■ガイド 塚口〜尼崎港間

 この区間は市街地内の廃線跡ということで、線路跡地を所有していた清算事業団が、早い時期から売却を図っていた。

 当初はこんな奥行きのない土地が売れるのかなあと思っていたのだが、現在はかなり新しい建物が建つなど、敷地の再利用化が進んでいる。ただ、用地の形はすべて線路跡の形を残しているので、家が建ったりしていても、線路跡の追跡自体は困難ではない。

 また、塚口〜尼崎間は線路敷があまり道路に沿っていないうえ、立ち入りもできない。ちなみに塚口駅から福知山線を南下すると、複線の線路の東側に、もう1本の線路がしばらく沿っているが(E地点まで)、それがまさに尼崎港に向かっていた線路である。

 JR尼崎駅の西方で、東海道本線をオーバークロスしていた地点では、橋梁こそ廃線後間もなく撤去されたものの、その南北に延びていた築堤は、かなりの間残されていた。東海道線より北側の築堤上には、キロポストのようにも見える白い標柱が建っているのが、東海道線の列車の車窓からもはっきりと確認できたものである。しかし築堤はその後撤去され、今はただの空き地である。

 東海道線より南側についても、なだらかな下り勾配を描いていた築堤は、すでに撤去されているのだが、唯一、F地点にある小さな橋梁跡の橋台のみが、あたかもモニュメントのごとく残っている。この橋台は、明治期の建設を物語るように風格のある煉瓦積みであり、上部にはすでにかすれて読めないものの、白地に黒で橋梁名が書かれていた痕跡も認められる。

煉瓦橋台
東海道線と交差していた地点の南側に  
唯一残っている煉瓦積みの橋台(F地点) 
勾配標
築堤の南端から東海道線方向を望む。勾配標  
も残っていた(平成8年4月撮影・現在はない) 

 それにしても、残されているのはこの橋台付近だけなので、もしかするとわざと撤去されていないのかもしれないが、もう何年もこの状態が続いている。しかし、基本的には道路予定地の表示のある柵の中であるので、早晩消え去る運命なのかも知れない。

 この残っている橋台の北側の築堤上には、短いプラットホーム1本だけの尼崎駅があった。私はこの区間に旅客列車が走っていた頃に、一度だけ尼崎港まで往復したことがある。このころは、まだ客車が2両つながり、川西池田から出ていたころであったが、この尼崎駅は築堤をのぼったピークのようなところにあったので、なんだか自然に減速し、「あれ、信号待ちかな?」というような感じの停車で、横を見るとプラットホームがあってびっくりという感じであったことを覚えている。その頃見ても、相当レトロに見えた駅は、廃止後も数年間、プラットホームや上屋までもが残っていて、都会の中に残った時の流れの忘れ物となっていたが、これもすでに思い出である。

 築堤上にあった尼崎から、築堤を下ったところにあった次の金楽寺までの駅間は、わずか0.5kmの距離しかなく、客車列車の走る国鉄線区では、駅間距離が日本最短であったといわれている。しかし、金楽寺駅跡は線路の西側にあった短いホームも撤去されて、跡は残っていない。

金楽寺駅跡付近
金楽寺駅跡付近の現在  
大物駅付近
阪神大物駅付近の線路敷跡  

 金楽寺駅跡のそばと、阪神大物駅近くの踏切跡に、塗られた警戒色も色褪せた踏切跡の柵が残るほかは、国道との立体交差地点もすでに国道が地平に降ろされていて、少々面白くない道中が続く。そして、阪神電車の高架の下をくぐり、さらに阪神高速道路神戸線と国道43号線の高架の下で急に右カーブをきると、線路跡のカーブの形を残す日通尼崎支店の建物が見えてくるが、この先に尼崎港駅があった。

看板
尼崎港駅跡にある日通施設の入口にある  
看板には「尼崎港駅長」の文字が・・  

 戦前から戦中にかけての全盛期には、電報が打て、旅客扱いの列車を一日10往復迎えていた駅であるが、戦後みるみるうちに衰退し、廃止前の旅客扱いの列車はわずか一日2往復、実質は貨物駅であった。広かった構内はそのまま日通の流通センターに置き換えられて、跡は全くと言っていいほど残っていないが、門の脇の柵にある注意書きの肩書きが「尼崎港駅長」のままなのが、ここに駅があったことを主張しているかのようだ。

 しかし、ここが尼崎随一の繁華街であったことは、全く信じられない。駅前には市役所があり、東西方向に大商店街がのびて、大変賑わったそうである。その商店街をつぶして国道43号線や阪神高速ができたため、当時の痕跡は全く消え失せて、工場や倉庫の目立つ現在の姿になったのだという。

 わずかに繁栄の跡を見出そうとすれば、駅跡北側にある城内小学校が、この尼崎城本丸跡に開設されたのが明治17年で、百年をゆうに越える歴史を持っていることぐらいであろうか。

 余談ながら、この尼崎港の駅名標は、兵庫県伊丹市のミノルタの工場にほど近い、とある民家の庭先に保存されている(実は私の知っている人の家だったりするが・・・)。道路からもよく見えるような角度で設置してあり、保存状態も良好である。

看板
庄下川越しに尼崎港駅跡を見る。 
橋台が残っている(G地点) 

 さて、尼崎港までの廃線跡は、このように跡もかなり失せてしまっているが、人によってはさらに先の引込線跡のほうが面白いかもしれない。

 尼崎港駅の構内跡の先には、庄下川を渡っていた橋台跡が両岸ともに残るほか(G地点)、その先も「中在家緑地」という名の遊歩道となっている。遊歩道が拡がって公園になっているあたりが、引込線が分岐していたところである。ここから西方の旭硝子、及び日本硝子の工場に向かっていた線路跡は、工場敷地に入る手前の2線の線路があったところが、帯状の空き地となっている。

 一方で、南方の住友金属鋼管製造所へと向かっていたラインは、庄下川を渡っていたところこそまったく痕跡はないが、その先の工場の外壁のカーブが線路跡の名残を残し、そして正門のあたりで工場の中に入っていた跡がはっきりと残っている。

 余談ながら、この住友鋼管の工場は、今でもナローゲージの工場内軌道が現役で元気に活躍しており、道路をよぎるなど縦横無尽に軌道が張り巡らされ、その一部は外部からでも見えるので、そのテが好きな方には面白い場所かもしれないことを書き加えておく。



■おまけ 天神川トンネル

 天神川トンネルとは、川西池田〜中山寺間を横切る天神川という川が天井川であったため、これをくぐっていた、いわゆる天井川トンネルである(A地点、他に東海道線芦屋付近や奈良線、草津線などに例がある)。

 いかにも明治期のものらしい、美しい煉瓦積みのトンネルで、数ある福知山線のトンネルの中で最初だったため、ポータルには1番の番号がふってあったが、塚口〜宝塚間の複線電化がなされたときに、旧線のすぐ南側に長い高架橋をつくって天神川を跨いだことにより、旧線は廃線となった。(私は何度も生で見たことがあるトンネルであるが、残念ながら写真に残していない・・・)

 現在、トンネルのあった川の堤防部分は、コンクリートでかためられて痕跡はない。唯一トンネルの川西池田側にあった踏切跡に警戒色に塗られた柵が残っているだけで、初見の人はここに川をくぐる鉄道トンネルがあったなどとは想像もつかぬだろう。

 このように「本線」の天井川トンネルは跡形もないが、なんとなんと、天神川にはもう一つ鉄道の天井川トンネルがあった。しかもそれは現存しているのである。これは戦時中に、中山寺駅から南西方に延びていた軍用側線によるもので、詳しくは山脇俊秀さんがレポートしてくださっている。因みに場所はB地点である。



■福知山線旧線あとがき

 武田尾付近の廃線跡は、地元の宝塚市がサイクリングロードにしたいという意向を持っていたが、決まらないでいるうちに、上述のようなハイキングコースになった。ここは徒歩以外は探索不可能であり、しばらくは人家の全くない渓谷を行くため、そこそこの装備が必要となる。特に、最後の2つ以外のトンネルはすべてカーブしており中が真っ暗なため、懐中電灯は必需品である。

 また、笹部氏の演習林跡が整備されたのはよいニュースである。小説「櫻守」発表当時、関係者以外は作者でさえも線路に立ち入って近づくことができず、神秘的存在であった桜山は、旧線廃線後、安全に行くことができるようになった反面、笹部氏の死によって肝心の桜が相当少なくなっていたのである。これからも末永く人々に愛される森になってほしいと思わずにはいられない。

 ところで、北山第一トンネル生瀬口付近に、県による治水ダムの計画が持ち上がっている。これが完成すると、生瀬〜武田尾の廃線跡の大半が水没することになる。県は2004年頃には着工したいとしていたが、現在のところ反対運動などもあって、大きな動きは見られない。しかし、この廃線跡の将来が予断を許さない状況であることに変わりはない。

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