■後編-2

監視カメラもものともせず更に奥に(北に進みます)。
(そのうち不審者として通報されていたりして(^^;  )
すると駐車場の奥に橋を発見、当時もここには川があって橋であったそうですが、現在は軽量なものしか通過しないのか簡素になっています。(写真27参照)
でも短いものですので当時でも十分だったのかも知れません。

さて、この写真27の右半分になにやら会社の塀が映っていますが、ここがこの鉄道が敷設された最大の目的地である工場です。
そう、ここは、東芝姫路工場の西端にあたります。
当時はこの工場に原料(ガラスなど)を運搬、そして製品を搬出する目的で鉄道は設置されたと会社のおっちゃんに聞いたことがあります。
※会社のおっちゃんは沿線の住民であり当時は自分の畑が路線に掛かったので、かかわりがあったそうです。

写真27
写真27
写真28
写真28
写真29
写真29

奥行きはずいぶんとあります。(写真28,29参照)
それで当時は、ここには貨物などの操車ができるようにポイントなどがあって積み込みができる様になっていたようです。(詳しくはまた会社のおっちゃんに聞いてみます。)

その工場の敷地をものともせず更に北に進みますと・・・・・
その東芝の正門前のとおりに出ます。(写真30参照)

そう、ここにも踏み切りが設置してありました。今はその路線跡だけが残っています。
そして北を向いて撮影(写真31参照)
写真にある交番が、当時は踏み切りの横にあり、踏み切りの一旦停止をよく取り締まっていた交番です。(その名も東芝前交番と言います。)

写真30
写真30
写真31
写真31
写真32
写真32

ここで、踏み切り跡南にあるタバコやの前に懐かしいものを発見!(写真32参照)
なんだろう?と思って近寄ってみると・・・昔々の国鉄の貨車でした。
今は倉庫として使用されているのでしょう。
製造は・・・おお昭和39年って・・・自分の年齢と同じというのもなぁと・・
変に関心してしまいました。(写真33参照)

そして、東芝前交番から、踏み切り跡に向かって一枚!片隅に東芝の工場の建物が映っています。(写真34参照)

写真33
写真33
写真34
写真34
写真35
写真35

やはり路線跡は住宅地へと姿を変えていました。その住宅地の北角には・・・
当時の橋(?)の跡がまだ残っておりました。(写真35参照)

そして、やはりお約束(?)振り返って一枚!(写真36参照)

更に北に伸びる路線跡、ここは近所の子供の遊び場のようです。(写真37参照)
※写真37の路線の真中にいるのは私の子供です。やはり彼も線路は大好きらしく元気よく走っていきました。(笑)

写真36
写真36
写真37
写真37
写真38
写真38

その途中には、これまた踏み切り跡があります。(我が家のぼーずはここまで走っていきました・写真38参照)

そして・・またもや(何度目だ?)お約束で振り返って一枚!(写真39参照)

踏み切り跡から北を向いて一枚パチリ!(写真40参照)
そして、踏み切りあとを更に北に向かって行くと・・小さな恐らく当時は何もなかったとおもう踏み切り跡が・・・・(写真41参照)

写真39
写真39
写真40
写真40
写真41
写真41

そして、その小さな踏切跡から北に向かって一枚!
おやぁ、路線がカーブしているぞ!いよいよ終着が近くなってきました。

おっと、忘れるところでした。振り返って・・・はい!ちーず!パチリ!(写真42参照)

そして、ちょっと進んで一枚!(写真43参照)
2本の塔のようなものの後ろにJRの架線の一部が見えます。そうそこは終着(本当は始発)のJR網干駅です。(当時は国鉄ですね)

写真42
写真42
写真43
写真43

もうあたりが暗くなってましたので、網干駅に移動しました。
そして、網干駅の西にある踏み切りからパチリ!(写真44参照)
写真44の奥に柵らしきものがありますがそこに先ほどのカーブして路線がつながっていました。JRの柵は右に見えます。
左の建物は、本田酒造と言いまして、「龍力」という日本酒を醸造している蔵元の建物です。

そして、最後にJR網干駅南側に展示してある、北沢鉄道の気動車です。(写真45参照)
当時はこのあたりに事務所やらなにやらあって、国鉄の貨物の中継とか自社の運んだ貨車を入れ替えしていたりしたいたようです。
現在は、自転車、自動車の一時預かり所として跡地を利用しています。

写真44
写真44
写真45
写真45

簡単ですが、これで全線です。