上砂川町が上砂川町でなかったころ(砂川村だったころ)、大正3年8月に炭鉱の町としての第一歩を踏み入れた。当初は、石炭の質が悪かったことや鉄道がある場所までの輸送手段が、馬車もしくは馬ソリしか無かったため苦難の日々を送っていたが、良質の石炭が出るようになったことと、第一次世界大戦による工業界の発達による石炭の需要が増大したため本格的な企業計画が進められた。
その一つに鉄道敷設計画があり、大正6年3月に鉄道院に申請『三井鉱山合名会社が鉄道用地を買収し鉄道院に寄付、工事は鉄道院が行いそ経費は三井で負担』ということで同年7月に認可され秋に着工、11月5日から運行を開始し、翌年6月に全ての工事が完了した。
これに伴い駅名を色々と考えたすえに、当時砂川村だったこの場所を、砂川の上の方に位置することから「上砂川線」と命名した。
上砂川線の開通により、石炭の売れ行きと三井の事業が伸び、従業員の増員と商店街の増加で、人々はこの地域と砂川村との往来が増えたが、蒸気機関車は長い炭車の列をうならせ、馬車や馬ソリ、徒歩を横目にレールをきしませて進んでいた。そう、機関車運ぶのは石炭一本。石炭を運ぶために設けられたのだから。
しかし、住民は歯がゆい気持ちに奮い立ち鉄道省に陳情した結果、大正15年8月1日から旅客扱いの運行が開始されることになり「上砂川駅」が設置された。
これにより、いつしか駅を囲む市街地区と炭山地区を「上砂川」と呼び、開墾当初からあった鶉地区と区別するようになった。これが、後々上砂川町誕生の起源ともなる。
国鉄上砂川線は、石炭輸送を第一として考えていたため7.3Hの区間に中間駅のない珍しい線区であった。しかし、居住区が市街地区から広がりを見せると、そこに住む人たちは交通手段の不便さから、中間駅の開設を要望する声が高まった。そして、昭和23年10月1日に「鶉臨時乗降場」として開業、昭和28年8月に「鶉駅」に昇格し、乗客の乗降のみだったが手荷物も扱うようになった。
昭和34年5月に、国鉄の住民サービスによる増収方針と、住民の願いが一致して「下鶉臨時乗降場」と「東鶉臨時乗降場」が設けられた。ちなみに、昭和35年2月に下鶉臨時乗降場が下鶉駅へと昇格、東鶉駅については、詳しい資料が無いためなんとも言えない。
上砂川駅の開通により活気に満ちあふれた上砂川地区は、人口が増え「石炭の町」にすべく住民が運動を展開し、昭和24年1月1日に一つの町として独立し「上砂川町」が誕生した。けれど、そんなことをよそに上砂川線とSLは、相変わらず忙しい日々を送っていた。巷で動力のジーゼル化と電化が進む中で。また、昭和49年から50年にかけてはSLを使って作業する所が、全道的にも少なくなったせいか鉄道マニアやSLファンが沿線や駅構内に群れ、熱心にカメラのシャッターをきる光景が見れた。
しかしそのSLも昭和50年11月4日に、最後の「D51(デゴイチ)603」が上砂川から砂川へ勇ましく黒煙を吐き駆け抜けて、この線から姿を消した。
昭和35年7月に東鶉臨時乗降場が、昭和59年3月には鶉駅、下鶉駅がそれぞれが無人化になった。これは、自動車社会の急成長にあおられ、余儀なく合理化への道を進むしかなかったからだ。そして、昭和62年4月には上砂川駅までもが無人化になった。
昭和59年3月から放映されたテレビドラマが、その当時ブームを巻き起こし、悲別駅こと上砂川駅に乗用車やオートバイで、あるいは上砂川線に乗って観光客が訪れるようになった。
そして、昭和62年の無人化に伴い、民間の団体「炭鉱のまち若者の会」が、道内初の無人駅の再利用として、女性の私設駅長を任命して観光案内などで、観光客が増え続けた。これと併せて、今では死語になりつつある「みつばち族」が現われ、ブームの流れで駅舎の一部がライダーハウスになっだ。そして、この駅を毎日、いや毎夜毎晩にぎわした。そう、訪れたライダーは「地元の若い人と遊べて楽しい」といって2か月も3か月も住み着くぐらいに。しかも、嫁さんまで持っていく始末になった。
平成2年3月になって、ワンマン化になった上砂川線。観光客は訪れるものの、この線の利用客は減るいっぽう…。
平成6年5月15日、廃線を明日に控え「上砂川支線お別れ式」が行われた。この日、炭鉱のまち若者の会も世話になったこの駅に、ひと花を咲かせてあげようと出店などで盛り上げ、列車がホームに着くたびにはきだされる鉄道マニアや観光客で、3,000人以上もの人で駅は最後の盛りを見せていた。
式が始まり歴史をたたえた言葉が出ると、フラッシュの閃光が雨あられのようにほとばしり、訪れていた倉本聰さんにカメラが向けられ、鉄道マニア囲むように式場に壁を作っていた。
そして、日が落ち蛙の声が響きわたっていた午後8時54分。炭鉱のまち若者の会の人たちが地元の人たちが、腕を組み肩を抱き「22才の別れ」を唄いながら最終列車を見送った。みんな、星の数ほど涙をこぼして…。
5月16日、75年の歴史に幕を引いた。
翌年の平成7年4月21日から活動を開始した「JR上砂川線跡地等利用計画策定審議会」が、4回にわたり検討を重ね11月21日に、町へ答申した。その主な内容は、町道の建設と駅舎の保存である。現在(平成8年7月末日)では、駅舎は一部取り壊しと移設の準備を進めている。また町道は、旧上砂川駅跡地付近から400mほどレールが撤去され、そして舗装された。今もなおこの作業は進められている。
今後の展開として、線路跡地を挟んで道道と町道が平行して延びてるこの道路の間に連絡路を設け交通網の強化を図るため、レールを撤去し何本か建設する予定。
行政の開発に伴い着実にレールは消されていく。
数十年後の上砂川には、全盛期だったあの頃の面影が何一つ残っていないのだろうか。