ガイド 金名線 加賀一の宮〜白山下間

加賀一の宮の駅はもともと相対式のホームをもつ列車行き違い可能駅であったが、今は風格ある木造の駅舎は健在であるものの、一本の線路が行き止まりになっているだけの無人駅となっている。ホームの端から少し進んだところでレールは途切れているが、この金名線の場合は能美線に比べて山間部で沿線の開発があまりなされていないためか、路盤はごく一部を除いて残存しており廃線跡を見失うことはない。ただ、レールや枕木、架線柱のたぐいはすべて撤去されている。
廃線跡は国道157号線と手取川に挟まれた形で緩やかに登り勾配を続け、やがて右に曲がって中島の集落をすり抜け、手取川にぶつかる。そう、ここが”あの”中島鉄橋があった場所である(E地点)。金名線跡の主な鉄橋の中でここだけ橋梁が撤去されていて、現在は橋台を残すのみとなっている。そばの雑貨店のおばあさんに訊ねると、この鉄橋の広瀬側の岩盤の亀裂が原因で列車が走らなくなったのだという。見れば亀裂らしき割れ目があるようにも見えるが、素人目にはこれが危険なものなのかどうかは分からない。
ついでに手取中島駅跡の場所を訊くと「駅じゃなくて停留所が橋のすぐ手前にありました」という。このおばあさんは何度も「停留所」を強調していたので、地元では停留所で名が通っていたのかもしれない。なお、中島鉄橋には南にある道路橋をいったん渡って広瀬駅跡から加賀一の宮方面に引き返しても行くことができるが、こちら側は橋跡の手前で資材が積まれているために少し線路跡からはずれないと鉄橋跡を見ることができない。
中島大橋跡、向こう側の岩盤の亀裂が原因でこの鉄道が廃止に至った

これから廃線跡は終点までずっと手取川の左岸をさかのぼってゆく。駅跡はホームが撤去されて何も残っていないが、大日川の駅跡は河合鉱山の木造のホッパーが残っている(鉄道当時に使用していたものかどうかは不明であるが)。
そして大日川駅跡を出て左に曲がると大日川を渡っていた大日川橋梁が赤茶けた姿を今に残している(F地点)。実はこの大日川橋梁も路線休止の前年に、老巧化による鉄橋崩壊の危険により列車を運休して大修理したことがあるという、いわくつきの鉄橋である。鉄橋の橋梁の東面には「大阪汽車会社」と書いてあるように見えるが、かなり錆びていて確信しかねる。ちなみに大阪汽車会社は実在した会社で、のちに汽車製造を経て川崎重工と合併した車両メーカーであったが、橋梁も製造していた。ただ、鉄橋になぜ鉄道名でなく、製造メーカーの名前が書いてあるのか不思議である。
大日川を渡っていた鉄橋跡
廃線跡は下野、上野の集落をかすめるようにして進み、一部並行道路の拡幅に利用されたのち、広い構内を感じさせる駅跡に着く。ここが主要駅のひとつであった釜清水の駅跡で、最盛期には金沢方面からここまで直通急行も乗り入れていた。ここも駅舎や島式ホームは撤去されて、残っているのは道路と駅舎の段差を埋めていた3段ほどの階段のみであるが、駅跡の横には倉庫がいくつもならび、ここが付近の物資の集散地でもあったことを偲ばせてくれる。

釜清水の集落を越えると廃線跡は付近の水田より少し低いところを進み、やがて下吉谷の駅跡に着く。この駅はおそらくホーム一面しかないちっぽけな駅だったのであろうが、並行道路と駅跡の間に大木が立ち、横には民家があって、なかなかたたずまいが絵になる駅跡である。
下吉谷駅跡
もうここまでくると終点も近い。何も残っていない西佐良と三ツ屋野の駅跡を過ぎ、左方から迫ってくる川に押されるように大きく右にカーブするとやがて白山下駅跡に着く。ここは沿線で唯一駅舎とホームの一部が残っていて、鉄道代替バスといえる加賀白山バスのバスターミナル兼運転手控え室となっている。駅舎入り口の上には「白山下駅」と誇らしげに書いてあり構内跡もかなり広いが、線路が撤去された構内はバスが体を休める場所になっている。そして突然あたりの静寂を破るようにエンジンがかかったかと思うと駅前から無人の鶴来駅行きのバスが発車していった。
白山下駅跡
北陸鉄道あとがき
地図を見ると一目瞭然だが、手取川のつくった谷に沿って金名線が敷かれ、鶴来から広がる手取川の扇状地の右端に沿うように石川線が、左端に沿うように能美線が延びていた。しかし手取川は古くからたびたび氾濫した暴れ川として知られ、能美線ができてからも手取川の洪水によって線路が水没したり鉄橋が流されたりと、この川には相当苦しめられてきた。一方の金名線も結局は手取川に生命線を絶たれたようなものであるし、この鉄道は良くも悪くも手取川とともにあったと言う事ができると思う。
能美線はかなり歩行者・自転車専用道に整備されたり道路化されたりしているが、金名線の方はまだまだ鉄道の匂いがするところも多い。そのため、金名線の探索は距離は少し長いが徒歩がおすすめである。