広尾線はもともとは、苫小牧より鵡川、浦河、広尾を経て帯広に至る鉄道、すなわち現在の日高線と一体になって計画された線区である。現実的には十勝地方随一の都市帯広と、同地方唯一の港である十勝港を結ぶことを主目的として、建設が開始された。比較的広大な平原を通過することが多かったため、それほどの難工事もなく、昭和7年に広尾まで全通した。
なんのことはなかったこのローカル線を一躍有名にしたのは、言うまでもなく「愛国から幸福へ」の縁起切符である。誰が言い出しっぺなのか、幸福駅の開設から17年も経った昭和48年頃から、急激にこの切符を買う人たちが増加したのだという。ピークの昭和49年には年間168万枚も売れ、ブーム自体は鉄道廃止まで続いたのだから、たかが駅名、されど駅名、侮れないのである。その後、このような入場券類の販売増を狙って「いかにも」な駅名が全国各地に目立つようになるが、いずれも話題性や売り上げにおいて、この「愛国から幸福へ」の足元にも及んでいない。
全国に赤字特定地交線廃止の嵐が吹き荒れた国鉄末期に第二次特定地方交通線に選定され、同じ帯広を起点とする士幌線とほぼ時を同じくして昭和62年に廃止となった。その後一時期大物俳優のT.M氏が線路ごと買い取って公園化する計画を立てていたが、いつしかそれも立ち消えとなり現在に至っている。
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おそらく廃線翌年に幸福駅跡で購入 (実は我ながら記憶があまりない) |
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さて廃線跡の概況であるが、広尾線と士幌線の始発駅であった帯広が我が目を疑うほどの変貌ぶりを見せている。15年ほど前に私が広尾線の列車に乗車したときには、たまたま駅構内横の広尾線の分岐する付近のユースホステルに宿泊したため、出発時にスタッフや同宿の客らが線路脇から手を振ってくれた、まあそれは微笑ましい思い出が残っているが、その頃と到底同じ場所とは思えないほどに近代化された。
最近の例で言うと出雲市や福知山、あるいは東舞鶴と同様、駅が高架化され、同時に機関区や客車・貨車の留置ヤードを持っていた広大な駅構内であったスペースが、一大ショッピングセンターに生まれ変わっているのである。ただ、そんな整然と区画整理された中の一角にも十勝鉄道の管理する駐車場があったりして、廃線跡歩きをする私たちにはクスっとさせられたりすることもあるのだが。
広尾線の線路跡そのものは、同じ十勝平野を走っていた士幌線跡と同様、耕地や牧草地を走っていたところは周りと同じ用途の土地に戻されたりして、跡は意外なほど残っていない。道路に鉄道を跨ぐ跨線橋のあった所に立っても、道路側の橋はそのままなのに、辺りを見回しても畑等が広がるばかりで、よく目を凝らしても鉄道が存在していた痕跡はなかったりする。まるで辺りに地殻変動が起こって跨線橋がずれてしまったのではないかと思いたくなるほどである。
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整備中であり、未だ訪れる人は少なくないようである |
が、数カ所の駅跡は様々な形で保存されている。特に、広尾線の名前を全国に轟かせ、一時は収支係数の改善にも寄与した愛国と幸福の両駅は、鉄道記念公園という形で残され、駅前の土産物屋とともに(!!)今でも当時のままである。ただ、愛国駅跡の隅に一時置かれていたという「十勝博」で展示された新幹線0系(今や貴重な存在になりつつあるが)はさすがに見あたらなかった。
この両駅の間に位置する大正駅跡にも1本の島式ホームが残されているほか、中札内や、忠類、大樹、そして終点の広尾駅跡が、鉄道資料館や交通公園等として名残をとどめており、旧駅舎に資料類が保存されていたり、旧構内に若干の車両が置かれている。大概の駅跡には国道から○○停車場線という短い道道が延びているため、地図を持たなくともその発見は容易である。