
339.巽 富美男さん

はじめまして。サイクリストのCHANKEと申します。
廃線跡は、これまでも旅の途中で出くわすことがよくあったのですが、最近になって廃線跡を辿ることを目的として旅するようになりました。
ことしのゴールデンウィークは鹿児島まで行って、山野線、宮之城線、南薩鉄道枕崎線、万世線、知覧線と、一週間かけて周ってきました。それで、旅の記録を整理しているうちに、こちらのHPに巡り会うことができました。(実は出かける前にも情報収集はしていたのですが、気づきませんでした。)
私の旅の記録は現在作成しているところで、とりあえず山野線と宮之城線はアップできました。廃線探索以外も含んだツーリングの記録で、HP自体が作ったばかりなのでコンテンツはほとんどありませんが、
よろしかったらご覧になってください。(トップ → 轍 → 鹿児島西部ツアー)
それと南薩鉄道知覧線の小野〜城ヶ崎にある鉄橋跡ですが、私は運良く見つけることができました。全てアップしたらまたお知らせしますので、ご期待ください。
340.kanechika satoruさん
はじめまして、私は姫路市役所の道路建設課と云う部署で「飾磨港線跡」の整備事業を担当するものの一人です。先ほど、冬広明さんの「飾磨港線跡」歩きの記事を読ませて頂き、その丹念な取材に感銘を受けました。姫路駅から飾磨港まで歩くと云うそのスローな行為自体が私には新鮮な感動を与えてくれます。
飾磨港線跡の整備なんですが、一部記事にも紹介されてましたように、現在、かなりの部分が自転車歩行者専用の「散策道」として整備されつつあります。鉄道の廃止後、JRから市への土地の買取要請もあって市政100周年記念の一環として(昭和の終わり頃何かといえばそれでしたが)、「緑道」「散策道」「グリーンロード」等色んな呼び名がありましたが、兎に角そういうものを造ることに決めたのが平成の初めでした。当初は、廃線敷を意識したようなデザインなんかもプランとしてあったようですが、国鉄精算事業団から土地を高価な値で買ったつけで整備費用に首が回らなくなったか、途中市長が交代して神戸の地震以来、「防災」がテーマになったり、紆余曲折があり、長い間「暫定」的に整備されたままか、「あまりおもしろいものではない」内容になってしまいました。

併し、2、3年前から暫定整備の部分を改造し、去年は整備区間で唯一「駅跡」の「亀山駅」にプラットホームを再現してみたり(厳密には少し北に再現、ただし記事によると「産業道路」の南にあったと紹介されてましたが、正しくは北側にありました)、少しは鉄道敷であったことも意識するようにしてます。
それでも、まったくと云っていいほど、鉄道敷の面影は失われつつあります。「散策道」も廃線敷全体の半分強です。然し、今後、残りの整備について、このホームページをご覧の方の「マニア」としての「極端」な意見でも結構です。「飾磨港線跡」を歩いてたずねて見たい人々のために整備に生かせるようなアイデアがありましたら、是非ご教示頂けないでしょうか。実は、山電手柄から姫路バイパスまでの間、市の財政難?によりJRからまだ土地を取得出来てません。特に、この間の整備について、ご意見を聞かせて頂きたく思います。
姫路市建設局道路建設課 担当 兼近、原田 (Tel 0792-21-2621)
342.G3さん
廃線について調べものをしていたところそちらのサイトに廃線の項目がありましたので筆を取りました。
さて、わたしは大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブというNPOに所属して居るのですがここで9/15に荒尾市内の三池鉄道周辺でウォーキングルートを開発するためのワークショップを行います。11月の本番(11月15日予定)ではこのときに決めたルートを回りますが、9月の際はあらゆる可能性を検討するのでよりゆっくり回ることができます。
廃線跡だけを歩くというのではありませんが、もしも興味が多少でも刺激されましたらお越しいただけると幸いです。
詳しくは下記のURLをご覧ください。
http://homepage2.nifty.com/omuta-arao_fun/tanken4/tanken4.html
343.p−ナッツさん
初めまして。北海道十勝在住のp−ナッツと申します。
北海道拓殖鉄道について、現在鹿追町の瓜幕駅跡において、10m程の線路を引き記念碑を作成している様です。これに伴い標柱は撤去されていました。
344.中村 浩史さん

久しぶりの書きこみお許し下さい。
この度,当方のHP「京都市電の廃線跡を探る」が岐阜新聞社様から本として出版されることになりました。このHPの集大成としてまとめてありますので,ご興味のある方はご購入頂けると幸いです。詳しくはHPまで。もちろん,まだまだ京都市電の廃線跡は続けて行きますので,よろしくお願いします。
345.冬広 明さん
いつも写真の無いレポートを載せていただいている冬広 明と申します.
古田さまに,山陽電車の分からなかった点に関してコメントを頂きました.有り難うございました.地下化が地震と関係があったなんて全然気が付きませんでした.私は神戸から北摂に引っ越して20年以上経ちます.地元でなくなったので線路の付け替えのニュースが分かりませんでした.線路の復旧のニュースは注意して見たのですが,何せ普段ではニュースに大きく載る事も,震災のニュースの中では小さな扱いであったのかもしれません.普通,線路は一晩で付け替えねばなりませんので,地震がそんな風に働いたなんて不思議な気がします.
皆様,今後ともコメント等,宜しくお願いいたします.
346.のぶさん
楽しくHP拝見させていただきました。
さて、私の住居の川向いには赤穂鉄道の廃線跡があります。私も子供の頃には、サイクリング&川でのさかなとり、水泳に出向くためによく利用したものです。
また、小学校を卒業する頃までは、赤穂鉄道の鉄橋も健在で学校の写生会で書いたものです。また橋脚の袂で魚釣りや、うなぎ釣りもよくやったものです。
現在は、橋脚の跡だけが残っています。また橋脚の下流にも橋の桁の跡があって子供の頃には何だろ?と思ったものでした。(現在もよく判ってません(^^; )
あと、うちの父親が幼少の頃にはまだ鉄道が健在で運行されていたようで、
その頃の話をよく聞いたものです。
その中で、真殿給水所(旧真殿駅舎)では、水(これは、山水が主な給水源であったそうです。その頃には、山水を蓄えるタンクがあったようです)そのタンクの水が冷たいので父は友人や兄弟(ほとんど兄)とタンクで泳いだりして悪さをしたようです。
そのときに水以外に、砂も補給していたそうです。理由は、あとで教えてもらったのですが、何でも、赤穂市内から有年まで(当時は国鉄有年駅)客車以外に貨物輸送が主であったようで、塩は有名ですが、それ以外に
農繁期になると米の供出で運搬をしていたようです。
当時は国鉄有年に米の倉庫(政府管理)がありそこに集めて国鉄の貨車で出荷していたようです。その際に貨車以外に客車も一緒に運行されていたようで、あまりにも重い貨物と乗客の場合に、レールに砂を撒いて、レールをなるべく滑らないようにしたそうです。それでも動かないときには乗客が後ろから貨車を押したそうです。
父もおじいちゃん(私から見て)と一緒に押したようです。当時は、根木駅の近くで精米所をやっており、精米後の米も出荷(?)していたようで、そのときに手伝い(?)をしていたようです。
他にもたくさんあるようですが、今度機会を見つけて父に聞いておきます。上記の話は、私が地元の歴史を学校の宿題で調べるときに聞いて強烈に印象に残っている話でしたので。
347.のぶさん
赤穂鉄道ではありませんが、会社の近所に「北沢鉄道」の廃線があります。場所は、兵庫県のJR網干(あぼし)から南に向かって5kmほどでしょうか?網干から姫路木材港までありました。
現在でも網干駅の近辺にはレールの跡などが残ったままとなっており、またJR網干駅南口には、その頃の先導車が展示してあります。昔は、なんでもブラウン管の原料などのガラスを運搬していたそうです。
終着の木材港には、今でも北沢ゴルフ練習場があり、鉄道を経営していた会社(北沢産業)がゴルフ練習場も経営しているそうです。
目新しいものは何もありませんが一度探索されてみてはいかがでしょう?
(編者注・レポートをお寄せいただきました。
是非ご覧下さい。)
348.のぶさん
父に聞いた、赤穂鉄道のお話の続き。
まず、私の住居が真殿駅跡の対岸に位置しますので、真殿駅からの話になります。当時、真殿駅には、引き込み線があり、その引き込み線には、客車が配置されていたそうです。その客車を給水時などに連結し、混合車両として運行していたそうです。当然、客車だけでなく、貨車も基地として使われていたそうです。父は、よく、客車のガラスを外して持って帰っていたそうです。(もう今となっては時効でしょう!(^^; )
あと、冬広さんが当たりに民家のが無いと、記述されておりますが、それは以下のことです。
昔々には、真殿駅の沿って川沿いに集落があったんですが、洪水などで、現在集落のある場所に移転したそうです。しかし、村の神社(荒神社)は今でも真殿駅跡のはずれの山沿いにあり現在も対岸の集落の人の手によって、手入れされ、奉られています。私は、その集落ではないので、村に荒神社があります。
では、どうやって対岸の父は汽車に乗っていたのか?それは、川にロープを渡しておき、そのロープを伝って、船を対岸から駅の近くまで引き寄せて乗車していたそうです。汽車を降りて、自宅に帰るときには逆のことをして、帰宅していたそうです。
次に周世(すせ)駅ですが、父が幼少の頃(少年の頃)に駅の周辺の田んぼにあった、藁倉に客車から飛びついて降りていたそうです。<※藁倉とは、北海道のサイロに似た形に藁束を集めて、農閑期の道具などの日用品を作る材料とするためのものです。私が幼少の頃には、仮面ライダーごっこで、蹴っ飛ばして倒して遊んでいました。当然、所有者のおっちゃん(ほとんど同じ村の人)によく怒られました(^^;>話がそれましたが、こうやってよく降車していたそうです。乗車の場合は、走って追っかけて乗車したようです。
あとやはり対岸にも集落がありますので、乗車、降車後には、当時は人が渡れる橋があり、その橋を使って駅まで行ってたそうです。父も歩いてかえることが出来るので、周世駅で降車して橋を使って友人宅や、自宅に向かったそうです。
次に高雄の鉄橋ですが、鉄橋の下流にも橋があり、人や、リヤカーなどが渡れる橋であったようです。(鉄道ではなくてすみません)
次に根木駅ですが、このにも引き込み線があり、ここには客車ではなく貨車を保管する基地であったようです。場所は、私は判るのですが、ここで説明は難しいですねぇ。(笑)
また近くに農協(当時も農協だったのかな?)がありそこで米を倉庫に保管するので、そこから貨車に積み込むこともあったようです。その頃は米は政府の管理管轄であったために厳しかったそうです。(食管法でしょうか?)
赤穂の城下付近では塩を積み込み、根木あたりでは米を積み込み有年駅まで運んで、国鉄貨車に乗せて、全国へ配送していたんでしょうねぇ。
また、根木駅では、車両の入れ替えが出来るようになっており、のぼりとくだりの汽車がすれ違いも出来たそうです。
次は目坂駅になるのですが、これはまた今度聞いておきます。何なら直接父に聞いてもらってもいいですよ。(^^;
349.もとさん
のと鉄道の穴水-蛸島間の廃止が決まりました。
早ければ来年3月にも廃止になるそうです。
石川県は鉄道に関しては退廃的です。
350.松尾 弘毅さん

今度100年前の時刻表「全国汽車鉄道便覧」という大変珍しく貴重な資料の復刻版を作りました。 時刻表ファン必見の書です。 是非私のホームページをご覧下さい。