1. 廃止路線(歩いたところに関係する所のみ)


a. 加茂─大仏─奈良(関西鉄道 通称大仏線)

  加茂─大仏            8.75km 1898.04.19 開業
  大仏─奈良            1.15km 1899.05.21 開業
  加茂─大仏─奈良 1907.08.21?廃止


b. 加茂─新木津(関西鉄道)

  加茂─新木津           6.12km 1898.11.18 開業
  加茂起点5.31km─新木津 1907.08.21?廃止


c. 田井ノ瀬─紀伊中ノ島─紀和(紀和鉄道→関西鉄道→国鉄和歌山線)

  船戸仮─紀伊中ノ島─紀和    11.04km 1898.05.04 開業
  田井ノ瀬─紀伊中ノ島─紀和 1974.10.01 廃止

関西本線の路線変更については資料が見つかりませんでした。



2. 列車運行状況

 田井ノ瀬─紀伊中ノ島─紀和(旧和歌山) 30〜60分毎(1965年頃) 

大仏線については不明。



3. 廃線の状況(廃線跡を歩く2も参考に)


3.1 加茂起点5.31km─新木津について
奈良線との交差部分
写真1 奈良線との交差部分(新木津駅跡側から加 
    茂方を見る。奥の関西線がわかると思う。) 

 関西鉄道の頃の木津駅北側は、現在のように関西本線が加茂側から木津方へ合流する形ではなく、奈良線(当時奈良鉄道)の下をくぐり片町線(当時浪速鉄道)の方へ合流する形になっていました。その合流点にあったのが新木津駅でした。その構内跡は現在広い駐車場になっています。古地図では北側に広い駅前通りが見られるのですが、それらしき道は新しく住宅が建っていたこともあり、見あたりませんでした。

 ちょうど片町線との分岐点付近に踏切がありますが、それを南に見てまっすぐ関西線方に向かう側道が廃線跡です。道なりに国道(関西鉄道時にはなかった)をくぐると、奈良線との交差部分に着きます。その部分にはイギリス積みの煉瓦でできた橋台が残っています。(写真1)ちょうど幅は単線の幅でしたが、高さは4mと気のせいか低いような気がしました。それをくぐり道なりに進むと、自然に現在の関西本線に合流していきます。


3.2 旧関西本線鹿背山トンネル付近について

 現在の地図での鹿背山トンネルの南側に曲がった切り通しが確認できますが、これが関西本線の旧線です。その切り通しが始まるところに細い道路があり、橋がかかっていますが、そこから現在線の方を見ると見事なほどの分かれ具合になっています。(写真2)その切り通しですが、ほぼ自然に戻っていて、水もたまっているので歩ける状態ではありません。道なりに歩いていくとトンネルの坑門が下に確認できます。残念ながら下に降りられる所は見あたりませんでした。

分岐点
写真2 旧線と現在の関西本線の分岐点       
   (加茂側から木津方を見る。旧線は手前へ伸 
   びる切り通し。現在線は奥から手前右へ。)
     
トンネル東側切通し
写真3 旧鹿背山トンネル東側切り通し 
   (旧線はコンクリート橋の下を 
   左右方向に。)       

 加茂側の坑門ですが、私有地内ということもあり、その位置を確認することはできませんでした。その坑門のすぐ脇に、地図では点線で書いてある農道があります。奈良保線区長名の注意看板が農道の始点に立っているのでわかると思います。それを奥に入ると、坑門東側の深い切り通しが確認できます。(写真3)旧関西本線はその切り通しを抜け、地図にある崖から確認できるように、崖の下をなめらかなS字を書いて現在線へ合流していきます。その部分は竹林などになっていて歩ける状態ではありません。

 ちなみにトンネルに沿った道沿いには、旧関西本線に使われていた枕木が柵として使われています。


3.3 加茂起点5.31km─大仏─奈良について

 加茂側分岐からしばらくは、上に書いた旧関西本線とほぼ同じルートをたどっていきます。ただ違うのは、分岐点から上り調子一本であることです。先ほどと違い大仏線はS字の崖の上を通っていく形になります。脇の道からは所々に立派な石積みの橋台が確認できます。先ほど書いた農道の所では、盛り土が確認できます。つまりこの農道は、大仏線の盛り土を越え、旧関西線の切り通しを渡っているわけです。廃線跡はその後、舗装された道へと自然に合流していきます。

奈良線との交差部分
写真4 旧鹿背山トンネル上の大仏線跡 
   (右へ折れる道側にある高木の下 
   あたりがトンネル入口。大仏線 
   は手前から奥左へ。)     

 旧関西本線鹿背山トンネルの木津側坑門を北に見て、廃線跡は奈良方へ緩やかなカーブを描いて分岐していきます。(写真4)その後、写真1を撮った橋のある道路と廃線跡が交わるところに、イギリス積みの煉瓦でできた橋台が確認できます。下梅谷の集落までは、廃線跡らしい?道が続きます。

 廃線跡の下梅谷から南の部分は2車線の県道になってしまい、雰囲気を感じる取ることは難しくなっています。下梅谷のすぐ南には、木津南ソレイユという住都公団の団地が造成中であったので、もしかすると、今までの部分も危ないのかもしれません。

 奈良ドリームランドまで県道上を走っていた廃線跡は、鴻ノ池の西でその道と分かれ、南にある消防署の方へ直進していました。地図にも載っていないそれらしき道があったのですが、廃線跡と断定するには至りませんでした。その後交番の方へと廃線跡は向かっていました。その交番の南側に大仏駅があったそうですが、その痕跡はまったくわかりません。その交番を南に行き、佐保川とぶつかったところに、大仏線を記念したモニュメントがあります。

 本にもあるように橋台跡らしい部分が佐保川の北側に見られます。廃線跡はそれから奈良商科大学のキャンパス内を通り、関西本線に合流していきます。現在の地図で、大学の南の関西線の東側に白く空いた土地が確認できると思いますが、そのあたりで合流していたと思われます。


3.4 加茂駅付近について

 大仏線の開通時に加茂に機関庫があったとのことだったので、加茂にも行ってみましたが、広い構内がそれを思い起こさせるだけで、特にそれといって残ってはいませんでした。強いて言えば、加茂駅の南にある小学校の線路側に、関西本線の旧線時代に活躍したと思われる機関車(C57 36)があったくらいです。


3.5 田井ノ瀬─紀和について

 その当時の和歌山駅(旧)というのは現在の紀和駅のことで、現在の和歌山駅は東和歌山駅と言っていました。その頃の東和歌山駅北側は、現在のように和歌山線が橋本側から東和歌山方へ合流する形に加え、阪和線の下をくぐり和歌山駅(旧)の方へ合流する形もありました。というよりもそれが本線で、現在の和歌山線ルートは、和歌山線から紀勢線方面への連絡線(主に貨物)扱いでした。

奈良線との交差部分
写真5 旧線と阪和線との交差部分   
   (田井ノ瀬側から紀和方を見る。)

 現在の紀和駅ですが、駅舎のあるホーム1面しかありません。これが和歌山駅だったのかと思うと非常に寂しい限りです。そのころの名残といえば側線のある広い構内だけです。

 線路沿いに西へ向かうと踏切があります。現在線は西に見える団地群の南へ折れる形になっていますが、廃線跡は団地群の北側を直進する形になっていました。その団地群の北側には、紀和駅構内よりも広い空き地があります。その空き地に西の端、阪和線との交差部分には、単線幅の赤いガーダー橋がかかっています。(写真5)そのあたりにあったのが紀伊中ノ島駅でした。現在の阪和線紀伊中ノ島駅とは連絡されていましたが、ホームを含め、その名残はわかりませんでした。

 交差してしばらく行くと一般道と交差する部分がありますが、そこには踏切の土台、およびそこが廃線跡だという証拠である国鉄事業団の看板があります。(写真6)立入禁止とありましたが、近所の人はそこで犬を散歩させていました。

分岐点
写真6 田井ノ瀬方へ向かう廃線跡    
   (紀和側から田井ノ瀬方を見る。  
   手前左下に踏切の土台跡がある。)
     
トンネル東側切通し
写真7 旧線と現在の和歌山線の分岐点   
   (田井ノ瀬側から紀和方を見る。旧  
   線は手前へ伸びるコンクリート道。)

 現在の和歌山線との分岐点近くにも踏切があり、そこから先ほどのガーダー橋に向かって現在線の北側に直線の道が続いているのがよくわかります。(写真7)これが廃線跡で、そのコンクリートの幅はほぼ線路の幅(1067mm)でした。廃線跡は踏切のところでとぎれますが、その東側には線路があり、現在は信号所として使われています。


(参考)廃線跡に関係がある奈良交通バス路線

109系統 JR奈良駅─近鉄奈良駅─奈良ドリームランド─下梅谷─加茂線
111系統 JR奈良駅─近鉄奈良駅─奈良ドリームランド─下梅谷─浄瑠璃寺─加茂線
?系統 近鉄山田川駅─JR木津駅─鹿背山線

JR奈良駅は9番乗り場です。JR奈良駅─下梅谷間 約20分 520円


4. 参考文献、資料

鉄道廃線跡を歩く2 宮脇俊三編著
国土地理院地図 50000分の1 奈良(T3)
国土地理院地図 25000分の1 奈良(H6)

以上