2005年4月25日 福知山線5418M、一両目の「真実」

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 桜の季節になった。一年間の私の仕事サイクルのうち、前半で最も忙しい時期が、今年もまたやってきた。

 前章で、地道ながら無理をしないと表現したばかりの阪急が、投資ファンドの影響とはいえ、阪神を統合することを検討しているという、信じられないようなニュースが飛び交う中、新聞社や通信社の、事故1年を機にした取材が増えてきた。先にも書いたように、取材を受けることは私の責務でもあると思っているので、夜まで仕事をした後、21時に待ち合わせをするなどして、取材を受けることが続く。新聞社3社、通信社2社の取材を受けたが、正直忙しい時期なので疲れる。

 この取材における記者の質問の中で、多かったもののひとつが、一年を機に現場に行かれますか?、というものであった。実は、これまで現場検証でたまたま行っただけなので、ちゃんとした形で献花に行こうと思っているのだが、ちょうど一年のタイミングで現場に行って、同じ会社の知り合いに会ったらなんとなく気まずいし、どうしたらいいのだろうと思っていると言うと、ある社の記者が教えてくれた。

「一周年の前日の晩なら、翌早朝からの取材に備えて、記者はいないはずですよ」

 なるほどな、と思った。事故の一周年は、言うまでもなく4月25日であるが、私にとっては忙しい仕事が終わった翌日の月曜日であるという意味で、24日も相応しいかもしれない。この日は仕事があるけれど、それが終わってから、深夜にひっそりと一人で献花に行くのも悪くない。

 24日の夜に訪れることに決めた。


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 23日の日曜日、今年も大きな仕事が無事終わった。疲れた体で起きた翌24日は、あの朝と同じく、晴れていた。

 今年は、電車を使わずに千里に出社し、昨日までの大きな仕事で、借用していた機材の返却に向かう。これは、昨年も私がするはずだったのに、事故にあったために、相手方に連絡さえとれず、多大な迷惑をかけてしまったことでもある。

 昨年も一緒に行くはずだった人と共に、今年は無事できたなあと言いながら、機材の返却をした後、大阪郊外で仕事をこなし、梅田に戻ったら、すでに23時前になっていた。献花のための花を買おうにも、こんな夜遅くに開いているのは、繁華街の花屋くらいしか思いつかない。多少、場違いであることを承知で、普段は華やかな場を盛り上げる花しか作らない筈の、繁華街のとある花屋に事情を話して、花を作ってもらう。

 この時点で時計が24時を回った。まさに事故から1年の日になったのである。先述した意味でも、正確な一周年という意味においても、実に今この時間こそが、私にとって現場を再訪するに相応しいタイミングであると感じる。

 タクシーを拾い、あの現場へと向かう。この運転手は事故現場に向かうのが初めてらしい。これまで、不思議と現場に向かう客と巡り会わなかったそうで、あれから1年なんですね・・・と感慨深げだ。

 私が道案内をして、現場への入り口に車が止まった。車から降り立つと、係員が一人立っていて、私に向かって、無言のまま深々と礼をする。もうすでに深夜であるから、ただでさえ静かであるのに、ピンと張りつめた空気が、なお一層静寂を増しているかのようだ。ここが、通常の場所ではないことを実感する。

 ここに立っている人が、JR西日本の職員なのかどうかは知らないが、このひと個人に責任があるわけでもないのに、ずっとこうして頭を下げ続けることは、精神的に大変なことであろうと思いながら、一人通路を進んでいく。

 まもなく自分の左側に、あの日、5時間にわたって己の限界と闘った、あの駐車場ピットが見えてきた。自分の歩いている通路の柵によって、ピットのすぐ脇には行けないようになっているが、普段は立ち入れないはずの、この柵の向こうのピット脇に、20を越える花が手向けられている。(後日知ったことではあるが、私のような負傷者もお願いをすれば、この場所まで入らせてもらうことができるらしい。)

 私にとっての「現場」は、まさにこのピットの中である。

 今は至近までは行けないので、ピットの底の方は見えない。そのかわり、自力では何もすることが出来ず、無力感をもって見上げるしかなかったあのコンクリート天井は、照明もあたっていて、よく見えている。

 構造上、雨水が入らないために、打ちたてのように真白いままのコンクリートに見入る。あのあたりが、私が見ていた天井なのだろうか・・。だが、あまりにすべてが小綺麗に整理されているので、ここが同一場所であると判っているのに、ピンとこない。あのあたりから、こういう感じで運び出されて、今立っているあたりで、救急車に乗せられたのだと、目の前にひろがる画に、当時のさまを必死に思い描くが、やはりあの時のことは、そのこと自体があまりに現実離れした光景だったこともあって、絵空事か幻かのようだ。

 ただ、よく見ると、ピット部分の長さは、機械式駐車場のわずか車3台分の横幅しかない。7〜8メートルほどであろうか、このような狭小なスペースに、長さが20メートルある先頭車両が、横倒しになったまま、まるまる1両入り込んでしまったのだ。先頭部は左に折れ曲がって下に落ち、後方は押しつぶされて、残された空間が僅かであったことは、容易に想像できる。改めてその狭さに驚く。

 手を合わせながら、いろんなことを思う。このマンションの1階部分が、このような駐車場ピットでなく、通常の居室等であったならば、この私が今、こうしておれなかったろうことは間違いない。また、私がもし、瓦礫の下の医療による点滴を受ける直前に救出されていても、挟まれていた時間が短いにもかかわらず、クラッシュ症候群によって、かえって命が危なかったであろうことも事実だ。いろんな偶然が重なって、今ここに自分が立っている。

 ここが、考えたくもないような修羅場になった1年前、助けられる立場から見て、救急関係の連携がとれているように感じた。入院中に、自分が運ばれた病院の救急医の方に尋ねたところ、阪神大震災での災害医療の反省をふまえ、一年に数回、阪神間広域の救急訓練をしているとのことであった。そのため、いろんな病院の医師や救急隊員が、現場で互いに顔見知りになっていたケースも多々あって、あの緊急事態において、有効な横の連携も働いたようだ。

 阪神大震災は誠に不幸な大惨事であったが、このように、震災をきっかけによくなったことが、一つはあった。この痛ましい列車事故をふまえて、何かがよくなるだろうか。いや、何かを改善せねばならない───

 ピットに向かってしばらく手を合わせた後、さらに奥にある献花台へと向かう。

 深夜にもかかわらず、ここでも2人が立っていて、無言のまま、頭を下げている。献花台の北側は報道スペースになっていて、脚立が林立しているが、この2人以外は誰もいない。夜が明けると、たくさんの人が訪れるはずだが、今は静かだ。ひとり思いに耽りながら、手を合わせる。

 よく亡くなった人に対して、冥福を祈ったり、安らかにお眠りくださいという言葉を使う。冥福とは、死後の幸福という意味だという。しかし、私があの時、あのまま命を落としていたなら、とても死後も幸福であったり、安らかに眠れるはずがない。なんでこんなことで命を落とさなければならないのだ・・・と、それこそ何十年、何百年経っても、地獄の底から関係者を恨み続けているはずだ。

 亡くなった107名のうち、少なくとも106名は、命を落としたくなかった人たちだ。同じ事故に遭いながら、現世に踏みとどまった私に冥福を祈られて、106の御霊はどう思われるだろうか・・・ しかし、生き残った私がこの場所でできることと言えば、やはりご冥福をお祈りすることしかない。ある意味「逃げ」であるかもしれないが、こうするしかないのだ。そして、生き残った者の責務を、改めてここで誓う。私も鬼籍に入った折に、皆様にちゃんと報告できるように。

 もう一度、自分にとっての現場で歩みを止める。タクシーを待たせている時間が長くなった。また再訪することを誓って現場を後にした。


                            −了−


 今回、自分が生命の危機に直面しただけでなく、私の知っている方や近所の方も亡くなりました。大量輸送機関である鉄道が、現代になってなお、これほど前時代的なレベルの事故を起こしたことは、自分が被害を受けたことを差し引いても、大変ショックに思っています。
 生き残った者の一人として、今後、JR西日本の「更正」を監視していく責任があると思っています。その一方で、これだけの事故も、風化しつつある現状があります。「安全性向上計画」が実際にどれほど実現できているか、企業風土の改善は進んでいるかなど、随時報告を求めていきます。

吉田恭一  
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