この鉄道は、日本最大の亜鉛鉱山である神岡鉱山の鉱石、及びその精錬に必要な硫酸を運ぶために、大正4年に富山軽便鉄道の笹津から茂住までが開通した軌間762ミリの馬車鉄道を起源とする、典型的な鉱山鉄道である。大正9年には船津町まで開通し、同12年に一般営業を開始、そして輸送量の増大を受けて、昭和2年に動力近代化(内燃化)を果たした。このとき、三井鉱山の所有になるとともに、軌間を鉱山の坑内軌道と同じ2フィート、つまり610ミリに改軌(通常と異なり、縮小ではあるが)した。

この鉄道の最大の特徴といえば、なんといっても高原川がえぐった深い断崖を進まなければならなかったために、日本一の亜鉛鉱山をバックにしながらも、線路幅がおもちゃのような幅しかなかったことである。このミニチュアのような鉄道が、断崖絶壁の中をトンネルや落石覆い、スノーシェッドなどで線路を防護しながら、まるで地図上の等高線に沿うかのように、くねくねと曲がりくねりながら走っていた。それでもやはり走行中の貨物列車がまるごと谷底に転落したり、輸送中の金塊がなくなったり(まあこれは盗難であるけれども)したこともあったという。
昭和5年の国鉄飛越線(現高山本線)の笹津〜猪谷間の開通をうけて、猪谷で神通川をまたぐ大橋梁を建設し、翌年の完成とともに国鉄接続駅を変更したため、猪谷〜笹津間は開通後わずか16年で使命を終えた。そして、この鉄道が本格的な旅客営業をしていたのは、昭和23年11月から昭和37年1月までの間だけ、それも一日2〜3往復程度だったというが、基本的には鉱山鉄道として、鉱石や硫酸を運び続ける使命を全うした。ちなみに神岡から猪谷へは、約2時間を要していたという。
昭和41年10月に、国鉄神岡線(現神岡鉄道)が開通したことを受けて、茂住以南を廃止、残る区間も半年後に全廃された。

この区間は、すでに廃止されてから70年もの年月が経過しているため、軌道の痕跡は非常に見つけにくくなっている。
それでも笹津の国道脇には橋脚跡が残っているほか、実をいうと、そのほかにも軌道跡と思われる場所は、少なからずあるにはある。もっとも、ただの小径や林道跡かもしれないような、廃線跡であるという確証が持てないものがほとんどであるので、ここでは間違いなく廃線跡であると断言できる地点のみを御紹介しよう。
国道41号線の庵谷トンネル南口から、神通川方面に道路を降りていくと、吉野橋という橋がかかっている。ここの東詰を左折して、神通川右岸の道路を500mほど北上すると、右側に沢のある小さな谷がある。ここを少し登ると、この沢を越えていた軌道の橋梁跡が、橋台のみではあるけれど、しっかりと残っている(A地点)。
 |
| 山の中にひっそりと残る橋台(2本の杉の奥) |
さすがに橋台は完全に苔むしてまわりの景色と同化しており、うっかりすると見落としてしまいそうなほどであるが、よくよく目を凝らしてみると、ちゃんと対になって残っているのが認められる。
また、ここからさらに200mほど北上した杉林の中にも、山の斜面を進んでいた軌道敷を支えていた石垣が、美しい姿もそのままに、一直線に残っているのは感動ものである。
この付近は杉の植林地帯になっていて、比較的見通しがきくので、そのほかの雑木林の中に比べると比較的跡が見つけやすいといえる。ただ、軌道跡の上にも充分に成長した杉が整然と生えていて、今では杉林の中に石垣をとってつけたようにも見える。
さらに北上しても同じような跡は散見されるし、少し南の方に行ってみても、トンネル跡のようにも見える洞穴があったりする。体力と根気のある方は、一念発起してチャレンジされると、意外な大発見があるかもしれない区間である。
 |
| 猪谷を出てすぐの大橋梁跡。右写真では、橋梁の神岡方からすでに右カーブが始まっていたことがよく分かる |
猪谷駅には、軌道から国鉄への鉱石積み替えの為に巨大なホッパー施設があって、構内も広く、ところ狭しと貨車が並んでいたが、今はがらんとしていて、一部は神岡鉱業の社宅になっている。

ここから、廃線跡は現在の神岡鉄道とは反対方向にいったん北上して、線路幅610mmの鉄道としてはあまりにも不釣り合いに見える、全長294メートル、水面からの高さ55メートルという大橋梁によって神通川を渡っていた。
うれしいことに、この大橋梁は橋台や橋脚が付近の線路跡とともにいまだに残存していて、充分に当時を偲ぶことができる(B地点)。残存している橋脚の高さが低いように思うかもしれないが、この橋梁は橋脚の大部分までもがトラス構造であった、美しい橋梁であった名残なのである。
大橋梁を渡った後、軌道はほぼ直角に右に曲がって、笹津からの旧線のラインと合流していた。ここからしばらくは、高原川沿いの道路よりはかなり高い所を走っていたので、東猪谷駅跡(跡は残っていないようであった)の前後を除いては、廃線跡に近づくことは不可能に近いし、なにしろ危険である。「灯台もと暗し」の諺どおり、廃線跡直下の道からよりは、川の対岸の国道から見た方が、断崖を削ってなんとか歩を進めていた軌道跡がよくわかる。
それにしても圧巻なのは、現在の神岡鉄道の飛騨中山駅付近、国道41号線でいうと高原川橋の手前付近からの眺めである。目もくらむような断崖絶壁の中を、ちっぽけな落石覆い等で防護しながら、細々と進んでいた廃線跡がよく見える(C地点)。これは下から見ていても恐ろしいほどの、何度見ても驚く印象的な風景であり、よくぞこんな所に線路を通したものだと思わずにはいられない。
 |
| 飛騨中山駅付近からみた廃線跡(左図の断崖の削られているところ/右は拡大、落石覆い等が見える) |
このように、普通の鉄道は川沿いの低地を通るという常識に反して、この鉄道は主に山の中腹を進み、谷がある所では橋梁の長さを短くするためか、等高線に沿うように迂回してから谷を渡っているのが興味深い。途中、国道から見た軌道跡の高さが低くなるところもあるが、そういうところに限って、国道の巨大な落石覆いに隠されて、道路から軌道跡が直接見えなくなっている箇所が多いのは残念である。
やがて茂住に着くが、軌道跡はそのまま茂住坑の敷地内を突っ切っている。ここは立ち入らずに、現在の神岡鉄道の茂住駅の対岸付近から人道を登っていくと、鉱山住宅跡の先に、今なお橋梁が残っている(D地点)。ただ、軌道跡には屋根がついて、パイプライン状のものが敷かれ、茂住坑の施設の一部になっているようである。
三重県の津とならぶ一文字駅であった土付近でも、跡津川の谷を水力発電所のあるところまで登ってから川を渡っていた。ちなみに、この橋は今でも上に板を敷いて現役の橋として使われているし、さらに進むと小さな橋梁跡に続いてトンネルの跡もある。
さらに牧から漆山の集落にかけては、軌道跡が国道のすぐ上を走っているのが発見できる(E地点)。なかには、国道のすぐ横にトンネルが口を開けている所さえある(F地点)。
このように、このあたりはいくらでも跡が残っているし、立ち入りもそれほど困難でない所も多いので、全線の中で探索にはいちばんマシである。とは言っても急斜面もあり、安全には充分気をつけていただきたい。
神岡に近づくと、鉱害のせいか、山肌が荒れてくる。軌道は、旧道とともに高原川の右岸を進んでいたが、山に保水力がなくなっているせいなのか、至る所でガケが崩れて、軌道跡のみならず、その下の旧道もろとも流失しているところもあり、この軌道のきびしさを今に伝えているかのようだ。
|